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第三話 離礁作戦(中編)

 一九三七年九月九日 午後

 客船『浅間丸』船長室



「ディーゼルエンジン四基をこの場で解体、推進軸ごと全て陸揚げしましょう」


 宮崎主任の発言に、各務副長と金子船長の二人は言葉を失った。何時間にも感じるような長い数秒を経て、我に返った各務副長がようやく一言反駁した。


「……全部、ですか?」

「はい、全部です」


 宮崎主任は情け容赦なくそれを肯定すると、よろしいですか、と問うように二人の顔を見て説明を続けた。


「エンジン四基と推進軸四本で約一〇〇〇トンにはなるでしょう。船体上部と諸々の備品とあわせて二五〇〇トンは減らせる。これだけ減らせば、喫水の不足は半分以下になっておよそ二フィート。海底の掘り下げも現実的な程度で収まるかと」


 一息にその理由を言い切った宮崎主任に、各務副長がやっとのことで異議を唱えた。


「少々待っていただきたい。もし推進軸だけならば、おっしゃるように四本全部を撤去しても離礁の暁にはこの場で修復できます。しかし、船の心臓部たるエンジンはそうはいきません。四基全てを撤去してしまえば、離礁に成功しても日本までの一〇〇〇海里(約一八〇〇キロメートル)を曳航していくことになります。これは容易なことではありません」


 さらに、船の一番底にある重量物であるエンジンを全て撤去してしまうと、重心が上がりすぎて転覆の恐れが出てくる。その点も各務副長は挙げた。 それに対し、宮崎主任はかぶりを振って答える。


「その点につきましては、船体上部の重量削減によって重心をなるべく下げるようにします。肝心なのはやはりエンジンです。二基を残せば五〇〇トンの増し。これでは十二月の大潮にはとても間に合いません」


 各務副長はそれを聞いて渋面を作り、しばらく何かを考えるように椅子の背もたれに体を預けた。十数秒後、彼は姿勢をただしておずおずと口をひらいた。


「私としてもそちらの分野に立ち入るのは申し訳ないのですが、どうでしょう、海軍が沈船引き揚げに使っているような浮力タンクを使うのは」


 各務副長の提案は、まあそのままといえばそのままなのだが、海軍の各工廠が沈船引き揚げ用に装備しているような浮力タンクを船体に抱かせて浮力を補おうというものだ。話に出た海軍の五十トン大型浮力タンクならば十個でエンジン二基に相当する浮力が稼げる。

 しかし、実のところ宮崎主任には沈船引き揚げの経験がなく、また、このような大仕事に未経験の技法を使いたくはなかった。そのため、浮力タンクの効用を熱心に説く各務副長に対し、宮崎主任は確答をさけた。

 第一、浮力タンクはそう安い代物ではないし、一朝一夕で用意できる物でもない。内心、この時点では宮崎主任は『浅間丸』救出に浮力タンクを用いることは不可能だと考えていた。


 結局、エンジンを全て撤去するか、半分だけ撤去して浮力タンクで補うかの結論は先延ばしにされた。

 結論こそ先延ばしにされたが、かといって作業ができない訳ではない。玉石や岩盤の除去は既に始められているし、タンク内の重油・清水の抜き取りや船内の備品撤去も進められている。四本の推進軸とディーゼルエンジンのうち二基も解体することができる。

 また、岩盤の除去に使用される火薬も手配され、その使用に関する許可の取り付けも香港官憲に対して行われた。ディーゼルエンジンの解体については、この船を建造した三菱造船長崎造船所に依頼することが決まり、技師の派遣も要請された。


 翌日から作業が本格的に始まった。何しろ時間が無い。今が九月の頭であるから、十二月中旬の期限まではほぼ三ヶ月しか残されていないのだ。そのため、作業はそれこそ夜明け前から日没後まで連日休みなく続けられた。

 『浅間丸』の重量削減作業は、重油・内装・消耗品については『浅間丸』の乗員が担当し、船外の重量物については日本サルヴェージの作業員が加勢した。撤去したラウンジの窓ガラスや救命ボート、食器類や家具調度品などの物品は日本郵船が手配した貨物船に積み込まれ、復旧工事を請け負う予定の三菱造船長崎造船所に次々と輸送されつつあった。撤去する物品の中でも一番の大物であるディーゼルエンジンと推進軸は右舷の外板をはずしてそこから運び出し、エンジン用に手配した船がくるまで太沽船渠の敷地内に間借りして保管することになった。

 また、玉石の除去も進められた。海底にある玉石を潜水夫がずだ袋に入れて引き上げ、『浅間丸』の傍らに浮かぶポンツーンに載せられる。そこからクレーン船や『浅間丸』自体のデリックによって吊り上げられ、端艇甲板から陸地へと渡されたワイヤーを使って岸辺の近くまで運び、そこへ投棄するのだ。

 一方、それらと平行して左舷側から行われている海底の掘り下げは芳しい状況ではなかった。

 なぜなら、火薬の使用許可がなかなか降りなかったからである。なぜ、火薬の使用に官憲の許可が必要なのか。その理由は『浅間丸』の座礁地点にあった。

 『浅間丸』の座礁した英領香港は、一八五二年の南京条約で当時の清からイギリスに永久割譲された香港島と、一八六〇年に割譲された九龍半島南部、及び一八九八年に九九年間の期限つきで租借した九龍半島基部と付属諸島からなっている。九龍半島先端部と香港島にはイギリスの極東権益を守るために要塞が築かれており、『浅間丸』の座礁地点は要塞地帯のすぐそばだったのだ。船橋から要塞の鉄条網や砲台が見えるような所でそうおいそれと火薬の使用許可が出るはずもなく、ようやく許可が降りたのは一週間の後で、しかも厳しい回数制限が課せられていた。


 そうはいっても、初期計画策定から十日、火薬の使用開始から三日もたつと作業は軌道にのりはじめる。

 実際、一日二回に制限されているとはいえ火薬の威力は手作業とは比較にならない効率をみせた。作業が順調なのを確認した各務副長は、一旦協議のため『照国丸』で内地へと帰還した。


 その翌日、海底の掘り下げを妨げるもう一つの障害が姿を現した。その障害は今度は自然的なもので、岩盤そのものにあった。先の潜水調査では、岩盤は船体中央部に僅かに露出しているのみであった。とはいえ、岩盤が前後の玉石の下まで広がっている、という恐れは十分にあった。その宮崎主任の危惧が現実のものとなろうとしていたのだ。



 『浅間丸』小会議室兼設計室



「何だと……!?」

「黒御影の岩盤はかなり前後に広がっております。具体的に言えば──」


 潜水夫の話によると、最初の潜水調査にて玉石に覆われていた海底は実は岩盤に覆われていて、その上に石が乗っている状態だったということだった。『浅間丸』の竜骨キールから左右に伸びて船体を構成する二一三本の肋骨フレームで言えば、船首から数えて九〇番目と一二一番目の間、右舷側全ての海底において玉石のすぐ下が岩盤であったのだ。

 それを聞いて宮崎主任は歯噛みする。これでは到底予定をこなしきれない。


「わかった。至急、本社の方に作業員の応援を頼もう」


 日本サルヴェージ本社へと連絡をつけた宮崎主任は、急ぎ幹部を召集し善後策の協議にはいった。

 しかし、その善後策が煮詰まらないうちにさらに事態は悪化していった。海底から玉石を取り除く度に岩盤の範囲は広がってゆき、その週の末には七〇番フレームの付近までを覆っていることが明らかになったのだ。


 設計室として製図用具や図面が雑然と広げられた元一等小食堂には重苦しい空気が立ち込めていた。南方特有の蒸し暑い気候も影響していたが、主な原因はその場にいる男達の表情が一様に暗いことだ。


「これは……」


 技師の一人が呻き声をあげる。彼らの目前にある書類には、絶望的な数値が羅列されていた。報告書は専門的な内容が事細かに並んでいたが、一言でいうとこうだ。


 離礁作業完了までの所要日数、二〇〇日超。


 十二月の大潮には、到底間に合わないということだ。

 もうダメだ、そんな空気が場を支配しようとしていたその時、一人の技官が声をあげた。


「あの、どちらも、という訳にはいきませんか?」


 確かに、理論上は浮力タンクとディーゼルエンジン撤去の浮力を合わせれば除去すべき岩盤は大幅に減り、玉石の下がすべて黒御影石の岩盤だったとしても作業スケジュールは常識的な程度の努力で大潮までに達成できるだろう。

 しかし──


「ディーゼルエンジンの四基撤去を郵船が飲んでくれれぱな……」


 ディーゼルエンジンの全撤去には日本郵船側が反対しているのだ。これが覆らない限り日本サルヴェージ側としても打つ手はない。

 会議が散会した後、主任は無線でこの案を本社へ連絡し、本社からの郵船側への何らかの援護射撃があることを祈った。

 そして、援護射撃は意外な所から放たれることとなった。



 九月十七日 東京 海軍省



 日本郵船の各務副長はこの日、海軍省を訪れていた。目的は浮力タンクを借り受けることができるかについて海軍と交渉することである。

 交渉自体は各務副長が内心期待していたとおりとんとん拍子で進んだ。元々、浅間丸のような大型優速の貨客船は海軍の資金や資材の援助を受けて建造されたものが多く、いざ戦時となれば仮装巡洋艦や特設母艦などの軍艦に準ずる艦に改装するつもりであっため、その復活に協力するのは海軍当局としてもやぶさかではない、ということだ。また、各鎮守府の工廠にそのような設備がすでにあったことから、海軍は浮力タンクをこころよく貸し出してくれることになった。

 とはいえ、実際に貸し出されるのは一ヶ月弱後のことであり、横須賀から五個、呉から四個、舞鶴から一個貸与されるそれを受け取りに行く船はこちらで用意せねばならないが、お役所仕事と考えれば十二分に協力的で迅速だ。あまり一般人には馴染みがないかもしれないが、海軍だってお役所なのだ。

 交渉が順調に終わったことに胸を撫で下ろす各務ら日本郵船サイド。そこへ海軍サイドのとある佐官から、そういえば、と各務に声がかかる。


「離礁はいつ頃になりそうですかな?」


 各務にとって顔見知りとなる少佐の問いかけに、順調に事が運べば、と前置きして答える。


「日本サルヴェージの方からは、十二月の大潮には間に合わせたい、と伺っております」


 その言葉を聞いて、海軍サイドが顔を見合わせて露骨にホッとした表情を見せる。

 当然、各務らはそれを怪訝に思いやんわりと問いかけるが、海軍サイドにはかわされる。それでも、と問い詰めると、しぶしぶといった風で、軍機なので吹聴しないように、と念押しして衝撃的な事実を明らかにした。


「実は、来年の頭ごろ陸軍さんがバイアス湾への上陸作戦を計画しているそうで──」


 バイアス湾とは、香港の存在する九龍半島のすぐ東隣に位置する湾である。大亜湾とも表記される。

 当時、日本と中国は事実上の戦争状態にありながらも互いに宣戦布告はしておらず、国際法上の戦時とは言い難かった。そのため双方とも他国との貿易は続行していたし、公海上での臨検などの通商妨害は行えなかった。そして、日本の国力を消耗させ、中国における影響力を弱めたい欧米列強はこぞって貿易の形をとって中国を支援し、海軍力に勝る日本が主要港を奪取してからは陸上ルートを使って支援するようになった。これを、当時の中国政府主席蒋介石の名をとって援蒋ルートと呼ぶ。

 この忌々しい援蒋ルートを遮断するには、その喉元を締め上げる必要がある。つまり、他国の船舶や領土には手を出せないので、その隣の中国領土を占領してしまおうというのだ。


「バイアス湾……バイアス湾!? それは……!?」

「ええ。香港には弾薬などの物資はいうに及ばず、大砲や自動貨車トラック、果ては戦車や戦闘機までが公然と陸揚げされ、広九線(広東~九龍を結ぶ幹線鉄道)を伝って次々と国府軍(中国国民党軍)に流れこんでおります」


 つまり、香港そのものではなく香港から運び出すルートを押さえてしまおうという訳だ。これなら少なくとも表立っては英国も何も言えない。

 だが、そのようなことをすれば確実に英国の態度は硬化し、有形無形の圧力を加えてくるだろう。例えば、要塞地帯への日本人立ち入りを禁止する、とか。そうでなくとも、香港周辺が戦闘地域になれば、『浅間丸』を香港の要塞地帯のただ中に置き去りにせざるを得ないのは確実だ。


「くれぐれも、他言無用で頼みます」


 そう言って席を立つ少佐達。それを椅子に体を預け呆然と見送りながら、各務は一つの結論に達した。ここは賭けに出るべきである、と。

 最早、離礁後に曳航する困難を四の五の言う時ではなく、船の心臓をえぐりとってでも彼女を暗礁から救いだすべき時なのだと。


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