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第二話 離礁作戦(前編)

 一九三七年(昭和十二年)九月七日

 香港 『浅間丸』座礁地点



 本来なら『浅間丸』が香港を出港するはずであったこの日、日本サルヴェージの宮崎主任技師と指揮下にある作業員を乗せた救助船『祐捷丸』が香港に到着した。

 台風の通過から一週間弱経った香港の空はきれいに晴れ、熱帯特有のきつい日差しと濁った海面が南方に来たのだということを否応なしに感じさせる。


「前方に『浅間丸』を視認」

「汽笛鳴らせ」


 救助船『祐捷丸』が現場到着の合図に汽笛を鳴らすと、暗礁の上に座った『浅間丸』がまるで己の境遇を恥じ入るように応えた。

 『祐捷丸』が暗礁のそばに停泊すると、宮崎主任はボートを海面に下ろして随員と共に『浅間丸』へと向かった。



 『浅間丸』船長室



 『浅間丸』に到着した宮崎主任は、D甲板の舷門に下がった縄ばしごを登り船内に入ると、首席一等運転士の案内で五階層上の船長室へと案内された。

 白い夏用の制服に身を包み来客を出迎えた金子船長は、宮崎主任に客用の安楽椅子をすすめ、自らもその向かいに丸テーブルをはさんで座った。

 目を真っ赤にし、憔悴しきった表情の金子船長は宮崎主任が椅子に腰掛けるなり、


「面目ありません」


 と、項垂れた。

 宮崎主任は、毎度のことながら自責にさいなまれる船長に対するのはつらいものだと思いながらも、それを顔に出さないよう話を始める。


「ところで、先日無線で指示しておいた船固めの件ですが」

「ご指示の通り、予備の錨を入れ、二重底にも注水致しました」


 この四日前、香港へ向かう救助船『祐捷丸』から『浅間丸』へと無線で指示していたものだ。人間に例えていうなら、医者が到着するまで患部を動かさないようにしておく、というものにあたるだろうか。


「結構です。では、本式に船固めをして、現場の検分にあたりますので。後はおまかせ下さい」


 横田副主任の指揮のもと、日本サルヴェージが用意した大錨を船首右舷に投入し、これに錨鎖二連(五十メートル)と錨索三丸(六〇〇メートル)を連結して船首に張っていった。その作業と平行して、『祐捷丸』の潜水夫四名が『浅間丸』から圧搾空気を供給されながら、海底の地質や船体の損傷具合などの救助作業の基礎根幹となる情報を集めていった。

 一方、船長室に残った金子船長と宮崎主任は遭難状況の聴取に移った。沈痛な面持ちで、金子船長が航海日誌をめくりながらあの嵐の晩に起こった出来事とその状況を語りだした。


「遭難の数日前から、たまたま本船は太沽船渠で定期検査に入っておりました。そのため喫水がかなり浅かった。船渠の岸壁を離れましたのが今月一日の午後──」


 その後、ジャンクベイに投錨し、嵐がやってきた段になると船長の顔色が段々血の気を失ってゆき、伊客船『コンテベルデ』との衝突、走錨、英客船『タランバ』との接触の段に話が及ぶと、頭の傷口が痛むのか絆創膏をしきりに気にするようになった。そして漂流、座礁という段になると、金子船長は半分病人のようになったのではないか、と、ノートに話を整理しながら聞いていた宮崎主任に思わせるほど憔悴の色を深めていた。


 事情を聞き終える頃には、窓の外の景色はすっかり橙色に染まっていた。

 電灯が点いた室内で、金子船長は宮崎主任に遠慮がちに問いかけた。


「宮崎さん、本船は、『浅間丸』は助かるのでしょうか」


 宮崎主任は言葉につまった。話の途中であがってきた潜水夫からの報告では、状況は決して楽観できるものではなかったからだ。希望を持たせてから絶望の淵に叩き込むような残酷な真似をしたくはなかったのだ。


「それはまだなんとも。状況は芳しくない、としか今は申せません」


 即答を避けた宮崎主任に、金子船長は重ねて問いかける。


「……望みは、ないのでしょうか」


 その問いには、宮崎主任もきっぱりと否定した。


「いえ、結論を出すには早すぎます。ともかく、確約はしかねますが、非常手段を含めたあらゆる手法をもって全力を尽くします」


 この“太平洋の女王”を救い出せるか否かは、日本サルヴェージに、ひいては宮崎主任に課せられた国家的使命であった。


「くどい質問でした。この非常時にこんな……」

「お察しします」


 大陸での戦乱はもはや全面戦争の様相を呈していた。

 この年、昭和十二年(一九三七年)七月、盧溝橋での銃声に端を発した日中の武力衝突は、現地での調停への努力も虚しく度重なる邦人虐殺事件を経て本格的な戦乱へと激化していた。国際法の中立条項に抵触するのを防ぐため、双方宣戦布告を行わずに“北支事変”と呼称された実質的な戦争の幕開けである。

 『浅間丸』が座礁した九月、それまで“北支事変”と呼称されていた宣戦なき戦争はとどまることを知らない戦線の拡大により“支那事変”と名称を改め、早くも人民の海の中で泥沼の戦いへと移行していた。

 ここ英領香港は戦いが起きている北平(現在の北京)や上海とはかなり離れている。しかし香港市内には抗日感情が渦巻いており、すでに在留邦人のうち女性と子供は内地へと引き揚げ始めており、残る男性も英国当局の保護の下、午後六時以降の外出を禁止されていた。


 だが、『浅間丸』はそんな空気とは無縁であった。座礁したとはいえ、帝国ホテルに比肩するとも言われた設備は左舷側の一部以外はほぼ無傷であり、乗り移ってきた日本サルヴェージの作業員を収容した。主任ら幹部職員は一等客室、その他の作業員は三等客室を宛がわれ、『浅間丸』乗員との絆を深めた。また、会議室には一等食堂を、設計作業室にはその脇の一等小食堂を準備することが決まった。



 一九三七年(昭和十二年)九月八日



 翌日も続けられた潜水調査の結果、船体の損傷状態と海底の様子がおおむね判明した。

 『浅間丸』をとらえた暗礁は、船体中央部の一部で岩盤が露出している以外は、大小の玉石が船体の前後部に積み重なっていたのだ。



 『浅間丸』一等小食堂



 設計作業室となった小食堂に報告に訪れた最先任の潜水夫の説明を聞き、宮崎主任は胸を撫で下ろした。


「なんだ、船長の寿命を無駄に縮めてしまったじゃないか。岩盤がそれだけなら作業も容易だろう」

「岩質が“これ”でもですか?」


 潜水夫が懐から取り出したものを机に置く。ゴトッ、と重い音をたてたそれは、黒い緻密な結晶の中に透明なガラス状の小さな結晶がういた拳程度の大きさの石だった。


「これは……黒御影!?」

「はい、岩盤も玉石もほぼ全て黒御影でした」


 黒御影とは、班れい岩の一種で黒色の岩石である。スウェーデン産やインド産のものが高級品とされ、非常に硬く、磨くと艶が出ることから高級建材や墓石としてよく使われる。


「そうか、確かに楽観はできそうにないな」

「それだけではありません」


 潜水夫の言うには、積み重なった玉石のすぐ下にも広く岩盤が広がっている公算が大とのことだった。


「なるほど。で、船底の損傷状態はどうだね?」

「右舷側は損傷なし、左舷側に亀裂が数ヶ所入っておりました」


 しかしその亀裂も致命的なものではなく、救助船の設備で十分に応急処置が可能ということであった。

 報告を聞き終わった宮崎主任は、甲板で作業を済ませた横田副主任と設計室に缶詰めになって初期救助計画の作成を急いだ。南国の蒸し暑い空気を電動通風機が全力運転でかき回すが額に流れる汗は引かず、『浅間丸』のボーイが届けてくれるかち割り氷だけが何よりの癒しであった。



 一九三七年(昭和十二年)九月九日



 日本郵船の各務海務課副長が自社船の『箱根丸』で英領香港に到着、現場入りした。また、日本サルヴェージの作業員が『箱根丸』が運んできた大錨を追加で船首付近へと投入し、船固めを万全のものとした。

 その日の午後、丸二日近くをかけた初期救助計画の策定が完了した。計画書を携えた宮崎主任が船長室を訪れると、既に各務海務課副長と金子船長が席についていた。

 計画策定を待ちわびていた各務副長が気忙しく説明を促す。金子船長もその横に座っているが、どうもいたたまれないような様子である。宮崎主任は、居心地が悪そうな金子船長を脇目で見ながら、努めて平静な口調で話しだした。


「お二方もご存知の通り、座礁中の『浅間丸』はかなり船底が露出しております。本日は小潮ですが、正午の満潮時でも喫水は八フィート(二メートル半)ばかり不足しておる状態です」


 宮崎主任も緊張しているのか、無意識に顎ひげを弄くりながら続けた。


「ですが、これが最大潮高ではありません。香港では、十二月中旬の大潮が最大潮高です。今より三フィート半(約一メートル)は潮が満ちます。離礁は干満差が最大の大潮にあわせて行うのが常道ですので、できればこの時期には決行したいところです」


 月と太陽の位置関係によって発生する起潮力により、だいたい月に二度づつ海は大潮と小潮を繰り返す。暗礁に乗り上げた船を曳きおろすのに最も都合が良いのが大潮の日の満潮なのは当然だ。しかし、一口に大潮といっても、地球の公転や気候、地形の影響によって毎回潮の満ち具合が違う。宮崎主任が言うように、一年で最も潮が満ちる日は後三ヶ月ばかり後に迫っていた。


「その時期を逃しますと、後は急激に干満差がなくなりまして、三月が一年で最も差がなくなります」


 話を聞いていた各務副長が言葉をはさむ。


「では、その機会になんとかならないものでしょうか。香港の対日感情は悪化する一方です。なにかある前に離礁させたいのです」


 宮崎主任も頷きを返して同意する。


「ええ。私どもでも勝負は十二月だと考えておりますが、一つ問題があるのです。最大まで潮が満ちたとしても、喫水は五フィート強(二メートル弱)不足している計算です。これは浮力になおすと約四〇〇〇トンになります」


 トン数で言われたとてピンとこない人が多いだろうが、これはちょっとした巡洋艦や中型貨客船の総重量に匹敵する。


「しかし船体の重量を減らそうにも、積み荷はなし、重油と清水は半載。これでは到底四〇〇〇トンの重量削減は困難です」


 座乗の前日まで、『浅間丸』は太沽船渠で定期検査に入っていた。ドックに入り、船底のカキ殻をこそいだりお色直しをしたりするため、普段の航海では満載しているはずの物を陸揚げしてしまっていたのだ。

 各務副長の横に座る金子船長は拳を固く握り締め下を向いている。


「そうなると、海底を掘り下げて喫水の不足を補い船体を浮揚させることになりますが……」

「難しいのですか?」


 堪らず各務副長が問いかける。


「はい。海底の岩質や岩盤の分布を見るに、五フィート全部となると十二月中旬の大潮には間に合いません。そこで、非常手段を講じます」


 宮崎主任は一拍間をおいて続けた。


「まず、船内の降ろせる物は全て降ろします。ウインチ、デリックポスト、巻き上げ機械、錨、救命艇。さらに、水密扉や遊歩甲板の大型ガラスやハッチの蓋も外してしまいます。それから、客室のベッドやマットレス、食堂の大テーブルに調度品もです。あとは、こまごまとした消耗品や備品も、ナイフの一本から石鹸の一欠片まで一切合切揚げてしまいます。これで一五〇〇トンは減る」


 だが、まだまだ目標には到底及ばない。

 宮崎主任は、一度呼吸を整えると思いきったように言った。


「ディーゼルエンジン四基をこの場で解体、推進軸ごと全て陸揚げしましょう」


 各務副長と金子船長は思わず目を見開き絶句した。この男は一体何を言い出すのか、非常識極まりない、と。

 だが、宮崎主任は本気であったのだ。


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