第一話 豪華客船『浅間丸』の受難
一九三七年(昭和十二年)九月一日
英領香港
この日、英領香港には嵐が近づいていた。朝のうちは晴れていた空が昼には曇りだし、夕刻には祉旗山にも雲がかぶった。西寄りの風が次第に強まり、海面が白く波立ちはじめた。これらは明らかに大型の台風が近づいている兆候である。既に香港測候所は大型台風接近の非常警報を発令していた。
そんな中、将軍澳に波に揺られて停泊する一隻の豪華客船があった。その優美さから“太平洋の女王”と称えられ、商船としてはあまりに過酷で劇的な運命を辿ることとなる。彼女は名を『浅間丸』といった。
『浅間丸』は、日本郵船の保有する一万七千トン級浅間丸型客船の一番船で、姉妹船の『龍田丸』『秩父丸』と共に当時の最重要航路の一つである桑港線に配船されていた。
サンフランシスコ線は、ロサンゼルス〜サンフランシスコ〜ホノルル〜横浜〜神戸〜上海〜香港を結ぶ太平洋の花形路線であり、日本政府が補助金を出して保全する、貿易の促進や郵便の定期輸送、戦時に補助艦として使う優良商船やそれを動かす航海要員の確保などを目的とした命令航路の一つであった。そのため、大正時代にサンフランシスコ線を経営していた東洋汽船が経営危機に陥ると、当時の日本海運界随一の存在である日本郵船との合併を斡旋するなどの便宜をはかりその存続に努めた。この時、老朽化し米英の新型船に打ちのめされていた天洋丸型の代船として、政府からの資金面での援助と便宜供与を得て建造されたのがこの浅間丸型である。
『浅間丸』の建造は、折しも当時、不況と軍縮の煽りを受けて経営難に陥っていた三菱長崎造船所に発注され、久方ぶりの大仕事によって造船所を潤わせつつ一九二九年(昭和四年)九月十五日に竣工した。その年の十月十一日に『浅間丸』は処女航海を迎え、船首に日本郵船の“二引き”の社旗、船尾に日章旗を誇らしげに掲げて横浜港の岸壁を離れた。
それから八年、第四六次航海を終え、香港にて四年に一度の定期検査に入った『浅間丸』に大きな災厄が襲いかかる。
香港は太沽船渠にて大半の検査を終え、船底の清掃や塗装の塗り替えを行って装いを新たにした『浅間丸』は、船渠の指定した将軍澳に錨をおろし、荒天に備えていた。
将軍澳は、香港の陸側にある九龍半島の東側の湾で『浅間丸』の他にも何隻かの船が入泊することになっていた。
『浅間丸』のブリッジで、傍らの首席一等運転士に荒天準備を命じた金子文左衛門船長には一つ気がかりなことがあった。
「まずい、喫水が浅すぎる……」
検査のために積み荷の全てと燃料や清水の半分を陸揚げしていたため喫水が浅いのだ。船橋の黒板に書かれた最新の平均喫水は二三フィート(約七メートル)、普段の喫水より二〇パーセントも浅くなっている。喫水が浅いということは横風を受ける面積が増えるということであり、当然重量も軽くなっていることから荒天には非常に弱くなっていることを意味する。
船長は天を呪うかのように乱雲を睨むが、そんなことはお構い無しに雲脚は速くなるばかりである。
荒天に対する準備は着々と進められていた。
船体の開口部は全て閉鎖され、救命ボートも一部を除いて固く縛り付けられた。強風で切れてしまわないように無線のアンテナが緩められ、甲板には転落防止のため命綱が張られた。また、万一のためにディーゼル機関の半数が運転用意に入る。
船長、次席一等運転士、次席二等運転士らは航海船橋に。首席一等運転士、次席三等運転士は船首甲板に。首席二等運転士は船尾甲板に。高級船員たちが要所要所を固め、甲板部の職員たちが船内各所で荒天配置につく。
もはや、人間ができる備えは全てやり尽くした。後は天に祈るのみだ。
雲の走る空から光が急速に失われ、あたりは闇に包まれた。嵐はさらに強まり、船首が風に立って船体が8の字を描き始める。
湾内には、独客船『グナイゼナウ』号、伊客船『コンテベルデ』号、英客船『タランバ』号など『浅間丸』の他に五隻が投錨していたが、既にその姿は雨に霞んでおりその全容は定かではない。嵐の中、光源と呼べるものは船橋の窓の光を除けばマストのに掲げられた白色の停泊灯のみであった。
風雨に閉ざされた薄暗がりを海の男達が透かすように睨みつける。船長以下当直に立つ船員の皆が、僅かな異常も見逃すまいと各々の現場で目を光らせているのだ。
日付が変わろうかという頃、台風はいよいよ香港に近づいた。雨は滝のように窓を叩き、雷鳴は怒り狂ったように轟く。風はますます強く吹き荒び、稲妻は天を覆わんばかりだ。
絹を裂くような女性の叫び声にも似た風切り音と戦闘機の機銃掃射を思わせる雨粒が織り成す嵐のオーケストラは、いよいよ山場を迎えていた。
船を繋ぎ止める錨鎖は今にもちぎれそうなほどに張り詰め、また逆に錨が海底から外れそうなほどに緩み、それを懸命に保とうとする船員たちが揚錨機にかじりつく。防水カッパに身を包み、決死の覚悟で作業にあたる彼らに、船首の舷側を軽々乗り越えた大波が牙をむく。
甲板員の死闘をただ見守ることしかできない船長たち高級船員の焦りはじりじりと高まるばかりだ。
「錨はもつのか!?」
「もたせてみせます!」
航海船橋と船首を結ぶ電話線を怒号が飛び交った。
その時、次席一等運転士の声が船橋に響き渡った。
「右舷に走錨中の船、本船に接近!」
その場にいた全員が、思わず右舷側の窓を注視する。
彼らの目に飛び込んできたのは、錨が海底から外れ波間に漂う木の葉も同然となった客船がこちらに向かってくるという悪夢のような光景だった。
「こちら船尾。右舷船尾に衝突!」
いや、木の葉ならどんなに良かっただろうか。そうであればこんな金属の擦れあうような嫌な衝撃は無いだろう。今衝突したのは、総トン数一万九千を誇る伊客船『コンテベルデ』だ。
「本船、走錨!」
衝突の衝撃に『浅間丸』の錨も海底を離し、妙に左舷に傾いた姿勢のまま『コンテベルデ』と共に漂流しはじめた。
「スロー・アヘッド」
『コンテベルデ』を振りほどこうと、金子船長がとっさに前進微速を命じる。テレグラフが前進微速の位置に合わされ、機関室がその指示に間髪入れず従う。
「ハード・スターボード」
今度は舵輪が右いっぱいに回され、面舵三五度に切られた。
しかし、右舷にからみついた『コンテベルデ』はそのまま一向に離れようとしない。二隻は尻を合わせたまま波に翻弄されるがままだ。
互いにあまりに巨大な船であるため、一旦かみ合ってしまうとちょっとやそっとの風雨では外れやしないのだ。
金子船長が『コンテベルデ』を引き剥がそうとあの手この手を試みるも、まずこの嵐の最中では大したことが出来る訳もない。
それから何分たっただろうか。
波に揉まれる『浅間丸』に新たな災厄が迫っていた。
衝突の衝撃で左に傾いた船橋の、左側を見張っていた次席二等運転士が悲痛な叫びをあげたのだ。
「船長、左舷後方にも──」
そこから先は言葉にならなかった。
左舷後方から接近していた英客船『タランバ』は、波に翻弄されるまま『浅間丸』に接近、八千トンの鉄の塊がまともにぶち当たり、『タランバ』の右舷と『浅間丸』の左舷を擦り合わせていったのだ。
当然、その衝撃は凄まじいものだった。船内で何かに掴まっていなかった人間や固定されていなかった物を全てなぎ倒し、『浅間丸』と『コンテベルデ』も引き剥がすほどだ。
そして、三重衝突という悪夢のもたらしたものはそれだけではなかった。
「錨鎖、断裂……」
もはや、この船を繋ぎ止めておく手段は失われた。予備の錨が無い訳ではないが、この嵐の中ではどうしようもない。
『浅間丸』は、本当にただ波に翻弄されるだけになってしまったのだ。その船体は、それこそ乗員の三半規管を試すかのように縦横に揺さぶられる。
それから数時間。夜明けを目前とした頃、香港測候所の気圧計は史上最低値を記録。風速計は観測限度を記録して破壊された。
史上稀に見る荒れ狂う嵐の中、不眠不休で舵を切り位置を保つ努力を続けた乗員たち。嵐が収まった訳ではないが、夜明けが近いということはそれだけで文字通り前途に一筋の光明が見えたような気にさせてくれる。
そんな彼らに、この夜最後の悲劇が訪れる。
辺りに黎明のか弱い光が満ちようとしていた頃。本来なら夜明けであるが、空は分厚い雲に覆われまだまだ暗い午前六時。嵐に揉まれ、なすすべなく漂う『浅間丸』に一際大きな波が襲いかかった。
船体が下から波の巨大な手で持ち上げられる。そして今度は手のひらを返したように退く。
その瞬間、腹に響くような鈍い音と、『タランバ』と衝突した時とは違う、下から突き上げるような衝撃が船員たちを襲う。
衝撃の後、横方向の揺れは依然として続いていたが縦方向の揺れはほとんどなくなった。
衝撃、そして上下方向の振動がなくなる。座礁という最悪の事態が彼ら高級船員たちの頭をよぎった。誰もが勘違いであってくれと願った。
しかし、機関室からの電話が無情にもそれを肯定する。
「船長、左舷船底に異常衝撃。暗礁に乗り上げたようです」
船長の顔から血の気が消えた。
「浸水は?」
「機関室はありません」
「二重底タンクは?」
「今から調べます」
結果、二重底タンクのうち三割が浸水。機関室及び船倉には異常なし。スクリューシャフトトンネルに若干の浸水。ただちに沈没の危険は無いことがわかった。
動けなくなった『浅間丸』の舷側に、何度も波が打ち寄せる。今やこの船は陸地と同化したようなものなのだ。
そして夜があけた。
台風は内陸へと過ぎ去り、波風も落ち着いた。香港の港内は凄まじい様相を呈していた。香港に入港した二九隻全てが座礁、衝突、あるいは漂流し、無傷の船は一隻たりともありはしなかった。
朝日に照らしだされた“太平洋の女王”は見るも無惨な姿と成り果てていた。無線アンテナはちぎれて垂れ下がり、右舷側の短艇も幾つか行方不明となっていた。特に酷いのが『タランバ』と衝突した左舷で、船尾から短艇甲板の前よりにかけてA甲板からC甲板までえぐれたように傷つき、中が丸見えとなっていた。当然左舷側短艇は全滅だ。
大穴があき、嵐にさらされた船内は見る影もなく、クラシック様式の一等公室も、スペイン十六世紀様式の一等ベランダも、早期ジョージアン様式の一等ラウンジも、何もかもきれいさっぱり流されてしまっていた。
『タランバ』衝突の際に切った額の包帯が痛々しい金子船長の顔色が悪いのは怪我のせいばかりではない。『浅間丸』を座礁させ、サンフランシスコ線に多大な影響を与えたという自責の念が彼の心に重くのし掛かっていたのだ。
彼は、無線アンテナもちぎれて連絡も取れないため、ランチを送り日本郵船香港支店に連絡をつけた。東京本社に浅間丸座礁の報を伝えるためだ。
『浅間丸』は、一晩の間に三海里近くも流されてしまっていた。
『浅間丸』座礁の報を受けた日本郵船東京本社は、間髪入れずに各務海務課副長の現地派遣を決定。あわせて、日本サルヴェージ株式会社に『浅間丸』救助を依頼した。
日本サルヴェージは、救助船『祐捷丸』と宮崎主任技師を現地へ急派。会社をあげて“太平洋の女王”の救助にあたることを決定した。




