NO.00
日本魔法技術大学。その名の通り、魔法技術の習得・研究を目的とした大学で総合大学ではないものの魔法技術に関してならば日本最高峰の大学にも決して劣らない。就職難が続く中、魔法技術者の需要が年々増大している近年は入学するのも困難な一流大学だ。
その日本魔法技術大学、通称魔技大の一角に彼ら”異世界組”の研究室は存在していた。
「どう思いますか? 天城先輩」
デスクトップパソコンの前に座るノンフレームの眼鏡を掛け、白いワイシャツを着た男が後ろでマグカップに注がれたコーヒーを啜りながら立つよれよれの白衣を纏った長身の男に意見を求める。
「ふむ」
男の肩越しに顔をずいとデスクトップパソコンへと近づけた天城はじっとディスプレイを見つめた後、晴れ晴れとした笑みを浮かべ男と目を合わせる。
「素晴らしい出来だよ、風太君」
「ありがとうございます!」
先輩からのお褒めの言葉に満面の笑顔で喜ぶ風太に対面のパソコンをいじっている女がしかめ面をする。
「うるさいぞ、静かにしろ矢代風太」
「すいません、由以子先輩」
何に付けても真面目な風太は律儀に頭を下げるが、既に由以子は目の前のディスプレイに意識を奪われていた。相変わらずの由以子の怠け癖を前にして、天城は愉快そうに彼女の後ろに立つ。
「君も少しは風太君を見習って勉強でもしたらどうかね。論文を書かないと卒業もままならないぞ」
「ふん、そんなもの適当にでっちあげるさ。それより邪魔をしないでくれるか天城文月、今いいトコなんだ」
彼女ならやれるのだろう。天城は彼女の数々の規格外ぶりを目の当たりにしていた。
ネット小説に夢中になっている由以子へやれやれと苦笑を浮かべた天城は静かに自分の席、パソコンを両端に二台ずつ四台置いた長机を見渡せる席に座ると魔法陣の作図を再開した。
無言になった上田教授の資料室に、パソコンの冷却フィンの音がやけにうるさく響いた。
彼ら三人が現在かつ恐らく唯一の”異世界組”の面子であり、彼らが追い求めているものの滑稽さ故に大学内では嘲笑の対象となっている。もっとも、真面目に追い求めているのは天城と風太だけなのだが。
時刻は午後八時を過ぎると、そろそろ帰宅する準備が始まる。
「さあ、帰りましょうお二方」
パソコンを閉じた風太が率先して二人に帰り支度を促す。というのもこの二人、放っておくとそれこそ何日もこもりっきりになってしまうのだ。風太が初めて訪れたとき、この部屋は完全に私室化されていた。今では風太の定期的な清掃の甲斐あって小ぎれいな部屋になっているが隙あらば部屋を汚す二人にはいつも頭を悩まされている。
「待って。今いいトコ」
「待ってくれ。今調子がいいんだ」
「……はあ」
大きなため息と共にがっくり肩を落とした風太は二人を連れだすのを諦めた。なぜなら先の台詞が口から出たときは何をどうしても部屋から出すことはできないと経験則で知ってしまった。
「では僕は帰りますからね!」
「また明日ね~」
「うむ」
由以子から手を振られ、天城から短い返事をもらった風太は帰宅の途についた。しかし校舎からさらに離れ、校門を抜けて徒歩五分ほどにある地下鉄のホームに立ったとき気付く。あ、そういえば明日から三連休だったな。もし引き返さないと連休明けは大掃除になるぞ。
掃除の労苦に頭の痛くなった風太は引き返そうとするが、憎いタイミングで電車が到着する。少し逡巡したものの、風太は疲れていたので帰ることにした。
(もし汚していたらこき使ってやりましょう。ふふ、あなた方の自業自得なのですからね)
風太の願い空しく、あるいは願い叶ってか二人は三連休を不眠不休で過ごした。一人は魔法陣の作図にとりかかり、一人はネットやパソコンの横に積み重なった本の山を漁りまわった。
「うーん。さすがに疲れたかな」
由以子は連休三日目の午後十時にようやくパソコンをシャットダウンする。その間、部屋の冷蔵庫とトイレのときぐらいしか立ち上がった記憶がない。いい加減睡魔に襲われてきたところだった。
「ふふふ、あいつはまだやるか」
腕を枕に眠りに入ろうとした由以子は未だ作業に励む天城を愛おしげに眺めながら眠りについた。
夜も更け、今日と明日の境を時計がいよいよ指し示そうとしている時分。いつもは人気のない日本魔法技術大学キャンパス正面前円形広場の中心、外周を囲む街灯から離れぽっかりあいた暗闇に一人の男がいた。
二十代ほどだろうか、日本人にしては大きな背丈に白衣を無造作に羽織り、せっかくの端正な顔を無精ひげでうっすら覆っているこの不審人物は口元をにやつかせながら調子の狂った鼻歌をすさんでいる。
男の足元には大の大人が寝転んで両手両足をいっぱいに広げても余裕のある正方形の大きなプリンター用紙が敷かれているが、描かれている内容が男の不審さを突出させている。用紙に収まるぎりぎりで描かれた大きさの真円の内部には奇怪な文字やら禍々しくうねりたくる線やらがみっちりと並べられているのだ。さらに言えば男の両手足首には先端に小指サイズの金属片のついたコードが巻きつけられ、プリンター用紙の脇に置かれた冷蔵庫ほどの大きさの四角い白色の機械につながっている。怪しいことこの上ない。
「いよいよ完成か」
感極まった表情でプリンターに描かれた魔法陣を見下ろすこの男、日本魔法技術大学四年生天城文月は正に今から異世界へ飛び立とうとしていた。
思えばこの時が来ることをどれだけ待ち望んだだろうか、と天城は回想に耽る。小学生の頃の理科の教科書のコラムに小さく掲載されていただけの多次元世界論にここまで入れ込むことになろうとは、天城自身もここまで自分が執念深いとは思いもしなかった。
多次元世界論。世界はこの世界の他にも無数に存在しているとするある種突拍子もない考えだ。学会でも否定されこそしていないものの、肯定の立場を取った者で権威を持つ人物はほとんどいない。天城が幼少より魅了されていた理論は世間一般に限らず学者界隈でも色物扱いされていた。
それにも関わらず天城が多次元世界論に固執したのは当時彼の両親が受験勉強を強要したことに始まる。
天城生来の記憶力は一度読んだ本を最初からそらんじることができるほどで、両親は将来に大きく期待し彼に次々と知識を注ぎ込んでいった。だが天城はそれを望んだ訳ではない。両親が喜ぶから嫌々ながらも従っていたのだった。しかしやがて両親は天城の努力を当然だと考えるようになってしまう。徐々に両親が望むハードルは高くなっていき、天城の苦痛は大きくなるばかり。
そんな折知った異世界の存在に天城の心は浮き立った。すぐさま周辺の図書館や本屋を漁り関連書籍を読破していったのだが、両親の苦い顔を見て以来隠れて多次元世界論について独自に調べていった。この隠れての調査が両親の裏をかいたようで小気味よく、調べる内に現実味の薄い理論と知ってしまってもやめられない楽しみとなっていく。中学生の頃にはこっそりと拙い独自理論を構築しては崩していくのに快楽を得る日々を送るが、この独自理論は研究者層の薄い多次元世界論にとって貴重な前進となった。高校生になり将来の進路を定める時期になると、両親は天城の未来像に高額所得者を描いて当たり前のように進学先を独自に定める。
ついに天城は反発した。自分の進路は自分で決めると日本魔法技術大学へ進学したのだ。両親は激怒し一切の支援をしなかったため私生活には物質的に苦しいものがあったが、それ以上に両親から離れた自由が天城には心地よかった。そうまでして入った日本魔法技術大学だが、大勢は異世界の存在に懐疑的で天城の考えは侮蔑の対象となる。
その中唯一多次元世界論を専門とする権威上田教授の助力がなければ天城は挫折していたかもしれない。もっとも、それも天城の才能を買っての行動でありただの憐憫の念ではない。天城は出席した講義で求められた課題を全て難なくこなし、異世界への憧憬を捨ててくれればと考える教授は数多くいた。それでも大学生活の四年間では多くの者から天城の考えは馬鹿にされ続けた。味方だったのは異世界に行くことを待ち焦がれる風変わりな同学年の女学生と、天城と志同じく異世界は存在すると信じてやまない生真面目で可愛い後輩の二人だけだった。
だが、どうだ。今目の前にある魔法陣を見ても同じことを言える学者がいるか。いや、よっぽどの愚物でもない限りこれの価値はノーベル賞物さ。天城は自負心を持ってそう独りごちた。
天城は自らの労苦の結晶を愛おしげに見つめながら、白衣のポケットから缶コーヒーを取り出し心の流れに身を任せつつゆっくりと飲み干した。
「では、やろうか」
緊張と興奮に体を震わせ、魔法陣の中心に足を進めた天城は目を閉じて精神を集中させる。すると、体内に宿る魔力が体を包み込んでいく。やがて魔法陣は水を垂らした紙のように魔力を吸い出し始めた。
その時、ふとどこに缶を置いたっけと考えた。ああ、よかった。ポケットの中か。
「しまった」
缶なんかに気を取られるからだ。天城が咄嗟に目を向けた両手足首から延びるコードの先にある魔力計のディスプレイには、明らかに魔力を過剰に流し込んでいる数値が表示されていた。
同時に魔法陣が不規則に明滅し出したのを確認した天城はやれやれとため息をついた。自分の苦労はこんな些細な事柄で無に帰してしまうのか。今から魔法陣の外へ飛び出ても助かるとも限らない。
失敗に絶望した天城は脱出の選択を取ることなく結末を静かに待った。意識が途切れ、視界からすべてが消え去り闇のみが映る。天城の意識の断絶と共に日本魔法技術大学円形広場から彼の姿は消え去り後にはコードが引きちぎれた魔力計のみがあった。