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「むかし、いま」

 

 今まで言ったことこともないし、これから言うつもりもないが、杏子は当初、共働きの両親にとって喜ばしい子供ではなかった。

 が、一般的に聞くよりも、杏子は驚くほど手間のかからない子供だった。

 今になって思い返してみれば、仕事の忙しい自分たちに迷惑をかけまいと幼心に気を使っていたのかもしれないが、真意を問う勇気は父にはなかった。どちらにしろ、杏子に辛い思いをさせていたことに変わりはないのだから。

 両親はどちらも安心して自分の仕事に打ち込めた。

 もちろん、時間があるときはできるだけ接するようにつとめていた。幼稚園でどんなことがあったのかを聞いてみたり、一緒にお風呂に入ったり、ほんの数回だけでもアミューズメントパークに連れて行ってあげたりした。

 子供の育て方を誤っていたつもりは、これっぽっちもなかったのだ。 


 その日は、今年一番の冷え込みが予想されると天気予報で言っていた。

 その日は、緋水杏子の人生の一つの分岐点だった。



 母は、病院のベッドに横たわる杏子の側に座っていた。

 仕事に行く気など全くない様子で、ろくに食事もせずに杏子の側にいる。

 あの日から、今日で三日目。

 杏子は、目覚める気配がない。

 この病室で動くものといえば、彼女の腕から伸びている点滴の雫だけだった。

 ブラインド越しに差し込む日差しと白い病室は、さながら神聖なものを感じさせる。

 時折うわ言の様に「ごめんなさい、ごめんなさい……」と呟く幼児は、不気味な部分をも感じさせる。

 それ以外は、静寂。

 静かならまだいい方だ。つい数時間前まで、母もまたひどい状態だった。自分のせいだと泣きじゃくり、物を投げ、手もつけられないほど錯乱気味だったのを、看護婦と父で何とか落ち着かせてここまで静かにさせたのだ。

 杏子の側にいることで、心の平穏を保とうとしているらしい。

 立ち直れるだろうか。

 同じ階のロビーでタバコをふかしながら父は思う。幸い大事には至らないものの、今回のことで自分たちの杏子に対する接し方は明らかに間違っていたことを痛感していた。

 安心していたのだと思う。自分の娘は他の娘より出来ていたと思っていたから。

 それを傲慢だと知らずに。

 

 杏子は、自ら望んでしっかり者になったわけでは、決してないというのに。


 


 熱が下がったのは翌日の夕方のことだ。

 母は自分で看病したいと申し出たのを、医者ももう悪くなることはないだろう、と許可を出したので、いまだ目覚めることのない杏子をおんぶしてつれて帰ることになった。……ある意味、これも傲慢であると思うが、母のの気持ちを考えると、父は何も口には出さなかった。

 雪は降り止んでいた。

 もともと雪が降るのも珍しい地方だ、今回のことは偶然に偶然に重なった悪い出来事としか思えない。

 杏子に十分暖かい格好をさせて、父と母、そして杏子の三人で冬の夜を歩いて帰る。

「……これからどうするかね?」

 ただ黙って歩くのもどうかと思うので、母に声をかけてみる。しかし、母はうつむいたままで反応しない。無視しているのではなくて、もしかしたら声が届いていないのかもしれない。

「……? お母さん…」

 河川敷を歩いていたときだった。杏子がようやく目を覚まし、眠け眼をさすりながら母の肩から顔を上げて辺りを見回す。

「杏子!? 良かった……」

 母もようやく、感情らしい感情を見せた。安心からか、無意識のうちに涙が頬を伝った。しかし娘を一刻も早く家に帰らせたいから、歩みを止めることはない。父もほっとして、母と娘の両方の頭を交互に撫でてやった。

「…お母さん? どうして泣いてるの?」

「なんでもない、なんでもないのよ…」

 体を震わせ、嗚咽を漏らしながらも歩く母に、杏子はまた幼児らしくない顔を見せた。

「もしかして私、お母さんに迷惑かけちゃった……?」

 母は首を小さく横に振る。

 そんなことはない、と。悪いのは自分たちだ、と。


 なのに。


「…ごめんね、お母さん、お父さん。私、もっとしっかりするから…」

 自分の娘は、どうしてこんなに良く出来た子になったんだろう。

 杏子はそれだけ言うと、また深い眠りについてしまった。



「――次に君が目を覚ましたときには、君はもう、あの日のことは何も覚えていないようだった」

 ずっと話し続けるのは喉が渇くのか、父は番茶をずず、とすすり、申し訳なさそうな顔で私を見た。

「――うん。話を聞くまで思い出さなかったよ」

  本当はついさっき夢で大体思い出したのだが、忘れていたことは事実なので父に同意した。だろうね、と父は頷く。その隣では母がずっと目を伏せている。こんな母を見たのは初めてだった。……初めてのはずなのに、初めてではない感覚。幼い私が、錯乱気味の母の状態を記憶のどこかにとどめているからなのだろうか。

「どうしてだろうね、私たちはそれだけで、君に何も言えなくなってしまったよ」

「……」

「そして君は、前以上に神経質に、完璧な人間を求めるようになっていった……」

 『親の笑顔を見たい』という私の思い。それは裏を返せば、『親の悲しい顔を見たくない』という思いだったのか。私が封印してまでしようとした記憶は、私をそんな強迫観念に包み込んでいた。

「そっか。そんなことがあったんだ」

「だからね杏子。君がしっかりものになるのは、私たちは見てて誇りだった。でもね、同時に責められてるような思いだったよ」

 私が完璧でいればいるほど、そのように振る舞わせなければならないきっかけとなるあの日の出来事の影を見ないわけにはいかなかったのだろう。なんだか申し訳なかった。

「それでね杏子。私たちは今回のことで、もう君に無理はさせられないって感じたんだよ」

 自分と、他人の感じ方は違う。

 私は、自分の今の生活を自分なりに普通であると受け止めているが、ある人からは無理していると言われ、ある人からは気持ち悪いと言われる。

「……あの日の話を今までしなかったのは、君に嫌われたり、恨まれたりするのが怖かったからかもしれない。けどね、言わなければ、なにも解決しないからね」

 父は立ち上がり、私に向かって頭を下げた。


「どうか、許して欲しい」


 なんでだろう。

 なぜか、体全体が軽くなったような気がした。

 肩の荷が下りたような感覚だった。

「――大丈夫だよ、もう過ぎちゃったことなんだし。忘れてたことを思い出しただけで十分。……それにさ」

 私は、これから言うことを本心だと判ってもらうために、父と母を真っ直ぐに見た。

「今、お父さんもお母さんも、私をどれだけ愛しているか知ってるから。だから、もう大丈夫」

 二人とも、憑き物が落ちたかのような表情で私を見ていた。

 ――ああ。

 私は今、ようやく自分らしく生きることを取り戻したのかもしれない。

 挫折、いつもと違う日常、経験、知らない人との出会い。

 一度は立ち止まらなければ判らなかったこと。

 ようやく気づけたのだ。私がどれほど幼稚だったってことを。

「……これからさ、また迷惑をかけることがあるかもしれない」

 私は笑顔で、両親を見た。


「でもそのときは、またよろしくね」


 両親も、私に笑顔を見せる。

 壊れた世界は、新しいカタチに、少しずつ修復していく。

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