「Frozen Memory」
一人だった。
お父さんもお母さんもいつも仕事で家にいないから。
だから鍵を持ってるの。
友達にいつもそう言っていた。私の中では親が仕事で忙しいのは普通のことだったとしても、友達にとっては普通のことではなかったらしく、驚かれたり、「そうなんだ」と哀れみの眼を向けられたり同情されたりした。
いつしか「他の人と違うワタシ」のことを格好良く感じるようになった。
親に甘えてる人たちなんかよりも、私は優れている。私は親の迷惑になんかならないんだ。
幼稚園が終わって、母親が迎えに来てくれる友人のことなんか羨ましくなかった。
夕方家に帰ってきて、両親が帰ってくるまで一人で過ごすのも寂しくなかった。
嘘じゃない。本当だもん。
私は他の子と違うんだから。
そんな幼い頃の緋水杏子を、私は離れたところから無表情で見つめていた。
ここはどこだ。
ここは、夢か?
映画でも見ているかのように、私の幼き頃の思いが目の前に映し出されては消えていく。泡のような小さな思い。干渉することは許されない。私が触れようとすれば泡は弾けて消えてしまうのだから。
……にしても、回避も出来ずに一つ一つが胸を締め付けるのは如何ともし難い。
一方的ですか、そうですか。
「……」
ある一つの泡が私の目の前に現れた。冷たい、氷のような泡だ。
私の周りが真っ暗になる。
私はその思いに吸い込まれていく。
ある冬の帰りだった。
雪が降っていた。幼稚園のバスの帰りから降りた私は、いつものようにバッグから鍵を出してドアを開けようとした。
バッグの中に手を入れて、ごそごそとまさぐる。
「…あれ?」
おかしいな、いつもあるはずの鍵が、ない。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。バッグを地面に置いて、中身を一つ一つ取り出す。ハンカチ、ティッシュ、お弁当箱、キャラクターの絵付の小さい筆箱。
それで全部。
何度も何度も探す。もうすでに判っているのに、見つからないなんてことは判っている筈なのに、バッグにない鍵を探し続ける。
いつしか探す手の動きが鈍くなっていていき、私は途方にくれた。
「…どうしよう」
家を出たとき確認したっけ? してないような気がする。
それか、幼稚園にいるときに誰かが持ってっちゃったのかな…。
――ともかく、今の大きな問題としては家に入れないことだ。
ドアを見る。いつもとなんら変わりないドアなのに、今日は私の日常を妨げる怪物のように見えた。
雪が深々と降り積もる。私はドアを背にして、体育座りをした。
大丈夫。
いつものように待ってれば、お母さんが帰ってくる。
いつもとほんの少し、待ってる場所が違うだけじゃないか。
かじかんだ手に息を吹きかけ、こすり合わせてあっためてから、黄色い帽子を深くかぶってお母さんを待つ。
だけど、今日に限って時間が長く感じる。夕方になっても、日が落ちても、お母さんは帰ってこない。
「……おかしいなぁ」
そう呟くと、なぜか笑みがこぼれた。待ってる間も行きは深々と降り積もり、目の前は一面の銀世界だ。今日は誰も外に出たがらないらしく、道を行く人も少ない。
指が冷たくてしょうがないので、顔に指を当てる。驚くほど顔の熱は熱く、指先は冷たかった。
……雪遊びしたいけど、今は、そんな気分じゃないや。
震える体でそう思う。
外が闇に包まれるにつれて、周りの家の明かりが灯っていくにつれて、不安がどんどん大きくなっていく。マッチ売りの少女の気分だ。でも私には夢を見させてくれるようなマッチは持っていない。
「おなかすいたなぁ……」
故に、夢さえ見れないのだ。
どうしてだろう、目頭が熱くなってきた。どうしよう。どうしよう。
溢れ出て、頬に伝う涙を止められない。私は顔を膝小僧に押し付ける。
私は、両親に迷惑はかけられないのに。
「寂しいよぉ……。お母さん…」
だめだ。ちょっと今日は、耐えられそうに、ない。
「……杏子!? 杏子、そんなところで何してるの!?」
――あ、お母さんの声だ。
でもなんでだろ、体が動かないや。まるで私の体じゃないみたいだ。
少しずつ、体が横に倒れていく。お母さんの声が遠くなっていく。
おかしいな。
こんなに溢れる涙は止まらないのに。
「……思い出した」
まだ少し、寒気がする。
周囲は闇に閉ざされ、私は電気をつけることもせずに起こした体を再びベッドに沈めた。
停学六日目、夜。
文月が帰った後、怒る奈江をなだめすかせて帰らせた私は、ふらつく頭を休めるために少し昼寝をすることにしたのだ。
昼寝、というには、少し遅くまで寝すぎたようだが。
「妄想、じゃないよね…、今の夢」
夢にしては感覚が妙にリアルだった。
それ以上に私自身の体が、あの夢は私の記憶であると告げている。
あんなことがあったのか。
どうも前後関係がはっきりしない。幼稚園くらいの頃の記憶だということは保証できるが、年少、年中、年長、いずれの時期かは判らない。
両親に聞いたら、すっきりするんじゃないのか。
だがこの考えは、私の頭が「聞くんじゃない」と警告を鳴らすせいで行動に移すことはなさそうだった。なぜかは判らないのだが。
「杏子?」
ドアがノックされた。
「はい?」
「ちょっといい?」
母が、少しドアを開けた。私は体をもう一度起こす。両親のほうから私に接触してくるのは停学になってから初めてのことだった。
「話が、あるんだけど」
まだ私と接することに戸惑いがあるのか、歯切れの悪い調子で母は言った。
「なに?」
「リビングでしたいから、下に降りてきてくれないかしら?」
「判った」
大事な話でもあるのだろうか。
大きくかぶりを振る。
馬鹿か私は。判っているじゃないか。ある意味さっきの夢は予知夢みたいなものじゃないか。どうしてそう逃げようとするんだ。両親から教えてくれるというのだから、教えてもらおうじゃないか。
さあ、真実を知りに下へ降りよう。