「これはきっと、始まり」
驚いたなんてもんじゃない。
普通あんな高いところから飛び降りたらもっとこう「どすん!」とか体重と重力のかみ合った相応の音がするはずなのだ。
静かに私のそばに降り立つなんてありえない。こいつ、漫画のキャラか何かか?
一通り叫び終わった後も私の頭の中はぐるぐると回り続ける。翔太はそんな私を腹を抱えて笑いやがった。
「あははは! なんだ、お前面白いな!」
「は?」
「もっとすましたやつかと思ったけど、案外普通なのな。木から飛び降りたくらいでそんな驚くなんて思っても見なかった」
白い夏服を光らせてげらげらと笑う翔太に、再びこめかみがピキッ、と音を立てるのを覚える。
「わ、悪かったわね。……みんなが思ってるほど、私は綺麗じゃないわよ」
「違いねぇ。つーことはなんだ、学校だと猫被ってたってことか?」
一瞬反応に困った。猫被ってたわけではない。親に迷惑をかけないためには、真面目でいるのが一番手間がかからなかったのだ。
あれ?
じゃあ学校での私、親を前にしたときの私は本当の自分なのだろうか?
それは違う。 私はさっき真面目で居続けたと自覚したではないか。……ならば、本当の私は一体何者なのだろう。
「……おいどうした。そんな難しい顔して」
気づくと腰を屈んで私を見る翔太の顔が目と鼻の先にあった。
「ひゃ、ひゃっ」
反射的に顔を後ろに引っ込める。彼は非常に気分を害された、という顔をして、
「んだよ、言っとくが俺はそこら辺の男より顔には自信があるんだぞ」
悔しいけど、彼の言い分には正当性があった。男女問わずその中性的な顔立ちと細身の体型は人気が高い。認めているからこそ、不用意にその顔を近づけられたのが恥ずかしくて腹立たしかった。
「あ、あのね、誰だってそんな顔近づけられちゃ驚くに決まってるでしょ。プライベートスペースって知ってる?」
「あぁ、悪いな。常日頃こんなんだから。ちなみにその言葉は判る」
彼は再び腰を伸ばし、指で「隣いいか?」と聞いてきた。断る理由もないので右に避けてスペースを作る。
「……で?」
「ん?」
間が持たないことを予想して、彼が腰を下ろしたら間髪入れずに話題を切り出す。
「なんでここにいるの? 学校は?」
「親みたいなこと聞くのな。結城くんには結城くんなりの都合があると思うし、訊かないでおこうかな、とか思わないわけ?」
「私、そんな配慮できるほど人付き合いも人間もできてないから。言うのが嫌だったら無理に訊かないけど」
「や、ただのサボリだけどね」
……こいつは。
「……しかしまぁ」
彼は私をまじまじと見ながら、
「緋水のお嬢様の私服がそんなのとは思わなかったなあ。もっと上品なの着てるかと」
白いTシャツに学校指定のジャージを着てるのを見て、結城はにやにやしながら言った。なんだか急に恥ずかしくなって、
「違うわよ! 今はジョギングの休憩中なの! 普段はもっとマシなの着てるわ!」
すると彼はもっと驚いた顔をして、
「女性って大変なんだなぁ」
と呟いた。
「違うわよ」
砂場でトンネルを作ってる子供を見ながら、私はぽつりと言った。聞こえることを期待してなかった。けれど彼は聞き返す。
「何が?」
「すべての女性を知ってるわけじゃないけど、私だけじゃないかしら。家に帰ってからずっと勉強して、休憩時間は河川敷を走って、美術や建築関係の本を読み漁ってるのは」
結城は訝しそうな顔をしながら、
「……ま、人の人生なんてそれぞれだし、お嬢様がよければそれでいいんじゃないの」
人の言葉というものは時に無意識に、暴力以上に相手を傷つける。
「じゃあ」
気づけば震える声が転がりでていた。
「私がよくなければ、私はどうすればいいの?」
「は?」
言葉の意味を捕らえきれなかったらしい。自分の言った言葉と私の言った言葉を頭の中でよく咀嚼してから、
「おまえの今送っている生活は、誰かに強制されてしてるのか?」
首を振る。彼は頭が良く回ると思う。こういう人は話していて非常に気分がよい。
「違う。でも私の意志じゃなかった、のかもしれない」
結城の顔に疑問の色が一杯になった。当たり前だ、言ってる私でさえ、自分の言葉の意味を理解しきっていないのだから。
そう、私の言い草は、まるで、
「……二重人格?」
いいえて妙だ。
砂場にできた大きな山。青いつなぎをきた小さな男の子は、母親に手伝ってもらってトンネル開通を実行しようとしている。
「面白いな」
声に反応して彼の方を見ると、こちらを覗き込むような目で見つめていた。 あんまり見つめられたことなんてないから、背中がむずむずする。
「面白いって、私は別に全然楽しくないわよ」
「だろうな。いや、お嬢様みたいな完璧に見える人間でも欠けてる部分があるのかと思うと面白い。やっぱ人間なんだな、て思える」
「……」
この人は私をどういう風に見ていたのだろう。
どう接すれば判らないので、顔を背けて頬杖をついた。男の子は小さい手で砂の山が崩れないように、慎重に、でも豪快に穴を掘っている。山が崩れないかと見ているこっちがひやひやもんだ。
思う。
私は公園でトンネル開通などしただろうか。根本的な思い出というものが、私には欠けている気がした。
「……あなた、なんで学校さぼってるの?」
「勉強が嫌いだから」
「何それ」
私は砂場を見つめながら口だけで笑う。
「勉強が嫌いなら、なんであんな進学校にはいったのよ。矛盾してるわ」
「世の中にはな、学力だけでは推し量れないものがあるんだよ。俺の場合はそれだ」
結城は偉そうに、でも面白くなさそうに言った。
不思議な人だ。話してて、どこか安心するようなところがある。
「けどま、」
彼は立ち上がって大きく伸びをした。ついでなのかうおお、と聞いてて気の抜ける叫びをあげる。
「お嬢様に心配されたら行くしかねぇな。こりゃ他の奴らに自慢できるぞ」
「学校、行くの?」
「おう」
「……そう」
すっきりしない思いが胸に残る。自己分析するまでもない。あんなことをやらかした後の生徒たちの私への反応がどういう風になっているのか気になっているのだ。そして多分、私にとって気分の悪い結果になっていることも予想している。
私のそのような思いを汲み取ったのか、結城はきびすを返しながら、
「……俺的にはあれくらい気にすることじゃないと思ってる。ただ、」
左腕を挙げる。
別れの仕草。
「俺的には今日のお嬢様の方が、接しやすくて良かったぜ」
よせばいいのに、私は去ろうとする背中に不機嫌な声をぶつける。
「ちょっと」
背中は振り返る。
「そのお嬢様っての、やめてくんない? 不愉快だわ」
「……なんだ」
彼は心底驚いたという顔をして、
「他の奴らがこう呼んでたから、なんだ、呼ばれるのが嫌なら初めからそう言えばいいのに」
「……なんか、急に嫌になったの。だからやめて」 自分でもよく分からない心境の変化だった。しかし彼は私に今まで見たことのないような優しい微笑みを見せて、
「そうか。……よかったな、緋水」
と、また背中を向けて去ってしまうのだった。
顔が赤くなっているのを感じる。額を押さえながら、
「……あの笑顔は反則でしょ……」
世界が、色づき始めていた。