<死と生の先>
その後の話としては。
現在陰満文月と木下椋の仲を見れば自ずと判っていただけるだろう。
ただし、いくつか付け加えさせてもらうとするならば。
文月の体調が、成長するにつれてよくなってきた頃。
――正確には病院に全く通わなくなった、中学三年生の最初の頃。
深海瑠璃が、亡くなったことか。
彼女の家がこんなに大きいとは知らなかった。
喪服の変わりに黒いセーラー服を着て、文月は彼女の家の門に立っていた。
老若男女問わず、多くの弔問客がこの和風のお屋敷に集まっていたが、これほど奇妙なことはない。
なぜなら、生きている間、彼女は独りだったから。
人のことはいえないけれど、自分が病院に滞在している間、彼女が自分以外の誰かと談笑している様子など見たことがなかった。誰かが見舞いに来た姿すら見たことがない。
なのに今、これほど多くの人が押し寄せている。
奇妙なことこの上ない。
どうせなら、彼女が生きている間にこれだけ押し寄せればいいものを。
あまりにも人が多すぎて瑠璃のいる棺には近づけそうもなかったので、どこか疎外感を覚えた文月はふらふらと人の少ない縁側へと足を運んだ。
庭には漫画で出てきそうな池があったり、立派そうな植木が見える。
この屋敷の敷地だけで自分の学校の生徒一学年は外で遊べそうだ。
家がお金持ちで、瑠璃は美人でオトナびていたけれど、この世に滞在する期間が短かった。もう少し大人になっていれば、世の男を魅了するステータスの持ち主になっていただろうに。
どうやら天は二物を与えてはくれないらしい。
涙の代わりに、溜息がもれ出た。
我ながら冷たい人間だと思う。数少ない心を許した相手が、こんな早くに亡くなっているのに、目から雫一つも零れ落ちない。
縁側に座り込んで、人がまばらに歩く庭をぼんやりと見つめる。この庭は確かに豪華で、見る分には飽きないのだがしかし、人を憂鬱にさせてくれるみたいだった。――たぶん、単にこの庭にケチをつけたかっただけだ。
だが一応文月の心の中はメランコリックな状態だったらしく、彼の接近に気づきもしなかった。
「なんだ、居心地悪そうな顔してるな」
聞きなれた声に反応して振り返る。
結城翔太が、つまらなさそうに立っていた。文月と同じように学ランを着て。彼は文月の隣に腰掛け、「無駄に広い庭だよなぁ」と呟いた。
「あなた、どうして」
まさか、彼がここにいると思わなかった。瑠璃とは同じ病院だったが、同じ地区、同じ学校に通っていたわけじゃない。
「そりゃお前、俺が深海と知り合いだったからに決まってんだろ」
「……そうだったんだ」
「物事を自分の尺で計るのは良くないぜ、お嬢さん」
表情を全く変えない、純粋な嫌味に苛立ちを覚えたが、文月はそれを抑えつつ、
「いつ、知り合ったの?」
「男の子の秘密」
「どういう関係だったの?」
「男の子の秘密」
殴ってやろうかと思った。
「だけどまぁ、俺がここにいるのは義務みたいなもんだろうな。アイツにどう思われていたか知らないが、俺はアイツのことが好きだったし」
文月が彼の言葉を理解するのに、十秒間の間を要した。
「……へっ!?」
柄にもなく素っ頓狂な声を上げた文月を翔太は睨む。
「なんだよ」
「いや、なんだよって…。今なんて言ったの?」
「俺は深海のことが好きだった」
すると翔太は訝しげに文月を見つめて、
「何顔赤くしてるんだよ」
「……え!? あ、いや……」
臆面も何もなく、真顔で言われるとこちらが恥ずかしい。翔太も瑠璃に負けず劣らず大人だと思っていたが、まさかここまでだとは思わなかった。今まで翔太とは恋愛関係の話なんてしなかっただけに、なおさらだ。
「いつ知り合ったの?」
「詳しくは覚えてないけど、お前を見舞いに行ったとき」
そうだ。忘れてはならないが、翔太は友人としては二番目に見舞いに来てくれた回数の多い人物だ。一位の椋とは回数に大きな差があるとはいえ、感謝をしなければならない。
「なるほどねぇ。私をダシにして、瑠璃に会いに行ってたわけか」
「――お前な。人聞きの悪い言い方をするな」
翔太はだらしなくあぐらをかいて、青く澄み渡った空を見上げながら、「あながち間違いでもないけどな」と聞こえるか聞こえないか位の声で呟いた。
「――ま、今となってはもうどうでもいいことだ」
「……」
そういう翔太の顔を見ることができなくて、文月は眼前に広がる庭を見つめることしかできなかった。
ゴールデンウィークを目前に控えた春の日。
瑠璃は、春の日が好きだっただろうか。
そんなことを話したことなんてなかったから判らないけれど、きっと彼女は興味を示さないだろうと思う。
瑠璃は自由だから。
瑠璃は孤独だから。
いつか言っていたように、きっと自分は世界から切り離された存在だから、と割り切ったに違いない。
どうしてだか、他に弔問客だってたくさんいるのに、隣に翔太だって座っているのに、自分だけがこの広い屋敷にぽつんと座っているような、奇妙な感覚を覚えた。
そして、そんな孤独に耐えられなくなって、隣を見ると翔太がいなくて。
庭を見てもさっきまでまばらにいた人影もなくなっていて。
気がついたら、目覚まし時計に手が乗った状態でベッドの上にいた。
窓の外で小鳥が鳴いている。
高校一年の、初夏の日の朝だった。
朝、いつものように登校すると、椋はすでに先に来ていて、一時間目の支度をしているようだった。自分も結構早くに来ているのに、ご苦労なことである。クラスにいるほかの生徒なんて、数えるほどしかいないというのに。
「おはよう、椋」
「おはよ……って、なんか顔色良くないよ? 風邪でも引いたの?」
「うーん、……少し気分が悪いけど、たぶん夢のせい」
「夢?」
椋は小さく首をかしげる。
「――ちょっといろいろ懐かしい夢っていうか、記憶を辿ってた」
「ふーん。そういうことがあってもいいかもね。温故知新って言葉もあるし」
「私の記憶はそんなに古くない」
彼女と同じように支度をして、もうすぐ中間テストだから英語の参考書の適当なページを開きながら、ふと昨日のことを思い出す。
「――そういえばさ、昨日早く帰っちゃったみたいだけど、何か用事でもあったの?」
「うん、ちょっとね」
椋ははにかみながら、「あ、仮定法だ。私仮定法ってあんまり好きじゃないんだよねー」と、文月の開いた参考書のページを真剣に眺めている。
様子が少しおかしい、と思えたのは付き合いが長いからなのか。
「……男?」
「ち、違うよ!」
そこまで本気になって言われると、ああ、嘘じゃないんだなぁ、と思いたくなる。別に椋に彼氏ができようが、椋の個人的な問題なのだから何も言うつもりはないが。
「あ、おはよう緋水さん」
クラスの男子の挨拶に、文月と椋はそろって顔を上げる。
いつものように、箱入りお嬢様のように緋水杏子が男子に挨拶を返して、席に着こうとしているところだった。
――なんでいちいち反応しているんだ、私は。
ちいさくかぶりを振って、参考書に目を落とす。すると、今まで話しかけていた椋の会話がぴたりととまったのでどうしたのだろうと椋を見ると、彼女の視線の先が緋水杏子へとずっと注がれていることに気づく。
その目に、主だった感情がない。
後になって、文月は思う。
このときに気づいておけばよかったと。
そして時は一月後。
中間テストが終わった後、緋水杏子へのいじめが始まった頃まで急加速する――。