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<追憶トワイライト>

 お風呂に入っているとき、ベッドに潜ったとき、勉強しているとき、ふと思い返す。

 それは、陰満文月にとって人生の転機。

 それは、一生忘れることのない、大切な記憶。



 体育館前に貼られている新しいクラスを掲示された紙から、自分の名前を探し当てる。


 三年二組六番の陰満文月は、四年三組七番陰満文月になっていた。

 頭の中で何度も自分のクラスと番号を反芻しながら昇降口に靴を入れ、上履きに履き替えた。

 目の前を、仲の良さそうな女の子二人組が通り過ぎた。


「ちぃちゃん何組?」

「二組だよ、りーやんは?」

「私は三組。違うクラスかぁ、残念。でも隣のクラスだね!」


 二人は文月のことを気にもせず笑いあいながら階段を上っていってしまった。

 ――あんな風に友達と話し合いながら教室に向かえば、自分のクラスと番号を忘れることなどないのだろうか。何度も口ずさまなくてもいいのだろうか。

 胸がちくりと痛む。二人のうち、ちぃちゃんと呼ばれていたほうは去年同じクラスだったのだ。なのに挨拶もなし。

 いつものことだ。いつものことなのに、慣れない。


 一人で階段を上り、一人で教室に入って席を確認する。 二列目の一番前。

 ユウウツな気分は倍増する。いくら学校生活が他の生徒に比べて少ない自分でも、一番前の席は嫌である。六番にしてくれなかった先生が恨めしい。

 どうしようもないので席に着き、周囲の新学期の興奮が入り混じった喧騒の中、一人ため息をつく。こんな日に陰鬱なため息をつく小学生なんて世界で自分だけかもしれない。……自分だけで十分だ。

 

 時折思う。やはり自分は、日常から切り離されるべき存在なのではないか、と。

 

 そんなことを思っていると、背中をつつかれる感触があった。振り向くと、ショートカットの似合う女の子が子供らしい笑いがあった。


「おはよう」

「お、おはよう」


 彼女は、先ほどの二人組の、りーやんと呼ばれていた子であった。


「ふみづきさんも新しいクラスに友達いないの?」

「……私の名前は、ふみづきじゃなくてふづきです」


 『新しいクラス』に限らず友達のいないことを知られたくなくて、間違えられた名前をまず訂正する。


「あれ、そうなんだ。でもふみづきとも読めるよね。きっと旧暦七月から取ってると思うんだけど、いいなぁ、綺麗な名前で。私の名前ね、お父さんにどんな由来かって聞いたら、画数が縁起がいいからつけたとかなんとか言ってさ。夢がないよね、夢が」


 呆気に取られていると、彼女は手を差し出す。


「私、木下椋。よろしくね、文月さん」

「…よ、よろしく」


 手を握り返し、ふと思う。


「もしかして、私の苗字、読めない?」

「…ばれちゃった?」


 気まずそうに彼女は笑う。

 それが、陰満文月と、木下椋の出会いであった。


 

 木下椋は人と打ち解けやすい性格をしていた。

 新学期が始まって一週間が経ち、朝教室に入ると男女問わず彼女の机の周りにはクラスメートがたかっていたものだ。

 椋の席は文月の後ろの席だから、自然に文月も椋を取り巻く輪の中に入ることになる。入るつもりはなくとも、自分が登校すると椋は誰かとしていた話を途中で打ち切って挨拶してくるのだ。挨拶を返すといつの間にか輪の中にいて、話に加わっていたのだ。


 話をして、話を聴く。

 笑われて、笑って、笑いあう。

 他の人にとってはごくごく当たり前なことなのだろうが、自分にとっては長年の夢が叶ったような気分だった。


 だから、今このときを大切にしていたいと思う。

 この体は爆弾だ。最近調子はいいが、いつまた体調を崩すか判らない。

 体調を崩して、病院に通い始めたとき、ひと時の夢もまた、終わりなのだから。


 夢の終わりは、ほんの一ヶ月後に訪れた。

 あっけなかった。


「あれ?」


 水口総合病院五階ロビーのソファで体育座りをしていると、彼女がやってきた。

 朝食が終わり、ベッドにいるのは嫌なのだが何もすることもなく暇なので、ロビーにあるテレビで一人ニュースを見つめていたところだった。


「……瑠璃」


 青のストライプのパジャマを着た深海瑠璃は、すべてを知った様子で文月の隣に座る。


「あなたも大変ねぇ」

「…瑠璃ほどじゃないわよ」


 冷めた目で瑠璃を見つめる。入院したときに彼女に会うのはもはや日課だった。


 「そう? 私は日常から完全に切り離されてるけど、あなたは違う。あなたは日常と非日常を行ったり来たりしてる。傍目から見れば、あなたの方が辛く見えると思うけど。…変な期待を持つ時点でね」


 そう言って瑠璃は含み笑いをする。彼女が手を口に添えたときに、患者を識別する腕輪が見えた。


 黒。


 今までの長い入院生活の中で、黒い識別の腕輪をしているのは彼女一人しか見たことがない。 普通の入院患者のする腕輪は、血液型によって四つの色に分けられる。すなわち、赤、黄、青、白。自分はA型なので赤の腕輪をしている。


 だが瑠璃のしている腕輪は黒。このことは、彼女がただの入院患者ではないということを示している。彼女はここの住人。自分と似たような立場にありながら、決して自分とは違う立場にいる人間。

 まだ可能性がある点では、まだ諦めていない点では、自分の立場のほうが瑠璃より幾分かマシなである。


「……私は、別に期待なんかしてない」

「ホントに?」


 瑠璃は文月の仏頂面を覗き込むように見つめてくる。文月はそれから逃れるように反対側に首を振る。


「……ホントよ」


 嘘はついているつもりはなかった。夢はもう、終わっているのだから。

 しかし瑠璃は相変わらずにやにやと笑いながら、「嘘ね」と言い切った。その反応に思わず彼女のほうを向いてしまう。


「隠さなくてもいいわよ、あなたの顔は何か期待してる顔だもの。ここの外に出ていた短い期間の中で、何か大切なものでもできたのかしら?」


 ふと、椋の顔が頭を掠めた。

 ……私は、椋に何かを期待してるのか。

 …まさか。


「そんな顔してないわよ。まったく、人をからかわないでほしいわね。まだ年端もいかない少女が偉そうに」

「あなたも同じでしょうに」


 やがて瑠璃は飽きたのか、「んじゃね」と言ってさっさと廊下を歩いて消えていってしまった。一人残された文月は、先ほどの彼女との会話を思い出して口元を緩ませる。どうも瑠璃と会話しているとオトナびた口調と話の内容になってしまう。


 深海瑠璃と最初に出会ったのは四年前のことで、まだ水口総合病院に慣れていない頃、まだ入院に慣れていない頃、学校と友人に希望を持っていた頃の話だ。

 病室のベッドにいることが耐えられなくなって向かったプレイルーム。親と遊具や玩具で遊ぶ自分と同じくらいの子供たち。

 遊ぶ子供たちの笑顔が光ならば、まるで蔭のように、瑠璃は廊下からプレイルームを冷たい目で見つめていた。


 廊下を行きかう年寄りや看護師や医師たちは誰一人として彼女に声をかけない。日常の喧騒から切り取られた彼女を、当時幼かった文月は食い入るように見つめてしまっていた。その視線に気づいたのか、瑠璃は文月を一瞥して、こう呟いた。


『あなたも、一人なのね』


 特に何も考えもせず、頷いてしまった。あれが始まり。 


 あれから病院内でたまに会っては年齢の割りに――自分より一つ年上の割りに大人びた発言をしている彼女だが、根本的な部分はあの日あの場所のプレイルームの廊下にあると文月は思っている。


 彼女は黒い腕輪をしていて、年の割りに大人びている。

 彼女は自由。

 彼女は孤独。


 そして瑠璃のことを振り返るたびに文月は自分の胸が締め付けられる思いをするのだ。

 瑠璃は自分の鏡のような存在だから。

 そんなことを言ったら彼女に否定されるかもしないけれど、きっと彼女も淋しいのだから。


 


 その日から少し後、五月の末に、陰満文月の元へ訪問者が訪れる。

 木下椋だった。  




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