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「世界は、いつか壊れる」

 幼い頃から、器用な子だとよく言われた。


 物心ついたときから、私の周りの人は私に賛美の言葉ばかりをかけてくれていた。

 勉強が人並み以上にできた。

 運動も美術も成長すれば人並み程度だったけど、当時は一際目立っていた。


 ただ、他の人と何よりも違ったのは、一度聴いた音楽は忘れずに、あらゆる楽器でその音階を再現できることだった。

 正直に言う。私は自分のこの絶対音感の力を誇りに思っていたし、なぜみんなはこんなこともできないのだろう、と思っていたときもあった。


 それが自惚れだとは知らずに。


 私の父は会社員で、母は保育士だった。

 普通の家庭。普通の両親。

 そこから生まれてきた「非凡」な才能を持つ私をどう思ったのだろうか。

 幼い頃の私が賞賛されている記憶しか持たないのは、親の存在が一番大きい。


 親にとって、私は誇りだった。

 私にとって、親に誉められることは誇りだった。


 利害一致。


 だから、必要以上に、盲目的に努力した。親に誉められるために。勉強もたくさんした。テストではいつも百点を取ろうと心がけていたし、先生が少しでもひねった質問を出してくると、意地でも答えられるように努力した。運動神経はもともと良いほうではなかったけれど、逆上がりだって上り棒だってあらゆる球技だってできるようになるために本を読んだり努力を欠かさなかったし、少しでも早く走れるようになるために毎日三キロ、小学校高学年になる頃には毎日五キロ走ったりした。今では考えられないことではあるが、当時は生真面目な性格だったと自負してるし、何よりテストや運動会などの行事で親の喜ぶ顔を想像するのが嬉しくて楽しくてたまらなかった。


 つくづく親孝行な性格をしていたと思う。


 そんな涙ぐましい努力の成果もあり、小中学校は他の親が羨むほどの成績で通過する。そして、住んでいた地域での一番の公立進学校へと入学した。私立へ行かなかったのは、親に金銭の面で迷惑をかけられなかったからだ。努力に場所は関係ない。本に出てくる有名な人のほとんどは裕福暮らしなどしていなかったのだから。


 だが、高校へ入学してから明らかになり始めたのは、自分の精神面の幼稚さであった。


 高校一年の、六月のことである。


 まず、教師の反応だった。


 私だって人の子だし、失敗だってする。しかし失敗したところがいけなかった。


 よりによって、高校はいってはじめての中間テストで大コケをしてしまったのだ。


 自慢するつもりはないが、入学テストを一桁の順位で通ってきた私が、中間テストで二桁の順位を取ってしまったことに、教師陣は何を思ったのだろうか、テスト終了三日後に生徒指導室に呼び出された。


 中年で、眼鏡をかけていてひょろひょろで髪の毛の量からいかにも苦労してるなぁ、と感じさせる学年主任の男性教師曰く、「君は将来有望なのだから、変なことにかまけてないでしっかり勉強しなさい」的内容のお説教をぐちぐち三十分以上もされてしまった。お説教などまるで受けたことのない私だから、これには懲りた。……といいたい所だが、これがいわゆるお説教なのか、とある意味第三者的視点から場の状況を読んでいた辺り、可愛くない高校一年生ではある。


 変なことにかまけてるわけない。単に緊張しただけだ。もともとの根が小さいと自分で判っていたし、失敗したなぁとも感じていたわけで、人に言われなくても判っていたつもりだったわけだ。つもりだったけれども、よりによって学年主任が親にすべてのいきさつを話していたと知ったときは血の気が引いて、このまま倒れてしまいたいと思ったくらいであった。


 そして、親の言葉は、私を破壊することとなる。



「杏子」


 緋水杏子は肩をびくりとさせて、父親の向かい側のソファに座った。


 父が帰ってくるのが今日は嫌で嫌でしょうがなかった。夕食もろくに喉を通らなかったし、勉強の内容も頭に入っているのか疑問に残る。母はいつもと変わらない態度だったけど、内心怒っているのではないかとびくびくして夕食以外は部屋に居た。いつもならこの夜八時という時間帯は近くの河川敷を走っているのだが、今日はとてもそんな気分ではない。


「中間テスト、残念な成績を取ってしまったそうだね。先生から聞いたよ」


 座ったはいいものの、合わせる顔がなかった。わざわざ直接親に言ったあの学年主任を怨みたい。髪の毛を笑いながら一本一本なくなるまで抜いてやりたい。


 俯いたまま顔を合わせようとしない杏子に、父はさらに投げかける。


「別に怒っているわけではないよ。こうして話そうと思ったのはね、聞きたいことがあるからだよ」


「聞きたいこと?」


 親が怒っているわけではないことにホッとしたのと、急な話題転換に、思わず聞き返してしまう。

 父は、茶色の縁の眼鏡のレンズの奥から杏子の心を見透かすようにして、こう問いかけた。


「君は、頑張りすぎてないかい?」


「…そ、」


 すぐには否定できなかった。


「そんなこと、ないよ」

「本当かい?」

「ほんと」


 今度はすぐに返すことができた。


「お父さんはね、杏子のことをすごく誇りに思っているよ。親思いのいい子だって。けどね、杏子が無理しているような気がして。お父さん達は君に君の能力以上の期待はかけてはいないから、学校の成績を必要以上に気にする必要はないよ。ただ、杏子が他の子よりも強く縛られてはいないかとお父さん心配になってね――」


 そこで父は言葉をつぐんだ。いきなり杏子がソファから立ち上がったからだ。


「――杏子?」


 瞬間、ドタドタドタとものすごい足音を立てながらリビングを後にして、階段を上って部屋に入って鍵をかけてベッドに飛び込んで枕を抱きしめる。


 何がなんだか判らなくなった。


 なんで私はいい成績をとっているのだろう。

 なんで私は優等生でいるのだろう。


 なんで私はこんなにいい子で頑張っているのに、お父さんはあんなに悲しそうな顔を見せるのだろう。




 次に、クラスメートの反応だった。


 進学校というものは、「頭のいい」生徒というものが集う。当たり前ではあるが。

 概して、頭のいい者の中には、プライドの高いものも多い。小中学校では頭が良かったが、いざ高校へ入学すると大したことなくて、それでも変なプライドが残って「できる」人を妬むような手合いは必ずいる。


 悪いことは重なるもので、杏子はそのような輩の標的にされてしまったのだ。


 杏子の普段の態度も良くなかったのかもしれない。外見は幼い頃からの修練で並以上、バレンタインには十数個の本命チョコを毎年ギブされるくらいで、品行方正物腰柔らかのお嬢様系であり、陰湿な陰口を代表とする女の醜い部分にも参加せず、加えて学年トップクラスの学力を持つという目立った部分があったのでお高く留まっているように見えたのかもしれない。杏子の通う学校は決して女性オンリーではないので言い切れないのだが、朝来ると机にラクガキがしてあったり花の挿してある花瓶が置かれていたり物がよくなくなったり昼食を一人で食べたり自分だけ移動教室の場所を自分だけ間違った場所を教えられなかったりするところを見ると、同じ性別の生き物がやっているのだなぁ、と思う。


 私は心の強いほうではない。


 環境の変化はあっけなく私の心を壊し、私を灰色の世界へと誘うきっかけとなってしまう。


 父と話した次の日から、私は全てのものが灰色に見える世界で生活することになる。

 

 一週間が過ぎた。

 目覚めは悪い。ここ最近が特にそうだったが今日は特にひどい。体調だって別段悪くないはずだし、あれだった日にち的にまだのはずだ。


 となればそれは精神的な問題なわけであって。


 両親は私が壊れてしまったことに対してどう接すれば良いのか判らないらしく、「保留」という名目の元に私と距離を置いていた。


 まさか学校で私が暴れて停学になるなど、思ってもみなかったのだろう。

 私は小さい頃から良くできた子供であったし、親にとっても手間のかからない子供だったわけで、このような子供の心の問題を扱うのは初めてなのかもしれない。


 ベッドから体を起こす。吐き気と頭痛が治まらない。相当まいっているのだなぁ、と自分でも判る。


 どうすればいいのか判らなかった。


 判らないからもう一度体を横にして頭痛と吐き気に身を任せる。こうしていたって解決策が出てくるとは到底思えない。

 けれど、世界を見失ってしまった私にとって動きたくないというのは正直な気持ちであった。


 少し前までの私は、「両親に誉められること」で自分の世界を保とうとしていた。私と両親が満足すれば、それで万事OK、何も心配要らない。

 できれば、気づきたくなかった。このままずっと、この世界に溺れていたかった。間違っていると、気づきたくなかった。


 目に熱いものがこみ上げる。受け身でいるほど私は馬鹿ではない。クラスの雰囲気から、私のリアクションを見て走らせる他人の視線から、一連の出来事の首謀者は特定できた。それからは実力行使だ。いつもの様に登校したとき、いつものように花瓶が置かれてるのを見て、理性が吹っ飛んだ。首謀者をにらみつける。彼女はたじろぐ、まさか自分が首謀者であると気づかれるはずはないと高をくくっていたのだろう。つかつかとまっすぐに彼女の目の前にまで歩いて、ぐーをその頬に捻りこんだ。椅子に座っていた彼女はそれだけで床に叩きつけられる。少しだけ、胸がすっとした。

 クラスの誰もが呆然としていた。私がこんなことをする人物だとは思っていなかったのだろう。静寂に包まれる教室の中で、殴られたというのに一人だけ状況を理解できていない彼女はくぐ籠った声を出して置かれた状況を知ろうとしている様だった。

 それからは早かった。誰かが教師に言いつけ今度は親と一緒に二回目の呼び出し、事情説明、結果様子見ということで首謀者と一緒に仲良く一週間の停学処分となった。

 

 今朝は、停学三日目だ。


 のそのそとベッドから這い起きる。もう両親は二人とも出勤してしまった時刻だ、こそこそしながら自分の部屋を出る必要はない。どんな風に接すればいいのか判らない親と話すのは気が引けた。吐き気はだいぶ治まっていたが、頭痛の酷さは相変わらずであったので頭をおさえながら部屋を出る。リビングに行くと、ラップに包まれた朝食がテーブルの上に置かれていた。


 本当、迷惑をかけていると思う。


 テレビをつけても画面に映るのはくだらないニュースばかりで、私の心を繋ぎ止めてくれるものは何もない。


 不確かだ。目に映るもの全てが不確かだ。自分の足元が油断すれば崩れ落ちてしまうような感覚。


 じっとしていられなかった。


 女性にあるまじき速度で身支度をして、日焼け止め対策をしたTシャツとジャージ姿で家を出た。

 


 ――ふと頭によぎるのは、冬の夜。

 

 しんしんと積もる雪の中で、幼い私は裸足で誰かを待っている。

 ここはどこなのだろう。私は誰を待っているのだろう。


 決まってそう思ったときに、記憶は雪に埋もれて見えなくなってしまう。


 本当にあったのかどうかすら定かではない、白き記憶。こうしてぼんやりとしている時に小悪魔のように頭をかすめるのだ。


 今の私では、決して捕まえることのできないもの。


「ふぅ……」


 ノルマである五キロを走りきった私は、公園のベンチでしばしの休憩を取っていた。二日ほど家に閉じこもっていたので少し疲れたが、今朝からの悩みであった頭痛はなくなったようだ。気分で走ったのだが思わぬ効果は嬉しい。


 夏も近い。そんな日に冬の日のことを思い出すとは私もなかなかである。街で公園を見渡しながらため息をついた。


 午前中のこんな時間では児童公園にいるのもほんの小さい子供とその母親達だけだ。今頃は若い者は学校で一生懸命お勉強だ。

 そもそも私は、小学校のとき「友達」と公園とかで「遊んだ」ことがあるのだろうか。ないような気がする。


 文字通り、一生懸命にお勉強してたのだ。


 結果が、これだ。


 唇をかみ締めて、目を静かに閉じる。頬をなでる初夏の風は優しかった。


 目を開ける。もしかしたら、私はあの頃から世界が灰色に見えていたのかもしれない。世界には色があるものだと、私にも色があるものだと、そう思い込んでいただけなのかもしれない。だとしたら、笑えるくらい傲慢だ。


 空を見上げる。日陰のベンチの上にあるのはこの公園で一番大きい木で、木漏れ日が嫌に眩しかった。


「――え?」


 誰かいる。


 目を凝らさなければ良く判らないが、木の枝に誰かいる。幼い子供ではない。どちらかといえば、自分より少し下、あるいは同学年くらいだ。木漏れ日が眩しくて判別がつきにくい。

 あんな高いところの枝にどうやって上ったのか、とか折れないのかな枝、とかくだらないことを考えすぎて根本的な疑問が出てきたのは一番最後だった。


 誰だろう。


 なぜか、話しかけてみようか、という気になった。人付き合いに関してはこと消極的な私にとってはどえらいことだ。きっといつもと生活の仕方が違っていたし、時間帯的に有り得ない人物がいることに興味と好奇心がおそらく勝ったのだ。


「――あの!」


 枝の上にいる人物に向かって思い切って声をかける。その人は足元にいる私に向かって、


「ん? なんだ騒々しいな」


 機嫌の悪そうな男の声を降としてきた。こめかみがピキッと音を立てたが、顔には見せずあくまでお上品に、


「そんなところでなにをしてるんですか?」

「見て判らない? 昼寝だよ、昼寝」


 判りません。 


 どうしよう、明らかにこちらに敵意を向けている。会話が続かない。困った。同時に、この声をどこかで聞いたことがある、とも思った。ごく身近なところで。


 彼も同じことを思ったらしく、「あれ」とつぶやく様に言ってから、

「お前、もしかして緋水のお嬢様か?」


 不愉快だった。


「……そうですけど」

「なんだなんだ。いいのか? 停学中に出歩いて」


 誰だか判った。「別に良いじゃない」とぶっきらぼうに言ってから再びベンチに腰を下ろす。無駄に興味と好奇心を使ってしまった。


「まあ、そうつっけんどんに言うなって」

「つっけんどんって……あなた、一体いつのじだ」


 大きく葉を揺らして木が揺れた。刹那、驚くほど静かに、枝にいた住人、結城翔太はベンチの側にいた。



 ――私達のこの出会いは、様々な人たちを巻き込む「人生」という名の一つの歯車となる。

 しかし、今はまだこの出会いが重要な出来事だなんて二人とも知らない。


 ただ私は、


「きゃ、きゃーーーーーーーーーーーーーっ!!」 


 とあまりの驚きに大声で叫んで幼い子供とその母親の注目と笑い声を得ることになる、最悪の記憶として焼き付けられるのである。

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