潮騒に駆動音
この世界には未来がないのに、まだ人々は未来を求めようとしている。
なぜなら、今立っているここが未来だからだ。そしてもはや次に来る時代はもう存在しない。
古ぼけ、手垢にまみれた十字架を片手で握りしめた。これがいつ誰が作ったかのか全く知らないが、少なくともこの手に渡るまで多くの人々の思いを吸い上げてこの重みを手の中で与えているのは知っている。
「あなたはとどまってくれないのですね……」
「すまない。帰国しなければならないんだ」
言葉を交わした。
あの人は今どうしているだろうか?
しかし、文治は、拳の中の十字架を見ると、たとえ何かのめぐりあわせで顔を合わせたとしても、結局彼は自分を迎え入れてくれることはないだろうと思った。
結局、互いに離れ合い、否定し合う運命。
本土に向かう途中、彼は京都に立ち寄った。列島の中では比較的安定している所だ。今や本土ですら安心して過ごせる場所ではないことを思えば、ここにしばらく滞在した方が安全だと思った。
気づくと、市女笠型の防暑器具を装着した老人が険しい表情を浮かべている。相手の話は母語だというのに、文治の左目に固定されたアイコンタクト式翻訳機が乱暴な言葉を丁寧な口調に変換し、液晶画面に表示させる。そして、それが女性の声でも流されるので、どことなく奇妙な感じがした。
文治は実際、相手の顔を見るまで声が聞こえなかった。こういうことで迷惑をかけることがどれだけ苦しいか、他の人には理解の難しいものだ。
相手は、低く、しかしいら立ちを隠しきれない様子でぶつくさ言っていた。それに対し、ただ頭を低くして、文治は弁解する。
「すみません。片耳が聞こえないものですから」
「ふん」
老人は立ち去った。
それから、人々がここで起きたいさかいの犠牲者を悼む行事をしており、文治はそれに勝手に近づいて妨げていたのだと初めて分かった。
もうあれも、遠い記憶になるのか、と島野文治は思った。
この指令を受けた時、実に複雑な面持ちを浮かべた。
ただ単に軍隊を常駐させるコストだけではない。自然環境に対する負荷もすさまじいものだ。そもそも、土地を放棄させるということ自体があまりに非道ではないか。
一度人類が放棄してしまった土地を、もう一度住めるようにするのは簡単なことではない。いくら外敵を退けるためだからといって、そこに、金属や爆薬を置いて、それでおしまいというわけにはいかないだろう。いつまでそれを続ける。そして誰がそれを片付けるのだ? 自然が分解し、塵に戻すまでどれほど長い時間がかかるのだろう。
「もはや北陸の沿岸は要塞のようになっているのだ。それを完成させるようなもんなんだよ、これは」 上官はこともなげに言って見せた。
「しかし……意味があるのでしょうか?」
「何だと?」
「もはや他の国も内部にいくつもの離反した勢力を抱えており、流民が侵入する地点はもはや多岐にわたります。ここだけを重視するわけにはいかないでしょう。それなのにまだ多くの予算をかけて……」
「だとしても、これは命令だ。変えるわけにはいかない」
昔からの慣行を墨守するこの国の気風というのが文治は気に入らなかった。もはや現行の制度が実情にそぐわないものにとうの昔になっているのに、いまだに古びたシステムで社会を理解し、支配しようとしている。だが、下々の民にとってはそんなものはおかまいなしだ。
島根県――令制国でいえば出雲国には空路ですぐに行けた。かつてなら何日もかかる道だが、現代の技術では旅情を感じる暇もなくすぐに行けてしまう。だからこそ、急にがらっと変わってしまった光景に慣れるまで時間がかかったし、二つの地点の間にある所々に関しては知る暇もなかった。
かつて大和朝廷とは異質な文化や信仰を持った国であり、後代に至るまで崇敬を集め続けた聖地だ。
しかし、経済的な利潤を追い求める人間にとってはそこは僻地であり、国防上ではそれでも重要な拠点でしかなかった。
そこに元からいた人々の意見などは無視されてしまう。文治はそれが心苦しかった。だがそこで経験したことは忘れることのできないものだった。衰えていく時代だとはしても、それでも何とか希望を見出す人間はいた。もはや滅ぶ有限の被造物ではなく、もっと五感を越えた何かに対して。もはや物質的な要素に期待するしかないこの世情の中に、文治は人間の小細工などでは決して損なうことのできない物を見た。
だからこそ、本土には直で帰りたくはなかった。まだ期日までには、まだ余裕がある。それまでに、本土の外にある物を見物しておきたかった。
文治は、海に関するものを見たくなかった。
本土の……松戸や銚子の海水浴場がどれだけ豪華かをアピールするポスターが飾ってあった。それはどこまでも人間が管理する安全な海に過ぎず、ありのままの、未知の海というのは荒々しく、もっとぞっとさせるものなのだ。
そう、海だ。海は怖ろしい場所であり、怪物が襲来する場所だった。
その向こうは想像することもできない恐ろしい異世界であり、かつてはこの海を通じて人々が往来した記憶は完全に忘れ去られていた。もはや、敵意の象徴であり、この海の水滴の一つ一つすら人々は激しい畏怖を抱いて見やったのだ。
空中をむなしく漂う車輪、地上を自動操縦の球体が練り歩いている光景を何度も目にして、文治はこれが人間の文明の行き着く先かと、絶望を感じたものである。
人が人を必要としなくなる世界。
ここには、人間が存在する上で必要な目的がない。もはや人は果たすべきことを何もかも達成してしまい、そのまま消え去ってしまったように見える。
人間は、あらゆる合理性を追求した末に自分自身を絶やしてもいいのだ、と思ってしまうに違いない。
それに比べれば京都はまだ人間味を感じさせる。
様々な肌の色や服装で身体を包んだ雑踏を眺めるだけでも、精神的にはかなり救いになる。生きた人間が、変わらぬ日常を送っているというだけでも。
以前、京都では御所を中心に大きな騒乱があったそうだが、それを感じさせないほどに人々は落ち着き払っていた。
キリスト教徒や仏教徒のコミュニティが支配的な所よりも、ムスリムが多い地域の方がまだ治安が良いということを誰かから聞いたことがあるが、案外本当にそうなのかもしれないとこの様子を見て思う。とはいえ、キリスト教徒としての出自に浅からぬ帰着心を持つ文治にとってはむしろそれは複雑なことだ。
抗争に勝利した人々は、本土に急いで使節を送り自分たちの支配を承認させたという。こんな時代になっても、まだ政府はその権威を失ってはいなかった。
大小無数の共同体がこの島々に跋扈しており、どこか一つの勢力が優越することは絶えてない。政府が重要視するのは外敵からの防衛であり、内憂の方に関しては全くの無防備だ。
もはや権力が無力化し、この国の宗教心はむしろ復活した。もはや目に見える何かに頼り切れなくなった結果、目に見えない大いなる力にすがりつくようになった。しかし、人は死ぬ。
黙祷は、犠牲者を追悼していたのだ。宗教の違いを越えて、人々が歴史を振り返るあの瞬間が、文治にはまぶしかった。
だが、人間同士で殺し合って死ぬのは、なんと幸せなことではないか、と思う。
人は……人によって死ぬ方がまだましだ。人ではない何かに殺されることほど恐ろしいことはない。よく『人間が一番恐ろしい』というが……そんなことはない。
決して暴力は肯定しないが、人間同士の交流が希薄な環境に無理矢理長くおしこめられていた時のあのおぞましい孤独を思うと、たとえ不本意な接触であっても人間同士がぶつかり合い、傷つけ合い、理解し合えないままに壊れていく世界の方がまだましだと思えたほどだ。
夷川通のあたりに来た。自動車はもうほとんど往来しない。そんなものは一部の支配層以外誰も乗らない高価なものだ。
今出川キャンパスの反対側にある、うらぶれた二階建ての建物の一階に入った。
「いらっしゃいませ」
初老の男の声が響いた。
そこには、カウンターを挟んで若い男二人が話し合っている最中だった。
「あの……浅いものを飲みたいんですが」
この厄介な正気から目をそらす方が賢明だと思ったが、酒びたりにもなりたくなかった。人間は、我を忘れるわけにはいかないのだ。
「ここのものじゃないな」
背の高い、彫りの深い顔の青年が言った。
「ちょっと翔治さん、そんなに」
背の低い方は、一昔前の書生のような雰囲気があった。
「翔治という人です。僕は金敦日といいます」
「敦日?」
「先祖が韓国から来たものですから」
『韓国』だと? 文治はますます険しい顔になった。
翔治は咎めた。
「何か問題があるのか?」
思う所はあったが、文治は平静に戻り、小さな声で言った。
「……僕の先祖は中東から来た」
敦日はそれで、この男の話をよく聞いてみたいと思った。
「中東?」
「京都の街はきれいだね」
「いや、ほんの数ヶ月前からのことですよ。ごみをまともに拾う人だってまともにいなかったんですから」
「最近になってこの街の支配権を握った連中がそういうことに何かと口うるさいんだよ。市場を開く時間にすら決まりを設けているからな。あと、死体の遺棄も厳しく禁じるようになった」
「最近では平安神宮の隣にモスクを築くそうですよ。なんでも地元の人たちに慣れてもらうために寺みたいな作りにそうです」
先祖が故郷で受けた仕打ちについて色々教えられたことを、文治は思い出していた。
たとえ彼らが善良な人間だったとしても、文治にとって、彼らの信じている者が問題なのだ。
少数派であるということがどれだけ恐ろしいことか。
数世代前の先祖が、どれだけ困難な運命に翻弄され、世界中の国々を放浪したか、文治は祖父母からひっきりなしに聞かされていた。
敦日は、そして文治の胸にかかっている飾りに気づいた。
「その十字架は……キリスト教徒ですか?」
「ああ。でも、カトリックとかプロテスタントとかじゃないんだ」
文治は、この件に関してはあまり人に語りたくはなかった。
「シリア正教会、と言ってもわからないか」
「悪いが宗教にはそこまで詳しくないんだ」
「まあ、僕の先祖はこの世のどこにいてもよそ者だったんだ。それだけ分かってくれればいい」
主人は黙って三人の会話を聞いていた。
文治は何もかも話したいわけではなかった。
こういう感情は胸の奥に秘めておくべきものだ。
「沿岸の兵器のメンテナンスをやってたんだ。それで本土から帰還命令が出たから、帰りしなここに立ち寄ってみようかと思ったんだ」
敦一は、それで思い当たることがあった。
「山陰ですか?」
「うん。あそこはいい場所だよ。人の手が加わらなければね」
『人の手が加わらなければ』という言葉に、様々な感情がこもっているようだった。
文治の言葉の後、沈黙があった。
「あの潮騒。何の自我も感情もこもっていない駆動音。無限に聞いていると気が狂いそうになる。そういう時に僕はこの十字架を握りしめてずっと、この時間が終わるのを待ってたんだ」
うつむいたまま、小声で。
「人が、全て悪いんだ」
敦一は、そこで起きたことに関しては、漠然ながら知っていた。いや、漠然としか知りたくないことだ。
「防衛のために住民を退避させて、そのままだと聞いたことがありますけど」
「ああ。僕があそこに赴任した時には、もう十万人も住んでいなかった」
「十万人?」
「ああ。あの細長い地域にな。戦争に備えて、住民を一斉に南に向けて退避させたんだ。あの時はいつ戦争が起きてもおかしくなかった」
文治は、後ろめたい気持ちになり、やや顔をそむけた。
「それを住民に納得させるなんてできるわけがなかった。だから力ずくで連れていくしかなかったんだ。自衛官、地質学者とか、神職や住職といった人を除いては、残留を許されなかったんだ。そこにある文化を守るための最低限の措置だが」
文治の言葉を、二人とも黙って聞いていた。
国防上の要衝から、完全に人間の姿が消えたわけではない。
信仰の拠点となる場所は、特例で住民の残留が許可されたのだ。それは、人間の魂のありかをかろうじて根源的な段階から取りこぼさないために必要な施策だった。だがきっと、それすら厭うような人間が政界の中枢にいるのは明白だった。
ここで感じる虚無に対抗するために、文治は、永遠なる者を想像しようとする。目の前のいずれ滅びゆく物とは異なる永遠な物を。
そして、こう悟る。人間は、自分が作り出したものをまともに統御できない弱者だということを。
伝道の書に記されている通り、太陽のもとに全ては空しいのだ。
かつて世界は美しかった。しかしそれは、今では損なわれてしまった。これはまだまともだと判断できるような、見慣れているものですら、おそらく昔の人々からすれば醜いものとして映るだろう。
そんな苦闘の中で、重子と会ったのは、実にそっけない瞬間からだった。
人々が悲嘆に暮れている中で、彼は重子と出会ったのである。重子は、いかなる感情にも溺れることなく、ただじっと文治の瞳を見つめていた。
文治は、どのように彼に声をかけたらいいか迷った。
「これが良いことだと思っているんですか?」
「思ってるわけないだろう。でも、国家がそう命じているんだ」
自分は国家の公僕に過ぎない。どうやって距離を詰めればいいか、ずっと迷いがあった。
文治は、少なくともシステムの一部にはなりたくなかった。
人間と人間のやり取りをしていたかった。そうでなければ、ここでの理不尽な使命にあらがったことにはならない、と思ったからだ。
それから、二人は少しずつ会話をする仲へとなっていった。もっとも、常に殻の中から覗き合うような関係だったが。
「本土も地獄だが、外地にも外地なりの地獄があるよ」
敦日が、やや気色ばんだ声で言った。
「本土、本土といいますけど、五十年ほど前まではここも本土だったんですよ」
この男が体制側の人間だと思うと、やや口調にきつい物が漂わざるを得なかった。彼が、決してこちら側の事情をくみ取り切れる人間ではないという諦めや決めつけが彼にはあった。
(この人は、一体どれくらいこの国の歴史を知っているというんだ)
「僕たちにとってはここが日本の中心なんですから。それくらい、この国が分断されているってことですけど」
翔治は、何とも返答しがたいように首をかしげていたが、静かにこう言った。
「すまない。昔からあの地域の中でばかり育ってきたせいでよくわからないんだ」
結局、自分はこの場所ではよそ者なのだという事実に、文治は何となく傷ついた。
この二人にどこまで話すべきか悩んでいるうちにも、彼の親指と人差し指は手垢を絞り出していた。
自分の恥部を晒すような痛みが、心の中に走った。
「地元の人ときちんと話をしたり、理解を深め合ったりすることがないわけじゃなかった。その中で、気の引かれる人間だっていたんだよ。もう、誰だったかも忘れてしまったが……」
しょっちゅう各地を動き回る――あの駆動兵器のように――文治と違い、重子はほとんど県外に出たことがないという。
「私は、ここで生まれてここで育ちましたから、外がどうなっているかよく知らないのです」
「外はひどいよ。知らなくていい」
文治は、重子が疎い人間だと思っていたが、実際に話してみるとむしろ彼の見識の深さに驚いた。
巫女としての教養は広範囲にわたった。
文治は、基本的な宗教に関する考え方が他の人々と違っていることに気づいた時、やや衝撃を受けた。ある意味、誰にも簡単に言いあらわすことのできない信仰を秘めている点で二人は共通していた。
それから、もっと軽めの話題についての話ができるようになるまでにはもっと時間がかかった。
きっと、二人は思うほど互いに対して信頼していなかったのではないか、と文治は思った。
重子は、現地にある神社の巫女だった。
常に落ち着いた物腰で、他の人間からは浮いたように見えた。そして実際、その神秘的な雰囲気は、他の人間とは一線を画していた。彼は泥濘の中からささやかに、しかし高く咲く百合の花のようだった。
だが信仰が違うために、二人はそれ以上の関係に進むことはなかった。
彼の信じる神はそこにとどまり続ける。ゆえに、人間が信仰を保ったままそこから逃げることなど許されない。
どちらが優れているかなどという問題ではない。文治にとってはそこは決して譲れない点だった。
だから、信仰についての話はしなかった。ひたすら、この日々をどれだけ長く生きられるか、という疑問にだけ集中していた。
重子からふと目をそむけ、周囲を見回すと、やはりあそこは冥界だったのではないか、と文治は思う。古代の日本では山中に死後の世界があると考えられていた。
そして、文治がいた島根の山奥も、人間の生の息遣いを頑なに拒むような世界だった。異教的発想だとわかってはいても、ああいう湿気の多い環境にいると嫌でもそう考えざるを得ない。あそこでは生き物の声など聞こえてこない。人間が作り出し、人間が勝手に放置した鉄くずがむなしく音を立てている。
政府の役人とはいってもそこまでいい場所で暮らしているわけではなかった。
彼は、無人の駆動兵器に怪しい動きがないか確認できるように、海岸に近いところ、ほとんど小屋と変わらない場所で寝泊まりしなければならなかった。これらの駆動兵器を、いつ敵襲があっても起動できるように調整するのが文治の役割だった。そして、その冷たい機体や駆動音が静かに、しかし重苦しく文治の心を擦り減らしていくのだ。
ここでの生活で文治が後ろめたい思いをすることは何回となくあった。あいつは俺たちよりもいいものを食っているんだ、といった類の噂はいくらでも流れた。彼らに、何を説明しても埒が明かないと文治はあきらめていた。重子だけが、そんなものは根も葉もないでたらめだと分かってくれた。
この苦境を味わうたびにもはやこの国は一体ではない、と文治は思わざるを得ない。
遠隔操作で無人兵器を一時的に停止させている間に、文治は作業を行う。自律兵器を対処するために、伸ばせる腕のついた四メートルほどの高さはある重機に乗って、操縦していたのだ。もしエラーでも起こしたら大変なことになる。パネルを操作し、バグなどがないか調査する。これは、汚くはないが、それでも生きた心地のしない瞬間だ。そして、仕事の時間はひにちによって長かったり短かったりして定まらなかった。あまり夜遅くまで外にいると、野盗に襲われる危険もあった。だが、まだそっちの方がましに思えた。機械は人を人と思わないからだ。
そしてふとした節で地面に転がり、そのまま遺棄された不発弾をうっかり起爆してしまったのが、運の尽きだった。
文治のこの事故を知ると、重子は、後遺症がまだ残っていないかどうかとか尋ねたり、生活が不具合がないように色々と世話をしてくれた。文治はそれをありがたいとは思いつつ、しかし一方ではこの少女に迷惑をかけてはならないと気に掛ける気持ちもあった。同宗の人間にここまで心配してくれることはかつてなかった。
その通り、重子以外の人間はみな冷たかった。地元の役人や宗教者から煙たがれるのには慣れていたが、かといって故郷や上層部の人間がこの苦境を分かってくれることは一度もなかった。
敦一も、翔治も、文治の話を静かに聞いていた。
最初は彼をただ鼻持ちならないエリートとしか思っていなかった翔治は、もう会ったばかりのように彼を疎むことはできなかった。敦一は、
「本土で生きていると、人間の心の一部が死んでいくような気がするんだ。もうそうやって心を殺した人間ばかりの子孫ばかりなんだからな、正直人の住む所ではないかもしれない」
「ああ。昔から殺伐とした噂の絶えない所だからな」 翔治は言った。
「でも、そこに戻らなきゃいけないんでしょう? 仕事なんですから」
「仕事だよ。必要だが、どうせ誰も注目してはくれない仕事だ」
いや……違う。あれが必要な仕事なのか?
愛や平和を説く神が、そんなことを必要だと見るはずがない。だが現実の世界は、そんな無駄なことに金と時間を注がせる方向に人間を駆り立てている。
重子にだってこのことは厳しく聞かれた。
「あなたは、こんなことを必要だと思っているの? 安全という名目で、住民を根こそぎにすることが」
文治は、信仰と業務の釣り合いをとることができず、
「……必要悪だ」
「悪に必要な物なんてあるわけないじゃない。必要な物なら悪ではないわ」
文治は重子から目を背けるように言った。
「けど、必要な物でも悪い物はたくさんあるよ」
「そんな物……必要だと言いたくない」
巫女装束の彼は、この世から隔絶した雰囲気があった。
たいして自分は、俗世間の悪習にまみれ、権力の手先となり、自分の意思では一切動いてなどいない。
重子が、それに巻き込まれるなど文治は想像したくなかった。できることなら重子を本土の安全な場所へと連れて行きたかった。だが重子にそれはできなかったし、また重子自身が望まないことだった。『そこにいること』が使命の人間だからだ。それをくだらないという人間に、その決意の重みなど分かるはずもない。文治は、この点で重子がまぶしかった。
そして、この会話の一週間ほど後に帰還命令を受けた。
「僕は、あの頃が懐かしいんだ。ひどい日々だったが、確かにあの中にも幸福はあったよ」
敦日は、再び遠い目になろうとしている文治を現実に呼び戻すかのように問いかけた。
「また重子さんに会いたいですか?」
「いや。きっと彼はそんなことを望まないさ。また会っても、もうあの日々と同じ時間は過ごせない。それに……」
外の光景を眺めながら、文治は言った。
「あの人以外のことだと。やはり、あれはまさに不毛で不必要な時間だった。この世界にやっぱり人間が必要なのかどうか、疑いたくなる」
「人間がいなくなったら、文治さんの体験を語り継ぐ人はいなくなります」
「そこまで語り継がれる値打ちのある人間だとは思わないがね」
「人は忘れ去られたら本当に終わりですから」 敦一は穏やかな声で言った。
どことなく、文治の顔色が少しだけ晴れたような気がした。
文治が退出した後、三人はしばらく黙っていた。あの男のことを短い時間で一体どれだけ理解できたというのだろう。
しかし、翔治は、文治を性分が合わない人間だとすでに判断していた。
翔治は、嘆くように言った。
「あれは、偉い人間だよ。まったく」
贅沢な悩みだとしか思えなかった。
「人間は恐ろしい生き物だってことを知らないんだ。神より恐ろしい存在はないようだが……実際に存在する人間の方が恐ろしいんだよ」
翔治にとっては、目に見えない物など存在しないも同然だった。
「……神か。神、神、神……そういうのがはやりなのか? 猫も杓子も人のことを考えない。もっと人のことを考えるべきだよ」
話している間に、翔治は、文治に対する悶々とした感情がよみがえってきた。どれだけ世の中のよくわかっていて、陰鬱になってしまったという風を装っていても、結局それ以外では体制の思想を容認しているのだ。
「人間が人間の生を終わらせちまうんだからな。まったく、何もかもが人間のせいだ!」
「その人間が作った物が、人間を殺すように勝手に動くことをあの人は恐ろしいと言ってるんでしょう」
「だが、その大本の原因は人間なんだぜ。全くよくできていやがるよ、世の中は」
敦日は、翔治ほどには辛辣ではない声で、
「まあ、あの人は、神が全てを解決してくれると思っているんでしょうけどね」
二人にとって、現実はここにしかない。この現実を越えた何かにやすらうわけにはいかない。ここで生きていくしかないのだ。
文治は、丸太町あたりまで歩いていた。
寂れた場所、賑やかな場所を交互に見るうちに、不思議と心が落ち着いた。やはり時間の積み重ねが存在するからだろうか。
ここには、現在と過去がある。東京には現在しかない。昨日のことですら、何十年も前のことのように打ち捨てられ、誰も思い出す者がいない。そうやって物思いにふけていくうちに、京都駅前にまで近づいてきた。イオンモールKYOTOの近くにあるホテルに、昨夜は止まる予定。
記憶され続けることをそこまで価値のあることだと文治は思わなかった。
京都の街も、一種の檻ではないのか? というような気がした。
もはや、人の住む所に束縛のない場所はない。
あの二人も、本土から出ることを頑なに嫌う連中とそこまで大差がない気がした。
ここがなくなったら、人々はどこに住めばいいのだろう? もはやどんどん人間が生きていける場所は減っているのだ。自然の復活だ。そこに文治は神の意思の配在を見た。
ここでは平成や令和の古い町並みが残っている。
仏寺や神社はまだ丁重に保管されている物がある一方で管理のされなくなったキリスト教会がいくつかモスクに転用されていた。
宗教を問わず誰もが使える礼拝所の整備が急ピッチで進んでいる、というようなニュースを聞いていたが、やはりいくつかの宗教が優勢になるのは避けられない。
故郷の人々は、きっと何一つねぎらいの言葉をかけてはくれないだろう。輪をかけて閉鎖的で、決して心を開かない人々だ。自分が直接受けたわけでもない先祖の傷跡をなお引きずっている人々だ。
教会の中の洗礼も、説教の光景も、狭苦しく、薄暗い雰囲気だった。あの空間に自分は戻っていくしかないのだ。誰もが、嫌でもすがりついてしまう檻につきまとわれている。
文治は突如響いた女性の声のアナウンスに驚き、ビルの壁面に張り出されたモニターを見上げた。
太平洋で、プラスチックを分解する微生物が急激に増えてきている、というニュースが流れていた。




