第5話 おっさん溺れる
骨の芯まで凍るのではないかと思うほどの冷たい水に叩きつけられた衝撃で、リリアの意識は無理やり現実へと引き戻された。
濁流の中、口や鼻に容赦なく流れ込んでくる冷水に、一瞬パニックに陥る。だが、喉の奥に残る、あの御者さんが無理やり飲ませてくれた丸薬の苦い味が、彼女に「まだ死んではいけない」と告げているようだった。
「ごぼっ・・・げほっ、げほっ!」
必死に水面に顔を出し、空気を求めて喘ぐ。体中が悲鳴を上げていたが、不思議と致命的な痛みはない。あの丸薬が、そして落下の間ずっと自分を抱きしめ、衝撃を受け止めてくれたあの大きな背中が、彼女の命を繋ぎ止めてくれたのだ。
その、命の恩人はどこに?
リリアは必死に顔を上げ、荒れ狂う川の流れに目を凝らした。
いた。
数メートル先を、まるで枯れ木のように浮き沈みしながら、流されていく人影。あの御者さんだ。
「う、ぅ・・・っ!」
喉から絞り出すような声にならない叫びを上げ、リリアは本能のままに手足を動かした。痛む体など構っていられない。あの人を、失うわけにはいかない。
Sランクパーティーに道具のように扱われ、恐怖に心を殺していた自分に、ただ一人「生きて帰ろうな」と言ってくれた人。崖の上で、自分の命よりも、見ず知らずの自分を優先してくれた人。あの暗闇の中で、自分を助けてくれた唯一の光。
その光を、こんな冷たい川の底に消させてたまるか。
リリアの小さな体に、恐怖とは異なる、小さな、しかし確かな決意の炎が灯った。
彼女は必死に腕をかき、足をばたつかせ、水飛沫を上げて御者さんのほうへと泳ぎ始める。だが、川の流れは想像以上に激しく、非情な力で彼女の体を押し流していく。近づくどころか、その距離は絶望的に開いていくばかりだった。
もう、だめかもしれない。
諦めかけたその時、リリアの目に御者さんのすぐ近くで浮き沈みする長い棒が映った。あの槍だ。彼の手首に絡みついた革紐が、幸運にも槍と彼の体とを繋ぎ止めている。
あれなら、届くかもしれない。
リリアは最後の希望に賭け、狙いを御者さん本人から、その命綱へと変えた。
流れに逆らいながら、必死に手を伸ばす。
あと少し・・・もう少し・・・
指先が槍の冷たい柄を掠めた。だが、次の瞬間にはまた離れてしまう。それでも彼女は諦めなかった。何度も、何度も手を伸ばし、ついにその指が槍の柄をがっちりと掴んだ。
「つかま・・・えた・・・!」
ずしりとした重みが、革紐を通して伝わってくる。彼女はそれを逃すまいと、ありったけの力で槍を手繰り寄せ始めた。一尺、また一尺と、御者さんの重い体が、ゆっくりと、しかし確実に彼女の元へと引き寄せられてくる。
そしてついに、気を失った彼の体を、その腕の中に抱きしめることができた。
リリアは、御者さんの体に槍を抱かせるように固定し、自分もその槍に必死にしがみつく。こうして、おっさんと少女は、ドラゴンを穿った一本の槍を命綱として、先の見えない暗い川を、ただひたすらに流されていった。




