第10話 森の恵みと、魔法の槍
岸辺を離れた二人は、森の奥深くへと足を踏み入れていた。オーガの血の匂いが漂う川岸は魔物を呼び寄せる恐れが高く、長居するのは危険すぎた。また、周りから丸見えの川沿いを歩くのは悪手とのディノッゾが判断し、彼らは人里に続くかもしれないという、かすかな望みに賭けて獣道すらない森の中心へと進路を取った。
木々は鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに陽光はまだらにしか届かない。一歩進むごとに、湿った土と腐葉土の匂いが濃くなる。行く手を阻む枝、足元に絡みつく根。ディノッゾは時折リリアを気遣いながら、道なき道を進んだ。重い足取りで森の中を進む。ディノッゾは、長年の経験で培った目で、注意深く周囲の植生を観察していた。
「リリア、ちょっと待て」
ディノッゾが足を止め、木の根元に生えている見慣れない形のキノコを指さした。リリアが不思議そうにそれを見つめる。
「ディノッゾさん、これ、食べられるんですか?」
「いや、こいつは『ワライダケ』だ。食ったら腹を壊すどころか、幻覚を見て崖から真っ逆さま、なんてこともある。だが、あっちの木の蔓に絡まってる赤い実『森イチゴ』は食えるぞ。『ヘビイチゴ』に似てるけどな、毒はないし甘酸っぱくて美味いんだ」
ディノッゾはそう説明しながら、手際よく食べられる実だけを摘み取っていく。リリアは、彼の豊富な知識に目を丸くした。
「すごい!ディノッゾさんって物知りなんですね」
「ただの旅人の知恵さ。これくらい知らねえと旅の最中に、野垂れ死ぬだけだからな」
そう言って笑うディノッゾの横顔は、いつもの御者の顔とは違う、頼もしさに満ちていた。だが、そんな彼らの前に、突如として、それは現れた。
茂みから飛び出してきたのは猪のような体に、狼の頭を持つ獰猛な獣型の魔物だ。剥き出しの牙から涎を垂らし、一直線に襲いかかってくる。
ディノッゾは咄嗟に槍を構える。だが、木々が密集する森の中では、三メートル近くある長槍はあまりにも扱いづらい。振りかぶれば枝に阻まれ、突き出そうとすれば根に足を取られる。攻撃を捌かれ、じりじりと距離を詰められてしまう。
「くそっ、邪魔くせえ!こんな長い槍、この森じゃ使えねえ!もっと短かったらな!」
苛立ちを込めて悪態をついた、その瞬間、信じられない出来事が起こった。
手に余るほどの長さの槍が、まるで生き物のように蠢き、金属が砕けるような、しかし柔らかな音を立てて「するり」と短くなる奇妙な感触。ディノッゾが呆然と手元に目をやると、三メートル近くあった長大な槍が、まるで手頃な杖のような長さにまで縮んでいた。
「な、なんだこれ…!?」
彼の思考が停止した隙を、魔物が見逃すはずもなかった。獰猛な牙が、目の前に迫る。
「うおっ!?」
慌てて、手の中の「短くなった槍」を盾のように突き出す。だが、パニックで上下も分からなくなっており、相手に向けたのは穂先ではなく、末端の石突の方だった。
ドゴォン!
信じられない轟音と、何かが破裂するような湿った音。
ただの鈍い末端での一撃。だが、その威力は穂先での一撃と何ら変わらなかった。魔物の頭部は完全に消し飛び、巨体は勢いを失ってその場に崩れ落ちる。
ディノッゾは、返り血を浴びた「短くなった槍の石突」と、魔物の残骸を、交互に呆然と見つめた。
「短く、なっただと?」
隣でその光景を目撃したリリアは、あまりの出来事に声も出せずに立ち尽くしている。
(倒しちまった…)
ディノッゾはゴクリと喉を鳴らした。
(いや、俺の力じゃねえ。この槍がやったんだ。思っただけで長さが変わって、石突ですらこの威力・・・とんでもねえ魔法の槍だぞ)
彼の思考は、目の前の魔物の死体を、未知の物体を見るかのように捉えていた。
(いつもなら、高価な魔物避けの香を焚いて、こういう奴らとは関わらないように街道を選ぶんだが…三十六年間生きてきて、魔物を殺したのは、昨日のオーガが初めてだ)
店で肉を食ったことはある。美味いことも知ってる。だが、どうやって処理すりゃいいんだ?
(冒険者どもは金になりそうな素材だけを器用に剥ぎ取っていくし、肉は町の専門の肉屋に任せるのが常識だ。キャンプの知識はあっても、獣の解体なんてやったこともねえ…血はどうすりゃ良いんだ?内臓は食えるのか?)
全く分からない。だが、この貴重な食料を無駄にはできない。
ディノッゾは「ええい、ままよ!」と覚悟を決めると、見様見真似で解体を始めた。ナイフで腹を裂き、手探りで魔石を抜き取る。その後、食べられそうな赤身の肉を、大雑把に切り分けていった。
リリアに手伝わせて火を起こし、適当に切った枝に肉を串刺しにして焼く。香ばしい匂いが立ち上り、したたる血が空腹を刺激する。ようやくありついた、まともな食事。しかし、いざ口にすると――。
「うぇーっ!」
ディノッゾは盛大に肉を吐き出した。野性味あふれる、というよりは、ただひたすらに土臭くて生臭い。とても食えた代物ではなかった。リリアも一口食べて、思わず顔をしかめる。
「美味しい、とは言えませんね」
「美味しくないどころの話じゃねえ…ったく、なんだこりゃ・・・」
ディノッゾはそうぼやき、がっくりと肩を落とした。せっかく手に入れた食料なのに、これでは腹を満たすことすらままならない。自分の無知さに、苛立ちが募る。
すると、リリアが何かに思い当たったように、おずおずと顔を上げた。
「あの、ディノッゾさん…」
「ん?」
「昔、お屋敷の料理長が、納品されたお肉を見て、ものすごく怒っていたことがあって・・・」
彼女は、当時の光景を思い出しながら、必死に言葉を紡ぐ。
「『ふざけんな!血抜きもしてねぇ肉をよこしやがって!こんなの、家畜の餌にすらならねえぞ!いや、家畜だって食わねえ!』って、叫んでるのを聞いたことがあるんです。だから、もしかしたらこれが、その・・・」
その言葉に、ディノッゾもまた、ハッとした顔をした。彼の脳裏にも、昔世話になった宿場町の、肉屋の頑固オヤジの顔が浮かぶ。
『いいか、兄ちゃん。肉ってのはな、血の抜き方一つで天国にも地獄にもなるんだ。このひと手間を惜しむ奴は、三流以下よ!』
リリアの聞いた料理長の怒号と、肉屋のオヤジのぼやきが、ディノッゾの頭の中で一つに繋がった。
「なるほど。くそ、そりゃそうか・・・血抜きか」
自分の迂闊さに、ディノッゾは改めてため息をついた。とんでもない魔法の槍を手に入れたところで、知識がなければ宝の持ち腐れだ。
だが、彼はすぐに顔を上げた。その目には、失敗を糧にする、旅人ならではの力強い光が宿っている。
「分かった。リリア、次に獲物を仕留めたら、その『血抜き』ってのをやってみよう。お前さんの耳と、俺の記憶が正しいかどうか、試してみる価値はある」
「はい!」
ディノッゾの槍と、リリアの記憶。二人の力が合わされば、この過酷な森でも生きていける。そんな確かな手応えが、二人の間に芽生え始めていた。




