第1話:医師コウ、連れ去られる
(……また、死人か)
乾いた風に乗って、血と鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。
診療院の片隅、床に転がる少年兵の遺体にしゃがみ込み、コウは眉一つ動かさずに傷口を見つめていた。
剣傷ではない。刺突でも、毒でもない。
肌に残る不自然な点状出血。指先に染み込んだ血液の乾き具合。
死因は――
「高地性の細菌性感染症。肺から血管を破って心臓に至ったな」
付き添っていた兵士たちが一斉に顔をしかめる。
「……なんだその、呪文みたいな診立ては」
「呪文じゃない、病理だよ」
呆れたようにコウは立ち上がった。
薄汚れた外套の裾が揺れ、首元から覗く灰色の薬包紙がひらりと舞う。
辺境の野戦診療院には、医師らしからぬ医師がひとり。
痩せこけた頬と煤けた手、無表情に診察を繰り返すその姿は、患者たちから《異端医》と囁かれていた。
「こいつと同じ症状で死んだの、今月で七人目だな……」
部下の報告に、コウは空を見上げた。
真昼だというのに、どこか淀んだ灰雲が空を覆っている。
(疫病なら、もっと広がる。だが死ぬのは軍の少年兵ばかり。おまけに皆、同じ時間帯に、同じ食事を取ってる)
「……食堂か。あるいは炊き出しの大釜だな。使っている水源を調べさせろ。井戸の底が腐ってる」
そこまで言った時だった。
馬車の車輪が鳴る音が、乾いた土を切り裂くように響いた。
珍しく兵士たちが慌ただしく道を開ける。
現れたのは、金の文様を施された黒塗りの馬車。そして、異様に静かな宦官の一団。
「――医師コウ殿か?」
年若い宦官が無表情に問う。
コウは片眉をあげ、黙って頷いた。
「陛下の勅命により、あなたを帝都へ連れて行く。拒否権はない」
兵士たちが騒然とする中、コウは再び死体に視線を戻し、そっと呟いた。
「……帝都で死人でも出たか」
「後宮で、立て続けに」
「ふん。呪いだの怨霊だのと騒いでるんじゃないだろうな?」
「――その通りです」
皮肉げな笑みが、コウの口元に浮かんだ。
帝都・煌牙こうがの宮廷。
そこは選ばれた者たちの理想郷ではなく、噓と野望が渦巻く監獄だった。
着いたその夜、コウが見せられたのは、血の気を失った乳児の亡骸。
そして、取り囲むようにすすり泣く女官たちと、冷たい目をした上級宦官。
「呪いでございます。先代の妃が、恨みを残して……」
「呪い、ね」
コウは無言で乳児の唇に指を当てた。
小さな口に、わずかに残された紫色の斑点。
(低酸素症状?いや、違う。これは……)
コウは衣の下から小さな箱を取り出した。
中には極小の銀製の棒と、幾つかの薬包紙。
床に片膝をつき、わずかな血痕と体液を吸い上げては確認していく。
「……これは呪いでも、毒でもない。ただの不注意による――否、明確な意図のある殺人だな」
「な、何を……」
「この乳児は殺されたんだ。しかも、素人じゃない。手口が妙に手馴れてる」
静寂が、その場を覆った。
異端の医師は、静かに立ち上がる。
「ひとつ確認する。――この子の産湯に使ったのは、どこの水だ?」