表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/49

写真たち


「これから逸くんのカウンセリングを担当する古川(ふるかわ)です。よろしくお願いします」

 

 次の日の朝、見たことのない人が部屋にやってきた。 


「よろしくおねがいします」

 メガネをかけているかしこそうな男の人に頭を下げる。

 

 男の人の左手の薬指には、キラキラの指輪がついていた。

「先生結婚してるの?」


「え?」


「指輪してるから」

 古川先生の左指の光っている指輪を指さす。

 古川先生は自分の左手を見て、納得したようにあぁとつぶやいた。


「はい。先日入籍しました」

 古川先生はそう言いながらメガネを中指でクイっと上に上げる。


 カッコいい。ドラマに出てくる研究者みたいだ。

 

 目の前の古川先生は、立花先生と同じようにファイルから紙を取り出した。


「では、昨日もいろいろなことを聞かれたと思いますが、今日はさらに多くのことを聞かせてもらいますね」

「はーい」


 ベッドの上に座り、足をぶらぶらさせる。

 今日から足のヒモもとってもらえることになったから、自由に動くことができる。


「お名前を教えてください」

「純浦逸です」

「歳はいくつですか」

「二十さいです」


 古川先生は、メモをとっていた手を止めてななめ上を見た。


「七歳ではないのですか?」

「ぼくは二十さいだってみんなが言ってたから、そうだって思うことにした」

「そうですか」


 古川先生は再びメモをとり出した。


「古川先生は何さい?」

「僕は二十七歳です」

「そうなんだ」


 メモをとっている古川先生の長いまつげをじっと見ていると、いきなりこちらを向いてきて、ぱちりと目が合った。授業中、急に指名されたときのように、心臓がドキリとした。


「もう立花先生に言われたかもしれませんが、君は記憶障害というものになっています。まずはそれを自覚することが一番大切です。これから過ごしていくうえでわからないことにたくさん直面するはずです。昨日、ご両親から私たちがお母さんだ、お父さんだ、と言われても信じられなかったと思います。そして何より、思い出したい、と思ったと思います。しかし、一番大事なのは思い出すことではありません」


「思い出さなくていいの? 思い出したいよ?」


「思い出すことができるならそれが一番だと思います。思い出せたなら、記憶障害は治ったも同然です。でも、思い出せなかったとしてもいいんです。わからないことに直面したときに、自分は記憶を失っているんだ、とわかっていればいいんです」


 古川先生は、薬指にはまっている指輪をくりくりと回している。


「人生のすべてを覚えている人なんてこの世に存在しません。僕だって、もう十年前のことはあやふやです。二十年前なんてもっと覚えていません。だから君もすべてを思い出せなくていいんです。ただ、『自分は過去のことを忘れている』ということだけは、ちゃんと覚えておいてください」


 言葉の意味はうまく理解出来なかったけど、古川先生のハキハキとした言葉にぼくは深くうなずいた。


 それから古川先生からの質問は続いた。

 好きな食べ物は。

 好きな教科は。

 好きなアニメは。


「好きな食べ物はオムライス。好きな教科は国語。好きなアニメはクレヨンしんちゃん」


「国語が好きなんですね。国語のどこが好きなんですか?」


「たくさんのお話が読めるところ。スイミーでしょ。くじらぐもでしょ。ごんぎつねでしょ。あとはね……」

 指を折りながら好きな物語を数えていく。


「あれ? ごんぎつねは小学校一年生で習ったんですか?」

 古川先生がメモをとっている手を止めた。


「わかんない。でも学校で読んだことあるよ」


「なるほど。ほかに覚えている物語はありますか?」


「うーん。ちょうちょの話」

 ちょうちょをつぶしてしまって、友達にきらわれる話。題名は思い出せない。外国の人が書いたお話だったことは覚えている。友達の名前は、確か……。


「エーミール」


 頭のすみにうかんだ名前をつぶやく。そんな名前だった気がする。ちょうちょを集めている大人っぽい少年。


「少年の日の思い出、ですね。ヘルマンヘッセの」


「そうだ! それだ! 先生すごい!」

 登場人物の名前しか言ってないのに、題名も作者もわかるなんて、古川先生は頭がいいんだろう。


 ぼくはうれしくなって、授業で習ったことを覚えている物語を話した。


「あとはね! ねこの話も覚えてるよ! ねこのレストランの話。服を脱いだり、体に塩をぬったりするおかしな注文に答えていって、最後に食べられそうになるんだ」


「それは宮沢賢治の注文の多い料理店ですね」

 すごい。手元でぱちぱちと拍手をする。


「先生すごいね」


「逸くんもすごいですよ。ちゃんと覚えているじゃないですか」

 古川先生がこちらを見て、にやりと笑った。


 どういうことだろう。今の話の中に、ぼくが忘れていたことがあったのだろうか。


「少年の日の思い出も、注文の多い料理店も中学校の国語で習うはずです」


「え?」


「ということは、自覚してないだけで逸くんの中にちゃんと残っているものもあるはずです。国語の題材だけでなく、ほかの記憶も今は眠っているだけでしょう」

 古川先生がムネに手を当てる。

 

 なんだか、底に落ちていた気持ちが上がってくるような感覚がした。ワクワク、とムネが鳴る。


「君の心の中の写真は、今多くのものが裏返っています。だからこれから、裏返っている一枚一枚を、僕と一緒にめくっていきましょう」

 古川先生が下に向けた手のひらを、写真を裏返すかのようにひっくり返して上に向けた。


「うん!」

 大きくうなずく。

 

 いつかちゃんと記憶がもどってくるんだ、と思うとうれしくなった。

 


 それから、ほかの勉強の話になった。算数はどのくらいできるか。英語はわかるか。

 テストみたいなプリントを渡される。プリントを必死にといて古川先生に提出した。

 ひっ算もできたし、九九の問題もとけたから、古川先生にほめられた。


「九九はね、おふろでがんばって覚えたんだよ。でもね、がんばってやっていたらのぼせちゃって、ぼく、鼻血を出したんだ」


 ぺらり。


 頭の中で、写真がめくれる音がする。

 鼻血を出したぼくを見て、あわてておふろから出ていくお父さんの後ろ姿。

 鼻血がたれて真っ赤になったおふろのお湯。

 お母さんに渡された丸まったティッシュ。


 一枚一枚の写真が、頭の中ではっきりとあらわれる。


「そうなんですね。すごいですね。英語はどうですかね」


 古川先生はぼくがといた算数のプリントをファイルにしまって、英語のプリントを出した。英語は算数よりもできていないことを自分でわかっていたから、ぼくはじっとうつむいた。

 大文字と小文字のアルファベットを書く問題はできたけれど、ほかの問題はわからなかった。

 

 ほとんどできなかったから、怒られるかな。

 

 プリントを見ている古川先生の顔を横からそっとのぞく。


「りんごは、えいごで言うとアップル。わかるけど書けないんだ」

 日本語を英語に直しましょう、という問題を指さしながら言い訳をならべる。


「英語を書くというのは難しいですよね。発音しない音を書くこともありますし」

 古川先生は、全然怒っていなかった。むしろ笑っている。よかった。


 古川先生と学校の勉強の話をしていると、お母さんとお父さんが入ってきた。古川先生が丸イスから立ちあがり、二人に向かっておじぎをしながら自己紹介をした。それを聞いた二人がペコリと古川先生に頭を下げる。


 なんだか二人とも昨日より元気がないように見える。二人ともしぼんだ風船みたいな顔をしている。ケンカでもしたのだろうか。

 古川先生が自分の座っていたイスをお母さんにさし出した。


「では逸くん。次のカウンセリングが四日後にあるので、またお話ししましょう」


「はーい」


 手を大きく上に上げる。古川先生は、たくさんの紙を挟んだファイルやバインダーを持って出て行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ