お母さんとお父さん
ぼくはだれ?
うかんだギモンが、けむりのように心の中でもくもくと広がっていく。首だけをがんばって上げ、おばさんに顔を近づける。そしてそのもくもくをはき出した。
「ぼくのお母さんとお父さんはどこにいるの……? ここにいるんだよね?」
「ここにいるでし――」
「ちがう!」
大きな声をはり上げる。
「ちがう! ちがう! ぼくのお母さんとお父さんはおばさんたちとちがう! お母さんはおばさんよりかみの毛は黒いし、肌もきれい! おばさんみたいにしわなんかない! それにお父さんはもっとぽっちゃりしていて、おじさんみたいにヒョロヒョロじゃない!」
自分の出したつばがお母さんの顔にぶつかったのがわかった。
「うそつきだ!」
ベッドのさくにつながれている足を、バタ足をするようにばたばたとゆらす。ヒモをちぎるために、うーんと思いっきりうなりながら手足を上に上げる。
いたい。
ヒモが足に食いこんでいたい。
でもヒモを取りたい。
そして家に帰りたい。
「お母さんとお父さんに会いたい!」
みんなでぼくをだましていて、この白い場所に閉じこめようとしているんだ。
こわい。にげなくちゃ。
足の皮ふにヒモが食いこむ。
いたい。肉がちぎれそうだ。
いたいけどガマンしてさらに手足を動かした。するとブチッと音を立ててヒモが切れた。同時に、ベッドからガタンと大きな音が鳴る。
ぼくは急いで布団をのけて、足を床に付けた。床のつめたい温度が足の裏に伝わってくる。
今だ。ここから出て、家に帰らなくちゃ。
立ち上がろうとすると、おじさんに思いっきりかたを押された。
「逸! 落ち着け!」
ベッドに押しつけられる。
「なにするんだ!」
ぼくは寝転んだ体制のまま、左足でおじさんをけっ飛ばした。おじさんはドンとかべにぶつかり、こしをおさえてしゃがみ始めた。
ほらみろ、うそつきめ。
ぼくのお父さんはもっと力が強い。ぼくはいつもお父さんにやられてしまう。お父さんは強いんだ。お前みたいなヒョロっちいやつはお父さんじゃない。
服から背骨がうき出ているおじさんの背中を見下ろしていると、ぼくの足になにかがからみついた。
「逸。ごめんね。お母さんが悪かったね」
まるでベッドの下から現れたユーレイみたいに、おばさんがぼくの足をだきしめていた。
ぼくは、足に絡みついてくるおばさんを思いっきりけっ飛ばした。
「おまえはお母さんじゃない!」
まるでサッカーボールみたいにおばさんは飛んでいく。
うっ、と変な声をもらしながらうずくまっている二人の人。知らない人。
二人は同時に顔を上げた。そして、ゆがんだ顔でぼくのことを見つめてきた。
その目を見て、吐きそうにな気分になった。
見るな。
見るな。
見るな。
お母さんとお父さんを乗っとったユーレイみたいな顔でぼくを見るな!
うでをしならせる。
ばん、ばん。
ぼくのうでが二人の顔に当たった。
うそつきめ。うそつきは泥棒のはじまりだってお母さんがよく言ってた。
ぼくはうそが大きらいだ。
うそつきはぼくがたおす。
二人はぼくの敵だ。あのしらがのおじさんも、ピンクの服のお姉さんも、きっとぼくの敵だ。
みんなたおさなくちゃ。
ばん、ばん、とたいこのおもちゃのようにうでをしならせながら、おばさんをたたく。
「痛い……。痛い」
おばさんはみじめにうなっている。もうすぐたおせそうだ。
バタバタと部屋の外から足音がしている。かと思えば、部屋の外からピンクの服を着た人が何人も入ってきた。さっきぼくをとらえた力の強いお兄さんも一緒にやってきた。
敵がきた。
たくさんの敵をたおすために、ぼくはさらに体を動かすスピードを速めた。
「落ち着いて」
病室に入って来たお兄さんはとてもあわてている。ぼくに悪いことをたくらんでいたことがバレてあせっているのだ。まったく、ひどいやつらばかりだ。
ぼくは地面に丸まっていたおばさんを思いっきりけっ飛ばした。がこん、と音を立てながらおばさんがベッドのさくにぶつかる。
気がつくと部屋の周りにはたくさんの観客がいた。
同じ服を着ているおじいさん、おばあさんたちが、ヒーローショーを観戦するかのように、ポカンとろう下に立っていた。まるで、電車の中でさわいでいるフシンシャを見るような目で、みんながぼくを見ている。
でもその中に、ほかの人とは全くちがう目つきでぼくを見ている人が一人だけいた。
その人だけは、まるでおもちゃ屋さんでゲームを見ているときのような目でぼくを見ていた。
頭にも、足にもホータイが巻かれていて、二本のつえをワキに挟んで立っている。
この人はぼくの味方だ。
名前も何さいかもわからない。どこかで会ったかと聞かれてもわからない。
でも、この人はぼくの味方だ。理由はないけどぼくの頭がそう言っている。
この人はぼくをいやな目では見ない。
今まで動かしていたうでを止めて、その人を見る。ぱっちり目が合った。
しかし、すぐに女の人はまるで見つかったノラ猫のように向きを変え、持っていたつえを使ってぼくから遠ざかっていった。
あ、まって。
追いかけるように手をのばしたとき、頭の上からなにかがふって来た。
「いいかげんにしろ!」
おじさんの声とともに、こぶしがふってくる。
まるで大きな岩が頭の上からふって来たかの衝撃で、クラクラとめまいがした。ぼくはパタリと、床にへたりこんだ。その瞬間、うきわの空気がぬけるみたいに一気に体の力がぬけて、なんにもする気が起きなくなった。
ぼくはなにをしているのだろう。
どうしてここに来たのだろう。
お母さんとお父さんはいつ帰ってくるのだろう。
床のタイルを迷路のようにたどりながら、考える。
でもなにもわからない。わからない。つかれた。ねむりたい。
ぼくはのっそりと立ち上がり、ベッドにもどった。部屋の外でぼくたちを見ていたおばあさんたちも、ぞろぞろと帰っていく。
ぼくが本当に二十さいなのだとしたら、一体どのような生活を送って来たのだろうか。
ぼくの知らない間に一体、なにがあったのだろうか。
考えることがたくさんある。頭の中がパンクして、今にも爆発してしまいそうだった。
ベッドに座り、うーとうなりながらかみの毛をかきむしっていると、いきなりピンクの服のお姉さんが話しかけてきた。
「逸くん」
茶色いトイプードルみたいなかみの人だ。ぶら下がっている名札に『田中』と書かれている。
その後ろで同じ服を着ているお姉さんたちは、ふしぎそうに田中さんを見ていた。
「なぁに?」
田中さんというお姉さんに対して返事をする。
「信じられないかもしれないけどね、あなたの忘れてしまった時間が現実では流れているのよ。だから、これからみんなにそれを教えてもらいましょう。お友達にも来てもらってお話ししてもらいましょう。そうしたら、必ず逸くん自身が何か思い出せるはずよ。ほら、窓を見てみて」
お姉さんの口調は絵本の読み聞かせみたいで、ぼくをだまそうとしているのか、ぼくを心配しているのか、どっちかわからなかった。
お姉さんは指をさしたまどには、体の大きい男の人が映っていた。大きな体にボサボサの髪の毛。まるで弱ったオオカミみたいだ。
「あれがあなたよ。ちゃんと見て」
まどに映る男の人をじっくりと見る。
「あなたの知らないうちに、あなたもあなたのお母さんもお父さんも歳をとっているの。変わっているの。全く同じ姿のままでなんていられないの」
まどに映っている二十さいのぼくを見つめる。
これが、
ぼく。
ぼく。
じーっとまどに映る『じぶん』を見つめた。
それから、かたで息をしている年をとったおばさん、おじさんを見る。
「わからないこと、たくさんあると思う。でも、焦らなくていいの。あなたはあなただから、思ったことをなんでもそのまま教えて。人をたたいたり、暴れたりするんじゃない。怖かったら怖いでいいし、助けてほしかったら助けてって言っていい。わからないことがあれば、わからないって言っていい。あなたの気持ちを正直に言葉にして教えて」
ぼくの気持ち。
「今はどう?」
お姉さんの問いかけに、ぼくはふっと息をのんだ。
「お母さんとお父さんにそっくりな人がやってきてこわかった。最初、お母さんたちが乗っとられたのかと思った。でも、おばさんの声はお母さんにそっくりだったし、おじさんはぼくとお父さんのキャッチボールの思い出を知っていたから、ぼくのお母さんとお父さんなのかもしれないと思った。ぼくのお父さんはもっと太ってるけど……。あとは、起きてからどうしておなかがすくのだろうとか、空が青いのはどうしてだろうとか、夕日が赤いのはどうしてだろう、ってふしぎに思うことがたくさんあった」
うかんだ言葉をそのままならべていく。
「そうなのね」
「わからないことがいっぱいでこわかった」
ぽたり、ぽたりと勝手になみだがこぼれていく。
「知らない人ばっかりで、みんなぼくを変な目で見てくる。みんなこっちを見てるのに、ぼくがみんなを見ると、目をそらしていくんだ。だから、みんなぼくの敵だと思った。たおさなきゃって」
かたをぎゅっとちぢこまらせて下を向いた。なみだが出る。なみだが出るけれど、さっきみたいなつめたいぞくぞくはいつの間にか消えていた。
「ぼく、昔のこと、ちゃんと思い出したい」
顔を上げておばさんとおじさんを見る。
「おかあさん、おとうさん」
ぼくは二人にそうよびかけた。
二人はぼくに近づいてきて、そっとぼくのかたをやさしくなでてくれた。