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言葉の綾



「ぼくが何も知らなかったからって、騙すのはよくないでしょ」


 逸さんの口調が、前とは違う尖ったものになっている。


 思い出した方がいい、生きていてよかったねと軽々しく私に言ってきた人間が何を言っているのだろう。


 太ももを掻きながら、逸さんの方を見る。何かを言いだそうと口を開けたり閉じたりしながら、何も言わない。口だけを動かしている。数秒してからやっと、逸さんは言葉を発した。


「こんな話、ぼく知らないよ」

「え?」

「ぼくはこんな話聞いてないよ! マリちゃんと苺花ちゃんが知り合いだったなんて・・・・・・」

「でもさっき、花ちゃんから聞いたって――」


 逸さんは何を言っているのだろう。


 外の雨が強く地面を打ち付けている音がした。


 花ちゃんは、逸さんに私のこと話したことあると言っていたことがある。誰と電話をしていたか聞かれて、ネットの友達だと話したと言っていた。それを思い出したのではないのだろうか。そしてそのつながりを思い出して、私に辿り着いたのではないだろうか。


「それは、苺花ちゃんが嘘をついてるって通りすがりの看護師から聞いたから、言葉の綾でそう言っただけ。ぼく、ずっと何も思い出せないままでいるし」


「えっ・・・・・・」


 がくんと首が落ちる。体に力が入らない。苦しくてうまく息が吸えない。


 通りすがりの看護師って誰だろう。いつから嘘をついていたことがバレていたのだろうか。

 古川さんも、精神科の先生も、外科の先生も、私の担当の看護師もみんな私を嘲笑うように見ていたのだろうか。


「嘘はいけないよ。特に人を傷つける嘘は」

 

 逸さんの言葉に心臓の奥を刺される。

 

 言葉の綾だなんて自分勝手な解釈で嘘をついた人間の言えることだろうか。

 思い出せないことは罪ではないのだろうか。

 知らずにいることは罪ではないのだろうか。

 

 下を向いて、歯を食いしばる。


 私の嘘でいったい誰が傷ついたのだろう。私の嘘一つで誰かに傷を負わせられるならむしろ嬉しいかもしれない。

 だって、私が死のうとしても誰も悲しんでくれなかった。

 死んだ花ちゃんは、双子のお姉さんにも、この彼氏である逸さんにも大きな傷を負わせている。

 なのに、私が死のうとしても誰も傷つかなかった。狂うほど傷つかなかった。


「ひどいよ……。あまりにもひどすぎる。ぼく苺花ちゃんのこと信用してたのに……」


 私の中でプチンと何かが弾ける音がした。


「自分の思い通りにいかなかったら、『信用してたのに』なんて言葉を使って逃げればいいと思っているんですよね、逸さんは」

 顔を上げて言い返す。

 

 自分の体が誰かに乗っ取られているのか、本当の自分が帰って来たのかわからない。

 言葉はありのまま、頭の中で加工する前に私の口から溢れ出ていく。


「どうしたの? 苺花ちゃん、普段そんなこと言わないじゃん。ぼく、苺花ちゃんのこと好きだったのに・・・・・・。ショックだよ」

 

 予想外のことが起こると、途端に逃げる人間。

 人の知らない面を見たとき、どうしたのと聞いてくる人間。

 自殺した人に対して『いい子だったのに』という人間と同じ。

 

 私は唾を吐きかけるような目で逸さんを見た。


「それはあなたの見ている私でしょ」


 脳内で花ちゃんの言葉が蘇ってくる。


「私が私のこと好きになる前に、勝手に好きにならないで」


 私は花ちゃんが言っていたセリフと全く同じセリフを、逸さんに言った。

 逸さんが呆れたような、どこか私を憐れむような目で見てくる。


「苺花ちゃんは、人の気持ち考えたことあるの?」


 逸さんの言葉が、ちゃんと私の心の真ん中に刺さっていく。


 人の気持ちなんていつも死ぬほど考えている。

 この人今何と言ってほしいのかなと考えながら、その答えを口から出すようにしている。

 自分の感情なんていらない。人の気持ちを考えて、考えて、私はいつも生きている。

 

 私の気遣いを都合よく受け取って気持ちよくなっていたくせに、自分に都合が悪いと途端に怒り出す。ひどいのは逸さんの方ではないだろうか。


「逸さんだって、人の気持ち考えたことあるんですか。花ちゃんのお姉さん。逸さんに責められてどんな気持ちになったと思います?」

「それはぼくが何も事情を知らなかったからで――」

「『知らなかった』って、許される魔法の言葉だと思ってませんか?」


 知らなかったからしょうがない。

 知らなくてごめんね。

 

 そんな言葉を盾にして、罪から逃れようとする人間みんな嫌いだ。お母さんもそう。お父さんが私にしてくることを、知らない。知らない人間は、自分が知らずにいることに気付かない。

 

 嘘をついた花ちゃんのお姉さんに対して、逸さんは「許さない」と怒った。凶器のような恐ろしい言葉を、ため息を漏らすかのように平気でぶん投げた。他人に許されないということは、心にナイフがずっと刺さったような気分で生きていくことと同じだ。


「逸さんは他人の痛みに鈍いことに対して、『知らなかった』という言葉で逃げてるんじゃないですか」

「そんなことない! 苺花ちゃんに記憶喪失になったぼくの何がわかるんだよ! 起きたら、自分のこともみんなのことも何もわからないんだよ! そんな不安の何がわかるんだ! わからないよね。全部嘘だったんだから」

「じゃあ逸さんだって、起きて自分だけ生き残ってしまったとわかったときのやるせなさの何がわかるんですか?」

「そんなのわかるわけないじゃん! 人と死のうとしたことなんてないんだから」


 わからないのが当たり前、というように半笑いで逸さん私に言った。


 この人の死との距離感を見ていると、普通の人なんだなと思う。私みたいに、いつも生活の隣に死が張り付いているわけじゃない。人の気持ちを考えろ、なんて言うけれど、私の気持ちはわかるわけないと突っぱねる。

 私みたいな、死のうとした人間は人にわかってもらえない。いや、わかってもらえたらいけない。だって、私みたいなのが普通になっちゃったら、みんな死にたいという気持ちを抱えて生きることになる。


 逸さんは正しさというレールの上に乗ろうと意識しなくても、好きなように過ごしているだけで普通というレールの上に乗っかっていられる。この人といると、自分がいつも否定されているような気持ちになる。


 逸さんが羨ましい。

 生前花ちゃんが言っていた言葉に、今になって共感できる。


「苺花ちゃんって、そんな子だったんだね。ぼく、悲しいよ」


 自分の思い通りではないことが起こると、途端に被害者面。逸さんが悲しいから、なんて私には関係ないはずなのに。

 ただ、逸さんが今抱いている悲しさが、正しいものであり、他人に認められるものであるというのはわかる。そうわかるからどうしようもない。


 私は置いてあったペンを握りしめた。これ以上感情を出してしまったら、私はもっと世界に許されなくなる。

 そうわかったから、ペンを握ることで気持ちに蓋をした。


「もういいよ。何言っても無駄だ」

 

 そう言い残してわざとらしく大きな足音を立てながら、逸さんは部屋から走って出ていった。




 しばらく屍のように、ぼーっとしていた。そうして十分ほど経ったとき、ふつふつと怒りが昇ってきた。

 

 その行き場のない怒りを、どこに持っていけばいいのかわからない。

 どこに出せばいいのかわからない。

 

 持っていたペンのインクを出して、私はいつものようにズボンの裾を上げた。太ももには、バーコードのように何本ものミミズ腫れができている。

 

 赤い線の傷跡を避け、まだ白い皮膚をペンで引っ掻いていく。引っ掻いたところから、ひっそりと血が出てくる。

 

 すぐティッシュを取り、太ももの下に敷く。

 そして、何度も何度も引っ掻いて血を流していく。

 

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 

 痛くて涙が出てきた。

 

 お父さんにメイクのことをしょうもないと言われたから泣いているんじゃない。

 花ちゃんがいなくなって一人になったから泣いているんじゃない。

 痛いから泣いてる。痛いから、泣いているの。

 

 看護師にバレないように、声を殺しながら何度も太ももに傷をつける。

 頭の中が、『痛い』で埋め尽くされていく。

 それ以外何も考えられない。

 悲しくない。悔しくない。辛くない。痛い。それだけ。

 

 それだけ。本当にそれだけ。

 

 ペンを太ももに突き刺して、思いっきり動かす。赤く跡ができるだけで、血がなかなか出てこなくなる。

 だんだん痛みを感じなくなってきた。布団に顔をうずめて、視界を遮る。腕に込める力を強くしても、痛みを感じない。でも涙は止まらない。

 溢れ出る感情すべて、痛いという感情で蓋をする。それ以外、何も考えたくない。考えても意味なんてない。口にするのが許されないことなんて、考えるだけ無駄だ。

 

 声を殺しながら布団に顔をうずめていた。


「何してるの」


 すぐ目の前で声がして、私はゆっくりと顔を上げた。


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