だれ?
【逸】
「君の名前は?」
白い服を着たしらがのおじさんが、ピンクの服を着たお姉さんを連れて、ぼくの寝ていたところへやってきた。
「すみうらすぐるです」
ぼくは聞かれたとおりに自分の名前を答えた。
「男の子? 女の子?」
「男の子」
「誕生日は?」
「四月二十一日」
目の前のおじさんはぼくが質問に答えるたびに、紙になにかをメモしている。おじさんの字はヘビみたいににょろにょろで、なんと書いてあるか読むことができない。
おじさんのとなりにいるお姉さんは、トイプードルみたいな茶色いかみの毛をしていて、お母さんの真っ黒なかみの毛とはちがう。
あれ、そういえばお母さんはどこだろう。
「家の住所は?」
おじさんはぼくに質問するのをやめない。
「しが県……。んー。わかんない。あんなに長いの、覚えてないよ」
おじさんとお姉さんは目を合わせて困ったような顔をした。ぼくがわがままを言ったときのお父さんの顔にそっくりだ。
あれ、そういえばお父さんはどこだろう。
「というかぼくはどうしてこんなところにいるの? 早くおうちに帰らせてよ」
「君、歳は?」
帰りたいと言っているのに、おじさんはぼくの声にかぶせてまた質問をしてきた。
はぁ、と小さくため息をつく。
「七さい」
ぼくがそう答えた瞬間、おじさんは今まで黒色だったボールペンの色を赤色に変えて、大きな文字でなにかを書いた。四文字の言葉がならんでいるけれど、なんと読むのかはわからない。まだ習っていない漢字がならんでいて、ぼくには読めない。
「昨日頭を打ったようだけど、今痛みはある?」
「ないよ」
「吐き気とかは――」
「ない。それよりぼく、トイレに行きたい」
大きなまん丸の目でぼくを見ているトイプードルのお姉さんを横目に、ベッドからぴょんとおりて、部屋をとび出した。
部屋の外には、さっきのお姉さんと同じ服を着ている人がたくさんいた。走っているぼくを、いろんな人が見ている。二本のつえをワキに挟んで歩いている人や、車イスに乗っている人。水の入ったふくろにつながれた人や、動いているベッドで寝ている人。
今日からぼくは、学校に行く代わりにここに通うことになるのかな。そういえば、夏休みに転校したみさきちゃんは元気にしてるかな。
男子トイレのマークがあるところがなかなか見つからないので、車イス用のマークのところへ入った。
車イス用のトイレにはすわるタイプのトイレしかなかった。ぼくの苦手なやつだ。おしっこがうまく便器に入らないからいやだ。それにここへ入ると、同じクラスのはやとくんに『うんこマン』とバカにされる。
でも仕方ない。もらすよりマシだ。ピンクの服を着たきれいなお姉さんたちにおもらしを見られるのは、おしっこがはみ出ることよりもはずかしい。
だれにも見られていないことをたしかめてから、急いでトイレへ入りカギを閉めた。そして、便器の上に立って、体に力を入れながらちょろちょろとおしっこを出した。気をぬくと一気にとび出てしまうから、うんとこしに力をいれる。そして、もういいかな、というところで力をぬいて、のこりのおしっこを全部出し切る。
はぁー。すっきりしたー。
ハンドルをいきおいよく回して水を流し、水道の前に立つ。自動で水の出る水道に手をのばしながら、目の前のかがみを見た。
え……?
じゃーっと水の流れる音だけが聞こえる。まるでおふろにお湯がたまるのを待っているときのようだ。
かがみの中には、ぼくの知らない男の人がいた。
だれ?
かがみの中に向かって問いかける。
だれ? だれ? きみはだれ?
ぼくはぬれた手で自分のほっぺたをこすった。何度も何度もこすると、かがみの中の男の人のほっぺたは赤くなっていった。
これはぼくじゃない。
ぼくはこんなに大きくない。ぼくはまだ七さいだ。でもかがみの中にいるのは、お父さんと同じくらいの大きさの男の人だ。
せのびをして、黒板の文字を消すときの先生をまねるようにかがみをこすった。それでも男の人はこちらを見ている。
「だれ! だれ!」
こわくなって大きな声を上げた。
こいつに体をのっ取られた! ぼくがたおさなきゃ!
かがみの中の知らない人をにらむ。かがみの中の男の人も、同じようにぼくをにらんでくる。
その目を見て、ぼくはひるんでしまった。こしの力がぬけて、その場にへたりこむ。目のあたりがあつくなって、ムネがぞくぞくした。そのぞくぞくは、つめたくていたい。
「こわいよ! こわいよ! たすけて!」
大きな声でさけぶ。こわくてなみだが出てきた。
だれかたすけて。だれか!
バタバタと大きな足音が聞こえてきて、すぐにお姉さんたちがやってきた。閉めたはずのトイレのドアが勝手に開く。そして一人、二人、三人。ぞくぞくとお姉さんがぼくのところへやってきた。
「大丈夫ですか……!」
一人のお姉さんにせなかをさすられる。ぼくは必死になって、息をすって、はいてをくり返した。
「これはだれ! ぼくはぼくだよ。ぼくは逸だよ!」
あふれ出るなみだを手首でこすって、目の前のお姉さんを見る。お姉さんはふしぎそうに目を丸くさせながら、じっとぼくを見ているだけで、なんにもしてくれない。
なにしてるの! はやくぼくをたすけてよ!
「うわぁぁぁあああん」
うでをバタバタと地面にうちつけながら、声を上げる。ここには知らない人しかいない。お母さんもお父さんもいない。同じようちえんだったゆうとくんも、さつきちゃんもいない。同じクラスのいじわるなはやとくんもいない。となりのおうちのおばさんもいないし、しば犬のチャコもいない。
みんなどこにいるの?
「落ち着いてくださいねー」
一人のお姉さんがぼくに近づいてくる。ぼくはそれをふりはらった。
「さわるな! ぼくにさわるな!」
めいいっぱい力をこめて、お姉さんをはらいのける。
するとお姉さんは、中身の入っていないペットボトルのように、いきおいよく後ろへ飛んでいった。ゴツンという音がトイレの中にひびきわたる。
たおれたお姉さんのそばにかけよった二人のお姉さんは、汚いノラ猫をみつけたかのようにぼくをにらんできた。
どうしてそんな目で見るの? ぼくは悪いことをしていないのに。お姉さんが勝手にたおれただけなのに。
歯を食いしばってにらみかえした。そして、ぼくをにらんでくるうちの一人のお姉さんに対して両手を上げた。たいこをたたくときのように、早いスピードでうでを上下させお姉さんをたたく。
どん、どん、どん、どん。
お姉さんの体から大きな音が鳴りひびく。
「やめて」
お姉さんはこちらを見ながら、なにかを言っている。でも、ぼくは音を鳴らすのをやめない。
どん、どん、どん、どん。
ぼくはすみうらすぐる。
七さい。
好きなものはクレヨンしんちゃん。きらいなものはにんじん。
どん、どん、どん、どん。
うでを思いっきり打ち下ろす。すると、さっきよりもさらに大きな音が鳴る。
もっと、もっと、もっと、もっと。
上を向いて寝転んでいるお姉さんの上にまたがり、おなかのあたりを何度もたたく。
けほけほ、とお姉さんがせきをし始めた。
となりにいた一人のお姉さんは大きな声を上げてどこかへと走って行く。
「だれか! 早く! お願いします!」
だれかに大きな声でなにかを伝えている。
お姉さんが出て行ってから十秒後くらいに、大きな足音がした。それはぼくの元へ近づいてきた。
「やめなさい!」
男の人の声がした。手を止めて声のする方を見る。ぼくに質問をしてきたおじさんが、二人の大きなお兄さんを連れて立っていた。
そしてその体の大きなお兄さんたちは、こちらへ近づいてきて、ぼくの両手をいきなり後ろへと引っぱって来た。引きちぎれそうなほど、うでがズキンといたんだ。
「いたい! いたいよ!」
四つの手につかまれて、ぼくは宙にうかんだ。さけんでも、お兄さんたちは手をはなしてくれない。
こわい。これはゆめ?
でも、いたいよ。とってもいたいよ。
せなかの方でうでをつかまれたまま、ベッドのようなものに無理やり乗せられる。ぼくに質問をしてきたしらがのおじさんは、太いヒモを引っぱってのばしながら近づいてきた。そして、しらがのおじさんは、お兄さんたちにつかまれているぼくのうでにぐるぐるとヒモを通し始めた。
「なにしてるの? やめて! やめて! やめてぇぇぇええ!」
さけびながらうでをヒモからぬこうとする。でも、体の大きなお兄さんたちがぼくをつかんでいるから、どうしてもぼくのうでは動かない。びくともしない。気がつくと、うでだけではなく、足も動かなくなった。
「あ゛あああああ」
ぼくは、のどのおくからオオカミのさけびのような声をしぼり出した。ガラガラ、とだく点のつくような声がぼくののどからもれ出す。息のつづくかぎり、ぼくは声を出した。
ぼくはどうなるんだろう。
どこか危ないところへ連れて行かれるのかな。
真っ白な天井を見つめながらさけぶ。
まるで大きな海の真ん中にぽつんとういているかのように、ゆらゆらと流されていく。
「あ゛ああああああああ」
こわくてもう一度さけぶと、そこでぼくの意識はプチンと切れた。
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(氏名)純浦 逸
(年齢)二十歳
(性別)男
(診断名)記憶障害
(備考欄)幼児退行あり
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