第3話 湯気の向こうでぶつかるプライド
学院のラーメン品評会が幕を下ろしてから数日と経たないうちに、レティシアとマリアの衝突はあっという間に学内中の話題となった。廊下ですれ違う生徒たちの会話の端々には、いつも「あの二人の勝負はいつやるのだろう」「あれって本当にマリアの不注意だったのかな」などという憶測が交じる。時には双方を応援する声が混じりあい、いつしか学院内の雰囲気は、不穏なまでの熱を帯びはじめているようだった。
学院ではこれまでも生徒同士の対立はあったものの、ここまで大きな注目を集める例は珍しい。何しろ一方は公爵家の令嬢であり、格式と伝統を重んじる名家の血筋を引く存在。もう一方は平民出身でありながら奨学生として頭角を現し、柔軟な発想でラーメンを追究する姿勢が評判を呼ぶ少女。どちらもラーメン文化をこよなく愛し、同じ学院に在籍している以上、対立の構図がはっきりと浮き彫りになってしまうのも無理はない。
もっとも、レティシアとマリア本人たちからすれば、そうした周囲の騒ぎなど気にも留めないほどの内心を抱えていた。レティシアは秘伝のスープを無残にこぼされたショックから立ち直るのに手間取りつつも、新たなレシピの再現に向けて再び研究を始めている。彼女からすれば、あのスープは長い試行錯誤の末に辿り着いた「ほぼ理想に近い」一杯だっただけに、ダメージは計り知れない。だからこそ、次は決して失敗できないという思いが強くなっていた。
「いずれ正式な場で勝負すると決まった以上、負けるわけにはいかないわ。あの子がどれだけの実力を持っているのか知らないけれど、今度こそ私の味を証明してみせる」
レティシアは学院の自室に戻ると、調理日誌とも呼べる分厚いノートを開き、過去の研究メモを改めて眺め始める。鶏ガラの下処理から煮込みの手順、複数のスパイスを配合する際のバランスなど、一度完成に近づけたはずのプロセスを最初から検証し直しているのだ。周囲の者から見れば、あれだけ情熱を傾ける姿こそが彼女の真骨頂だとも言えるだろう。
一方で、マリアも学院の調理室にこもって麺打ちの練習とスープの研究を休むことなく続けていた。自分の不注意でレティシアの努力を台無しにしてしまったという後悔は、日を追うごとに重くのしかかってくる。だからこそ、次に訪れるであろう対決の舞台では、全力を尽くして謝罪も含めた「償い」を見せたいと思っていた。
「わたし、レティシア様にただ謝るだけじゃなくて、ちゃんと味で認めてもらいたい。絶対に負けないように、もっといいレシピを考えなきゃ…」
そうつぶやきながら、大きなまな板で香味野菜を刻む手はまるで休むことを知らないかのようだ。マリアが切る野菜はどれも庶民が気軽に手に入れられるものばかりだが、その組み合わせや下ごしらえの仕方によっては高級スープにも引けを取らない香りを引き出すことができる、と彼女は信じている。
ところが、そうやって二人がそれぞれ準備を進めるほど、学院の中では貴族派と庶民派が少しずつ分かれるようになっていった。貴族派の生徒たちは、やはり公爵家の令嬢であるレティシアに敬意を抱いており、「伝統と高貴さを兼ね備えた彼女が勝つに決まっている」と揺るがぬ自信を見せる。逆にマリアを応援する生徒は「平民の立場からこれだけの実力を示すのはすごい」「新しい発想でラーメン文化を盛り上げてほしい」と熱い声援を送っていた。
そんな中、ラーメンギルドの職人や研究者たちは、学院の噂を聞きつけて頻繁に足を運ぶようになる。学院の料理施設を観察したり、実際に生徒たちが作ったラーメンを味見しては、なかなか辛辣な言葉を浴びせることで知られているのだが、今回はレティシアとマリアの対決に格別の興味を示しているようだった。
「公爵家秘伝のスープは、もう少しで完成度が高まりそうだって聞くよねぇ。あの子の追及心と飽くなき探究は、さすがと言うしかない」
「でも、あのマリアって子も相当な腕前だって噂よ。珍しい素材を使いながら、誰でも食べやすい味を作るってんだから」
ギルドの職人や研究者たちは、学院の廊下で休憩中の教師と立ち話をしながら、そんなやり取りを交わしている。彼らにとっては、新しい麺やスープを開発するのはまさしく探究の喜びであり、ラーメン文化をさらに盛り上げる大切な使命でもある。二人の衝突が思わぬ形で新たなイノベーションをもたらしてくれるのではないか、という期待感すら抱いているらしい。
ある日の夕方、レティシアは学院の中庭で、ギルドの研究者と並んでスープの試飲をしていた。仕込み中の鍋から取り出したばかりのスープは、濃厚な香りを放ち、ふたりの鼻腔を刺激する。
「なるほど……。この配合なら、たしかに伝統的な風味が活きつつも、奥行きのある辛みを感じますね。貴族の味っていうよりは、少し大衆ウケを狙えるんじゃないですか?」
研究者が微笑ましげに感想を述べると、レティシアはかすかに眉をひそめた。
「大衆ウケですって? わたくしは格式を捨てたつもりはないわ。けれど、屋台の味にあるあの何とも言えない温もりが、少しでも再現できればとは思っているの。いずれにせよ、もう少し素材の選定を見直す必要があるわね」
その声には妥協のない強い意志がこもっていた。彼女はまだ完全に満足していないのだろう。同時に、心のどこかでマリアの自由な発想に対する意識が芽生えていることを、無意識のうちに認めているのかもしれない。
一方、マリアのもとにもギルドの職人が足を運んだ。調理室で地道にスープを煮込んでいた彼女に声をかけると、興味深そうに鍋を覗き込みながら言う。
「なるほど、これは珍しい昆布を使っているのか。海藻から引き出されるグルタミンの深い味が感じられるな。だが、君の狙いとする味はまだ先にあるように見える。火加減を少し変えたり、煮込むタイミングをずらしたりすると、別の可能性が出てくるんじゃないか?」
その助言にマリアは目を輝かせ、慌ててメモを取る。自分だけの工夫で何とかしようと考えていた彼女にとって、職人の口から出るひと言は何よりも貴重な宝物だ。小さくお礼を言うと、先ほどとは違う温度で試してみようと、すぐに行動を始める。
「試してみる価値はありそうです。ありがとうございます! ……それにしても、これでどれだけ美味しいスープができても、レティシア様に認めてもらえるかはわかりませんけど」
彼女がそう苦笑すると、職人は意味ありげに口元を緩めた。
「認めてもらうためだけじゃなく、自分がどんなラーメンを作りたいのかを突き詰めるのが大事だよ。ま、勝負の結果は後からついてくるかもしれないがね」
こうして、ラーメンギルドの面々は二人にそれぞれ刺激や助言を与えつつ、その成長過程を興味深く観察していた。ギルド側からすれば、次なる公式対決を学院だけでなく、もっと大々的なイベントに仕立て上げたいという狙いもあるらしい。なぜなら、学院主催では予算や設備に限界があるが、王都全体を巻き込めば、国中の料理人や商人が集まる壮大なラーメンフェスにまで発展する可能性があるからだ。
そんな思惑に拍車をかける出来事が起こったのは、その翌週のことだった。王太子アレクサンドルが学院を視察に訪れるという話が突如として広まったのだ。アレクサンドルといえば王家の継承者であるだけでなく、無類のラーメン好きとしても知られている。人によっては「その情熱のせいで公務をおろそかにしているのでは」と陰口を叩く者もいるほどだが、少なくとも彼は幼い頃から全国各地のラーメン店を巡り、数多くの味を体験してきた。
王太子が学院に来るというニュースに、教師陣も生徒たちも大騒ぎになった。特にレティシアとマリアの対決が噂になっている最中だけあって、王太子が興味を示すのではないか、とさらに憶測が飛び交う。実際、アレクサンドルは既にラーメンギルドともつながりが深いことから、今回の衝突の話を耳にしているらしい。
「これはおもしろいな。伝統的な味にこだわるお嬢さんと、新しい発想で挑む奨学生か。どちらも国のラーメン文化を盛り上げる要素がありそうじゃないか」
学院に噂が広まるより先に、アレクサンドル本人はそんなことを口にしていたという。場合によっては、正式な対決の舞台を国を挙げてサポートすることも考えているとか。学院の生徒たちはその話に興奮し、ますます二人の勝負に期待を寄せる。
もちろん、当のレティシアとマリアにとっては、王太子がどう関与しようが自分たちの対立の本質には関係ない。しかし、もし大々的な舞台が用意されるのならば、それはそれで望むところだと感じてもいる。レティシアは「公爵家の名を背負っている以上、全てを賭けて勝たなければならない」と静かに燃え、マリアは「より多くの人にわたしのラーメンを知ってもらうチャンスかもしれない」と希望を見いだす。
そうして二人は、それぞれの立場で技術を磨き続ける中、どこかで互いを認め合う気持ちを少しずつ感じ始めてもいた。学院の調理室や中庭で顔を合わせれば、かつてほど無視するようなことはなく、一瞬だけ鋭い視線を交わし合う。
もっとも、その視線の奥には相手への対抗心が宿っているのも確かだ。どちらも「自分のやり方こそが正しい」「こんな作り方は認められない」という意地があるからこそ燃え上がるし、同時に「意外とやるじゃない」と評価している部分もある。
学院生活が少しずつ通常の授業モードに戻る一方で、レティシアとマリアは言葉を交わすことなく、ただし確かな実力を示すための準備を重ねている。誰もがその一瞬を見逃すまいと、教室や廊下で耳をそばだて、調理室や中庭の様子に目を凝らしている。おそらく二人がもう一度衝突する日は、そう遠くない。
貴族としての誇りをかけた伝統的なラーメンか、庶民の創意工夫が生んだ新たなラーメンか――いまだはっきりとした勝敗の行方は分からない。だが、近いうちに必ず激しい火花が散るだろうと、誰もが確信していた。