06.馬鹿な子
「……はい」
レイチェルは小さく頷くと、公爵夫人マイラと共に応接室へと向かった。
マイラは、レイチェルの母が亡くなってからこの家に入った人物だ。母の喪が明けた途端に、ケイティを連れて後妻としてやって来たのである。
当然、彼女に良い印象を持てという方が難しい。
レイチェルも兄ジェイクも、表面上は取り繕ってはいるが、内心はマイラを疎んじている。
「それで……お話というのは?」
応接室の椅子に腰を下ろしながら、レイチェルは尋ねた。
すると、マイラは少し困ったような笑みを浮かべる。
「実は、ケイティのことなのですけれど……」
マイラが口にした名前に、レイチェルはぴくりと肩を揺らした。
やはり、彼女の話題かと思う。
何を言われるのかと身構えていると、マイラは少し言いづらそうに言葉を続けた。
「あの子が、あなたに迷惑をかけているようで……本当に申し訳ないと思っていますわ」
予想に反したことを言われて、レイチェルは瞬きする。
「えっと……」
どう答えればいいのかわからず、レイチェルは戸惑った。
「ここのところのあの子は、変でしょう? 身の程をわきまえず、分不相応なことばかり口にして……。しかも、旦那さまもそれを咎めようとせず、あの子を甘やかしていらっしゃるの……」
マイラは悲しげに目を伏せ、ため息を吐く。
その様子に、レイチェルは彼女が本当に心を痛めていることがわかった。
「このままでは、あの子が取り返しのつかない過ちを犯しそうで……心配なのです。でも、私がいくら言っても聞き入れようとはしなくて……」
「それは……確かにそうかもしれません」
マイラの言葉に、レイチェルは思わず頷いてしまった。
小説ではケイティは破滅する。しかも、その際にマイラも巻き添えを食うのだ。
同意したレイチェルの様子に、マイラは悲しそうに微笑んだ。
「あなたなら……そう言ってくださると思ったわ」
マイラは深くため息をつく。
それから、意を決したように口を開いた。
「……私があなたやジェイクさんに嫌われていることは知っています。当然のことですもの。私に公爵夫人なんて分不相応ですし、この家にふさわしくないこともわかっているわ……」
「まあ……」
レイチェルは目をみはった。
まさか、彼女がこのようなことを考えているとは思わなかった。
だが、小説での設定を思い出して、すぐに納得する。
マイラは没落貴族の娘で、レイチェルの父であるリグスーン公爵に見初められた。
彼女自身に野心はなく、家族への援助のために自ら愛人となる道を選んだのだ。
日陰の身であることを受け入れ、慎ましく公爵に尽くしていた。ケイティにも身の程をわきまえるようにと躾けてきたのだが、かえって逆効果だったようだ。
「でも、あなたしか頼れる人がいないのです。旦那さまもジェイクさんも、近頃は様子がおかしくて……あの子を甘やかして……このままではリグスーン家にすら災いをもたらすのではないかと……」
マイラは目に涙を溜め、すがるようにレイチェルを見る。
「お願いです、レイチェルさん……あの子を導いてあげてください。あの子が道を誤らないように……正しい道を歩めるように……」
「ですが、私には荷が重いですわ」
レイチェルは即答する。
あの自分に都合の良いようにしか考えないケイティを、導ける自信などない。
「そんなことはありませんわ。あなたは聡明で、とても立派な方ですもの。それに……いざ、あの子の及ぼす害が手に負えないほど大きくなりそうなときには……あの子を見捨ててくださってかまいませんから……!」
彼女の訴えに、レイチェルは息をのんだ。
そこまでの覚悟で、一縷の望みにかけているというわけか。
「情けない母親と蔑んでくださってもかまいません……どうか、あの子のことをお願い……」
マイラはそう言うと、深々と頭を下げた。
その姿を眺め、レイチェルの心にあったマイラへのわだかまりが消えていく。
レイチェルのこれまでの人生では、マイラは父の卑しい愛人でしかなく、彼女のことなど気にかけたことなどなかった。
しかし、今目の前にいる女性は、我が子を心から心配している一人の母だった。
夫である公爵から切り捨てられながらも、最期まで娘を庇い続けた小説のマイラと重なる。
「わかりました……できる限りのことはしてみます」
レイチェルが頷くと、マイラは安堵したように表情を緩めた。
「ありがとう……本当にありがとうございます……」
ぽろぽろと涙をこぼすマイラを、レイチェルは穏やかな表情で見守った。
小説では、レイチェルとマイラは最後まで冷ややかな関係のまま終わる。
しかし、レイチェルは今のマイラを見て、彼女とも歩み寄れるかもしれないと思った。
翌日、教室でレイチェルはぼんやりと考え込む。
ケイティを導くといっても、具体的に何をすればいいのだろうか。
「そういえば、昨日も幽霊が出たそうよ」
レイチェルが考え込んでいると、教室の片隅から噂話が聞こえてきた。
どうやら、幽霊騒ぎがさらに広がっているようだ。
「まあ……それで、その幽霊は?」
「さあ……誰かが見たらしいけれど、はっきりしなくて」
生徒たちは噂話に花を咲かせているが、幽霊の正体についてははっきりしないようだった。
しかし、そのうちこの噂は消え、忘れられていくだろう。
どうせ物語上でも重要ではないことだ。むしろ、現時点で引っかき回すのは得策ではない。
「私が幽霊の正体をつきとめてあげますわ!」
レイチェルが考え込んでいると、背後から意気揚々とした声が聞こえてきた。
振り返ると、胸を張って誇らしげにしているケイティの姿がある。
周囲の生徒たちの視線を集めて、ケイティはご満悦だ。
「幽霊の正体は、あなたよ!」
ケイティは、びしっと一人の生徒を指差す。
その生徒は隣国からの留学生で、ハロルドという名の男子生徒だった。
もっさりと前髪が顔にかかり、分厚い眼鏡で目が隠れている。
地味で存在感が薄く、いつも教室の隅で読書しているような生徒だ。
「えっ……」
急に指をさされたハロルドは、困惑の表情を浮かべる。
しかし、ケイティは構わずに続けた。
「あなたは隣国からの密偵で、この学園に潜入しているのよ! 夜な夜な、王国の情報を探っていたのね!」
ケイティは自信たっぷりに言い放つ。
周囲の生徒たちは呆気に取られて、ぽかんとしていた。
レイチェルも、そっと額に手を当てる。
「……証拠はあるのですか?」
「えっ」
ハロルドに尋ねられて、ケイティは口ごもる。
どうやら、考えていなかったらしい。
「そっ、そんなものがなくても、私は知っているのよ! あなたが隣国のスパイだってことをね!」
ケイティは動揺を隠すように、さらに大きな声を張り上げた。
その姿を眺めながら、レイチェルはため息をこぼす。
何の証拠もなく密偵扱いなど、笑い話にもならない。下手をすれば国際問題に発展する。
たとえ、それが真実であっても。
「……馬鹿な子」
レイチェルは思わず呟く。
やはりケイティを導くなど不可能だと、諦めてしまいたくなってきた。