転落
いせかいれんあい、べんきょうします
夜半だというのに寝室がノックされ、扉を開けてみると侍女が眠そうな顔で立っていた。事情を聞くと、王城から使いの者が来たという。これはアルフォンス様のお誘い……。
今までもこのようなことはあった。
アルフォンス様は普段はしっかりとラルジュ王国の第一王子としての役目をこなされている。王国民の誰からも慕われ、他国の王族からも一目置かれている。
でも、寂しがり屋だ。それは婚約者である私にだけ見せる一面。私はそれを嬉しく思うし、愛おしい。
私は侍女に手伝ってもらい、アルフォンス様から贈られたドレスを着た。こんな夜中におかしいと思ったけれど、どうしてもこのドレスを着てアルフォンス様に会いたかった。
代々の聖女が暮らしてきた屋敷から馬車に揺られて王城へと向かう。客室で隣に座る侍女はうつらうつら眠そうにしているけど、私の心は弾み、眠気は何処かへ消え失せていた。
王城に着くと、馬車は夜間の通用口にまわる。いかにもお忍びという感じがして楽しくなる。侍女とはここで別れることになり、私は一人通用口をくぐった。
王城の廊下は照明の魔道具がほんのりと明るい。私と私を先導する近衛兵の足音だけが響く。夜が遅いからだろうか。普段、近衛兵がわざわざ王城の案内なんてしないのに。そのような雑事は王城付きの侍女の仕事だ。
近衛兵がアルフォンス様の執務室をノックすると、中から声がした。スッと扉が開かれ、中へと促される。
「ルクア。こんな時間に呼び出して済まない」
「いえ、そんなことはございません。アルフォンス様こそ、お疲れの様子」
「あぁ。正直疲れている。聖杯の件でな」
「……聖杯の件ですか?」
机に着いたままのアルフォンス様は険しい顔つきで下を向いている。
「ああ、そうだ。数刻前、王城に安置される聖杯が盗まれた」
「そんなことが……」
「幸い、近衛兵達の活躍で取り戻すことが出来たがな」
ホッとして大きく息を吐いた。聖杯は王室の正統性を示すものだ。その存在は秘匿され、王族と高位貴族、教会幹部の間でしか知られていない。
「ご心労、お察しします」
「話はまだ終わっていない」
急にアルフォンス様の声色が変わった。部屋に緊張が走る。
「聖杯の安置場所には特殊な仕掛けがしてあるのは知っているな?」
「……はい」
「賊はその仕掛けを正規の手順で解いて聖杯を盗み出したのだ」
「それは……」
「拷問官が締め上げると賊はあっさりと吐いたそうだ。情報提供者の名前を」
アルフォンス様の背後から三名の近衛兵が姿を現した。魔法で隠れていた? 一体、何事?
「ルクア……。賊に情報を漏らしたのはお前だな」
近衛兵が音もなく近寄り、物凄い力で私の肩を掴む。身体が全く動かない。
「アルフォンス様! 何かの間違いです! 私は何も知りません!!」
「魔力が高く、ニケ神からの加護も厚いと聞いていたのだがな。やはり育ちの卑しさは抜け切れなかったようだな」
「待ってください! 本当に私は何も!」
「連れていけ!」
身体に衝撃が走り意識が遠のく中、私はアルフォンス様の名前を心の中で繰り返して呼び続けていた。
#
元は真っ白だったドレスは茶色く汚れてしまっている。いえ、ドレスだけじゃない。手も脚もスラム街の澱に塗れ、すっかり黒ずんでいる。
アルフォンス様に呼ばれた夜、私は王城地下の牢屋に入れられた。そこで何日過ごしたのかは分からない。ある時、近衛兵がやって来て牢屋から連れ出され、そのまま馬車に乗せられた。そして宣告された。
「お前は王室と教会を裏切った。しかし慈悲深いアルフォンス様はお前の助命を王と教皇に哀願された。見世物としてスラム街で一生を終えるがいい」
その言葉を理解するのに何日かかったか分からない。ただ今はしっかりと自分の置かれた状況を把握している。
第一王子から婚約破棄され、聖女の地位も追われた私は王都の外縁部に広がるスラム街で飼われている。衛兵に監視されて他の街へ逃げ出すことも叶わず、かといって自死は教義に反する。ニケ正教会の孤児院で育った私にそんな事は出来ない。
王都の人々は私を避け、たまにやってくるのは怪我をしてどうしようもなくなった人だけだ。癒しの魔法だけを頼りにして、私は糊口を凌いでいるのだ。
「……あのぅ、ルクアさまぁ」
私を呼ぶ声がする。
もう何も見たくなくて閉じていた瞳を開け、身体を起こす。どうやら人が私を訪ねてきたようだ。
かろうじて屋根がある荒屋の扉を開けると、年老いた男が立っていた。老人の右腕はあらぬ方向に曲がり、顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
「どうしたんです? 大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると老人は無理矢理笑顔を作った。
「へへ、仕事でヘマをしちまって」
商会の荷運びを生業としているという老人は崩れた荷物の下敷きになって腕を折ってしまったという。
「あっしには教会で治療をしてもらう程の金がなくて……」
「もう心配はいりません。でも、ちょっとだけ我慢してください」
老人にボロ切れを噛ますと私は思い切って右腕の骨を正しい位置に戻した。くぐもった唸り声が響き、老人の額から脂汗が落ちる。
「もう少しです! 頑張って!」
黙って頷く老人の右腕に両手を当て、念じる。
『癒しの光を!』
柔らかな光が老人の右腕を包み、表情が和らいだ。ボロ切れを吐き出し、腕を愛おしそうにさすっている。
「流石はルクア様! 腕が元通りです! ほら!」
先ほどまでとは打って変わってはしゃぐ老人の姿に自然と頬が緩む。
「よかった。治って」
「あの、これ少ないですが……今出せる私の全てです」
そう言ってポケットから汚れた銀貨が四枚出された。
「そんな、頂けません。あなただって大変でしょ?」
「ルクア様に治してもらった腕でもっと稼ぎますから! お願いです! 受け取ってください!!」
押し付けられた銀貨を断ることが出来ず、逡巡している間に老人は走っていってしまった。
急に静かになった裏路地を冷たい風が通り抜ける。
「何か、温かいものでも食べましょう」
生きる意志を確認するかのように独り言をこぼし、私は屋台の並ぶ大通りを目指した。
#
大通りの賑わいにはいつも圧倒される。ちょうどお昼時ということもあり、人気の屋台には行列ができ、そうでない屋台からは呼子の声が響く。
しかし、私に声を掛ける呼子はいない。私に関わると碌なことにならないと思われているからだ。
誰も並んでいないものの、食欲を刺激する香が漂う屋台に私は吸い寄せられていた。
「おっ、いらっしゃい!」
他の国から来た人だろうか? 褐色の肌をし、逞しい長身の男が大きな鍋をかき混ぜている。
「……あの、そのスープを一つ」
「ははは! お嬢さん、そんなにビクビクしなくていいよ。銅貨五枚だ」
「……はい」
銀貨一枚を渡しておつりとスープの入った器を受け取る。野菜と肉がたっぷり入った黄金色のスープは見るから美味しそう。男の方を見ると、「さぁ」と屋台の前の丸椅子を勧められた。
「しかしお嬢さん。あんたチグハグだな!」
「……そ、そうですか?」
「あぁ、そうだ。そのドレス、汚れてはいるが生地は上等だ。お嬢さんは本来、こんな屋台で昼食をとるような身分じゃないように見える」
男は鍋をかき混ぜる手を止めて、こちらを見ていた。目が合うとパチリと片目をつぶる。この人はきっと最近王都に来た人なのだろう。私が追放され見世物として飼われている存在だと知らないのだ。このドレスはその烙印。
「ほらっ! 食べ終わったらこれで顔を拭きな! せっかくの美人が台無しだ!」
そう言って男は綺麗な水に浸された手拭いを私の膝の上に置いた。
「……あの、手拭いが汚れてしまいます」
「何を眠たいことを言ってるんだ! 全く!」
戸惑っている私を見兼ねて男は手拭いを手に取り、私の顔を優しく拭き始めた。恥ずかしくなって固まってしまう。
「ほらっ! これで綺麗になったぞ!」
「……ごめんなさい」
よく分からない感情になり、謝ってしまった。そして堰を切ったように涙がこぼれ落ちてくる。
「おいおい。店先で美人に泣かれちゃ、客が寄り付かねーだろ! 今日のところは帰んな。俺はしばらくここで店をやってるから、また食べに来てくれよ」
私は何も言えず、ただ頷いてその屋台から離れた。
#
翌朝、私はまたあの長身の男がいる屋台へと足を向けていた。まだ屋台は準備中だったけれど、大きな鍋からはとてもよい香りがしている。
「よう! お嬢さん! 今日は大分マシな顔をしているな」
そう言われてハッとし、慌ててドレスの袖のまだ綺麗なところで顔を拭う。
「違う違う! 表情の話だよ!」
「……そうでしたか」
「それに、顔が気になるなら、ほらよ!」
昨日と同じように手拭いが渡される。これで顔を拭えということだろうか?
「なんだ? また拭いて貰いたいのか? 甘えん坊だな」
「いえ、違います! 自分で出来ます!」
手拭いで顔を拭うと、スッと晴れたような気分になる。そして急に空腹を思い出してお腹が鳴ってしまった……。恥ずかしい……。
「はははっ! お嬢さん、味見してくれないか?」
長身の男は黄金色のスープが入った器を私の方に差し出した。
「……いいんですか?」
「もちろんよ! 実はさっき味見した時に舌を火傷しちまってね。さて仕上げだって時によく味がわかんねーんだわ。だははは」
器を受け取りよく冷ましてから口に入れる。昨日と同じで刺激的だけど旨味があって身体全体が温まる。
「美味しいです」
「そりゃ良かった。安心したよ」
「あっ、あの!」
急に大きな声を出してしまった。男がびっくりして眉をピクリと動かす。
「なんだい?」
「ちょっと、かがんでくださいませんか? 顔が私の手に届くぐらいまで」
「うん? 頬っぺたにキスでもしてくれるのか?」
「違います!」
ふざけながらも男は腰を折り、顔が私の目の前にある。私はそっと男の頬に触れ──。
『癒しの光を!』
──これで大丈夫。舌の火傷は治った筈。
「……こりゃ、驚いた。お嬢さん、癒しの魔法が使えるのかい?」
「はい。少しだけ」
「少しだけって、折れてなくなっていた奥歯まで元通りになっているぞ? 普通の癒しの魔法じゃこんなこと──」
「スープのお礼です!」
私が押し通すと、男は呆れたような顔になる。
「全く、とんでもないお嬢さんだな。俺の名前はバーラル。お嬢さんは?」
「ルクアです」
「ルクアか。もし良かったらなんだが、明日から屋台の開店準備を手伝ってくれないか? 実はスープだけじゃなくて串焼きもやりたいんだが、人手が足りなくてな」
「あ、あの……。私にあまり関わると……良くないことが起きてしまうので……」
「はははっ! なんだそりゃ! 周りが不幸になる呪いでも受けているのか? ルクア。そんなことは気にしなくていいんだよ! 俺はよそ者だからな。都合が悪くなりゃ、さっと逃げちまうよ! だから大丈夫だ! なっ?」
「……はい。よろしくお願いします」
バーラルさんの強引な誘いを断り切れず、私は屋台の手伝いをすることになってしまった。大丈夫かな……。