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八咫

 満月の柔らかい金色の光が生命の樹に降り注ぎ、白い木のてっぺんからだんだんと月の色に染まっていく。そして、何かの前触れのように風が止む。あたりが一層静かになった。


 ……何が起こるんだろう。


 ドキドキしながら生命の樹を見守るが、期待に反してそれ以上の変化があらわれる様子はない。


「あれ、葉っぱが生えるんじゃなかったっけ?」


 思っていたのと違い、私は頬に手を当てて首をかしげる。

 満月に葉を茂らせるというのは迷信だったのかもしれない。

 そう思った時だった。


 ————ドクン


「ぅわ……っ」


 またしても心臓が大きく跳ね、私は思わず小さな声を上げた。

 しかし、今回はさっきとは感覚が違う。

 体が沸騰するように熱くなり、全身が心臓になったように脈打ち、目の前が一瞬だけ二重に見えた。

 そして、引力に引き付けられるかのように、視線と意識が生命の樹に吸い込まれていく。


「なんだこれは⁉」


 私が異変を感じたと同時にガイオンが驚きの声をあげ、私を守るように肩に手をまわして引き寄せた。そのおかげでハッと意識を手繰り寄せることができたが、始めての感覚にちょっぴり不安になってしまい、私を包んでいるガイオンのたくましい腕に私の手を重ねた。


 ガイオンの手の甲も熱い。

 変化が起きているのは、私だけではないようだ。


 全身が熱くなったかと思うと、今度は背筋に冷涼な風が通るのを感じ始める。尾骨、腰、肩甲骨、最後に眉間と冷たい空気が流れ、体の中の熱が解放されていった。全身が重力から解き放たれたような、とても心地よい感覚が広がる。

 体の中から浄化されたような爽快感を感じた時、生命の樹に変化が現れた。


 月の色に染まった幹が、てっぺんから波が広がるように虹色に代わっていく。そして、色が変化した部分から順に小さな芽が出たかと思うと一瞬のうちにパァッと虹色の葉が茂った。月の光が葉っぱに反射し、虹色の光が雨のようにキラキラと降り注ぐ。


「うわぁ、すっごい! 本当に葉っぱが生えたよ!」

「確かにこりゃすげえや。噂は本当だったんだな」


 気分が高揚した私が目をキラキラ輝かせ、下から上、右から左に生命の樹をながめてはしゃいでいると、不意に誰かが話しかけてきた。


「こんばんわ」


 誰もいないと思っていたところに突然男の子の声が聞こえ、驚いた私は「わっ!」と言って飛び上がった。

 声のする方を見ると、生命の樹の根本に黒髪の少年が立っていた。


「わ! いつからそこにいたの⁉」


 サミュエルがリディクラスで着ていた和服と同じような服を着ている少年は、質問には答えず驚いている私を見てクスクス笑った。


「サミュエルに会いに来たんだよね。僕が案内してあげるから、ついてきて」

「え……サミュエルに会いにって、サミュエルがここにいるって言うこと?」


 そんなはずはない。

 今もトライアングルラボの診察室で寝ているはずなのに、この少年は一体何を言っているのだろう。


 ガイオンも疑問に思っているのか、訝しげに目を細めて少年へ問いかけた。


「なんだか色々知っている風な口ぶりだな。お前、なにもんだ?」

「サミュエルのことだけじゃない。シエラのこともガイオンのことも知ってる。シエラの魔力の覚醒が遅かったことも、ガイオンが生に執着がないこともね」

「当たりだ。俺はチマチマ生きるのは嫌いだからな」

「なぜ会ったこともないのに私たちのことを知ってるの?」


 私は思っていることを素直に聞いた。


「もしかしてあなたは、生命の樹なの?」


 少年が答える前に、目の前から突如生命の樹が消えた。


「え、わっ……! なに? どうしちゃったの?」


 突然暗闇の世界に迷い込んだ私が慌てる。

 生命の樹だけじゃなく、何もかもが消えていた。

 右を見ても左を見ても暗闇が広がっているだけ。真っ暗な世界に私とガイオン、そして少年が浮かんでいる。


 まさか、異次元にでも放り出されてしまったのだろうか。

 私はガイオンまで消えていなくならないように、ギュッと腕にしがみついた。それに答えるように、ガイオンが私の手を握る。


「おい、お前何をした⁉ 周りにあったものはどこに行ったんだ⁉」


 ガイオンが吠えると、少年はニッコリ笑った


「あると思えばあるし、ないと思えばない。感じたものは存在せず、意識できないものが存在する。場所と言う概念、時間と言う概念、人が見つけた概念は概念ではない。ガイオンの周りには何があって何が無かったの?」


 なぞなぞのような質問を投げかけられたガイオンが、ぽかんと口を開いて斜め上を見上げた。


 大変だ。このままではすっかり少年のペースになってしまいそうだ。

 サミュエルも龍人もいない今は、私がしっかりしなければ。ガイオンを守るのは私なんだ。


「ちょっとあんた、良く分からないことばっかり言って、一体何が目的なの? 私たちを言いくるめて変なことをしたら承知しないんだから!」


 いつまでもはっきり言わない少年にしびれを切らした私が、ガイオンの腕にしがみつきながらくってかかる。

 それでも少年は全く気にせず、穏やかに微笑んだまま答えた。


「僕は八咫やた。太陽の力を受け継いだシエラを導くのが仕事。ここから先はシエラの意識だけを連れていくから、ガイオンは残った肉体を保護しながらここで待っていて」

「に、肉体を残すだと⁉ そんな話が信じられると思うのか?」

「信じられないの?」


 八咫がきょとんと目を丸くした。

 それとは対照的に、ガイオンは肉食獣が獲物を見定めるような鋭い目で八咫を睨む。


 こんな恐ろしい顔で睨まれたら冷や汗の一つでもかくのが普通なのに、八咫は全く意に介さず微笑んだままだ。


 生命の樹が虹色に光って葉っぱを茂らせたと思ったら、今度はどこからか不思議な少年が現れて、とどめに真っ暗な空間に移動。そして今度は意識だけを連れていくだなんて、まるで御伽話おとぎばなしの世界じゃないか。

 誰だってそんな怪しい話を信じられるわけが……。


「分かった、信じよう!」

「えぇっ、ガイオン⁉」

「俺のカンが言ってる。シエラはこいつについて行かないとダメだ」


 私の野生のカンは「信じて良い」だなんて言っていないのに、ガイオンが一人で「うんうん」と頷いて納得している。それを見て、八咫がにっこり微笑んだ。

 

 でも私は納得していない。どこに行くのかも自分がどうなるのかも分からないというのに、「はいそうですか」なんて簡単に言えるわけがない。

 私が珍しく警戒していると、八咫がガイオンに言った。


「シエラの体、よろしく頼んだよ」

「ちょ、ちょっと! 私はまだ納得が……」


 言い終わる前に、私の意識がゆっくり私の体から離れていった。

 ふらつく私の体をすぐにガイオンが受け止めてくれたのを、自分の頭上からながめる。


「あー! まだ良いって言ってないのに! なんで勝手に話を進めちゃうの⁉」

「シエラの場合は見た方が早い」


 今度は何の合図もなく足元に見えていた私の体とガイオンが消え、ジメッとした陰気臭い雰囲気の空間に移動した。正確には、体は移動していないが、同じ暗闇なのに空気がまるっきり違うから移動したと感じたのだ。そもそも、体と言っていいのかもわからないけど……。


 とにかく、先ほどまでとは違い、体にかかる重力が重い上に酸素が足りなくて息苦しい。それに、暑くないのになぜか汗が出てくる。

 不快な空間に移動した私は、不満げに八咫をじろりと睨んだ。

 

「なにここっ! 今度はどこに来たの?」


 きっとろくな場所じゃないだろう。

 ニッコリ微笑んでいた八咫が、微笑みを消すとまっすぐに私の目を捉えて言った。


「ここは、サミュエルの心の中」

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