羊の柔らかさ
「伊玖!伊玖!!」
誰かの呼ぶ声に意識が浮上する。薄く目を開けると、一番に見えたのは螢の泣きそうな顔だった。
「螢……?」
「伊玖……!!」
螢に布団ごときつく抱きしめられる。
「良かった……」
耳元で聞こえた小さな小さな声。その声に私は涙が溢れ出した。
自分の頬が濡れる感触に気づいたのか、顔を上げた螢がぎょっとした顔をする。
「なっ、泣き」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「なんで……」
「貴方の伊玖を奪ってしまってごめんなさい」
私は気づきたくないことに気づいてしまった。眠る前までは確かにあった、伊玖の心が消えている。記憶は残っているのに、その時の伊玖の感情が何一つ分からない。今の私はもう、喬都目伊玖じゃない。記憶だけを持った別人だ。
「どういう、ことですか……?お嬢様はここにいるでしょう……?」
「ちがうっ、私は伊玖じゃない!ちがうっ!!」
「ちゃ、ちゃんと言ってくれないと分かりません!それにお嬢様は私の前にちゃんといるでしょう!──俺にとっての伊玖はお前だけだっ!」
再度きつく抱きしめられる。私を抱きしめている腕も何故か震えている。螢の言ってくれた言葉に涙が止まらない。
「……お嬢様が変わっていかれるのには気づいていました。でもその変化が私には嬉しかった。嬉しかったんです。そんなお嬢様を、貴方様が否定しないでください。私の大好きなお嬢様は喬都目伊玖様、今私の腕の中にいる貴方様だけなんです」
優しく優しく紡がれる言葉。そのどれもが私の心に優しく染み渡って、嗚咽までではじめてしまう。
「ふっ……うぅ……。ほん、とに、私でいいの……?」
「貴方様がいいんです。貴方様の中には確かに伊玖様がいる。だから否定しないでくれ」
「あっ、う、──ああああああああああっっっっ」
私は初めて誰かにしがみついて大声で泣いた。受け入れてもらえた気がする。誰も気づいてくれなかった私に気づいて、確かにその腕で抱きしめてくれている。
私の中にはもう伊玖はいないかもしれない。どうしてこの体に入ってしまったのかも分からないまま。それでも伊玖としての記憶はある。それでいいのかもしれない。こうして受け入れてくれる人がいる。きっとそれだけで、前を向ける。
「行か、なきゃ……」
「……伊玖?」
優しく頭を撫でてくれていた手が止まる。
「螢に全て話したら、行かなきゃ行けないところがあるの」
「私も、ご一緒してよろしいですか?」
「話を聞いてからもう一度よく考えて」
「かしこまりました」
螢は私を腕から離すと、泣き腫らした目を冷やすためのタオルなどを持ってくるために部屋を退出した。
私は明日、あの二人に会いに行くんだ。




