日ノ下 比呂
初投稿です。
「……です! えぇと、それから……」
暖かい日差し。柔らかな風。鼻をくすぐる梅の甘い香り。
「あぅ……。……ません」
春眠暁を覚えず――という一節がある。春の夜は心地よくてついつい寝坊しちゃうね、という意味だが、最近は昼夜を問わず用いられる事が増えているらしい。
「……くれると……です!」
本来の意味を考えると誤用なのだが、そういった間違いをするのもうなずけるのが春の陽気の恐ろしさ。夜だろうが昼だろうが関係なく、人々の眠気を誘う魔性の季節なのだ。
「……しくお願いします!」
なればこそ、それに魅了されて居眠りをしてしまうことを誰が責められようか。いや、誰も責められない。
「次は――」
ああ、悔しいなぁ。抗いたいのにそれも叶わず、その誘惑に負けてしまうとは。本当は至極真面目で勤勉で模範的な生徒なのに、それを証明することができないなんて、つくづく残念無念……。
「……」
でもしょうがないよね、悪いのはこのポカポカ陽気……ポカポ、カ……? うん? ……あれ? 寒い!? そんなバカな!? なんだこの底冷えするような冷気は。まるでぬるま湯のお風呂でのんびりしていたらいきなり冷水をぶっ掛けられた時のそれだ。足はカタカタ震えているし、体中の産毛が逆立っているのが感覚的に分かる。
カツ……カツ……
何か不吉なものを含ませる音がこちらに近づいてきているのを確かに耳に捉え、この寒気もそれが運んできているのだと察して急に汗が吹き出る。今すぐ起きてその正体を確かめなければならないと本能が叫びつつも、ここまできたら意地でも寝てやるという謎の抵抗がそうさせなかった。
やがて、音がピタリとやみ、永遠にも感じる沈黙が訪れる。いっそのこと一思いにやってくれと、捕食される寸前の草食動物のような心境で審判の時を待つ。
「……?」
しかし、待てどもその時は訪れず、ひょっとしたら許されたんじゃないかと思い、少し覗いて見ようとした瞬間、頭をガッとつかまれ、心臓がヒュンッと飛び跳ねる。あ、これ死――
「いだだだだ!? 頭が割れるように痛いィ!?」
「私の前で堂々と寝るとはいい度胸をしている」
なんだこの力の強さ!? ひょっとしたらマウンテンゴリラに掴まれているのではと思い、俺の頭を握りつぶさんとアイアンクローをきめている人物(動物?)のほうを見ると――鬼がいた。ゴリラなど生ぬるい、圧倒的オーラを身にまとい、見るもの全てを恐怖のどん底に陥れる、生態系の頂点。その鬼は、肩まで伸びて少し癖のある黒い髪、スッと通った端整な鼻、こちらを見据える少しつりあがった目に灰色の瞳。そして、少し視線を下げるとそれはそれはたわわに実った大きなむ――おごごごご!?
「この状況でも私を品定めする余裕があるとは、たいしたものだな。ならばこちらも本気でいこう」
さっきまでの本気じゃなかったんですかぁ!? ミシミシと俺の頭がエマージェンシーを告げてるんですけどぉ!?
「ち、違うんです先生!」
「ほう?」
一応弁明の余地を与えてくれるつもりなのか、手の力がわずかに弱まる。だが、目は依然として絶対零度の視線をこちらに浴びせている。何か馬鹿なことを言えばその瞬間、俺の16年間の生涯に幕を閉じる事になるだろう。
「ほら、皆入学したてで緊張しているでしょうから、俺が道化を演じることでリラックスさせてあげようとですね」
リラックスどころかトラウマになりかねないんだよなぁ、と後ろのほうから聞こえたような気がしたが、そんなものは知ったことではない。こちとら命がかかっている。
「それは殊勝なことだな」
「でしょう?」
俺がそういうと、鬼はフッと息を吐き、目を細めた。もしかして……いける感じですか!?
「だがな……」
「え?」
「それをするならば、最後まで貫き通さねば意味がないと思わないか?」
前言撤回、いやな予感。一度は弱まった手の力がじわじわとまた強まっていることがそれを物語っている。
「い、いやいや! もう場は十分暖まったと思います!」
寒気で凍えそうなんだよなぁ、とまた後ろから。ええぃ、さっきから誰かは知らんが余計な事をつぶやくな! 空気を読め、空気を!
「……遺言はそれでいいのか?」
「よくないですぅー!!」
アッーーー! もうクライマックスに突入しようとしてるー! 畜生、はなっからこっちの言い分なんて聞くつもりはなかったんじゃねーかこれ! 殺る気満々といわんばかりに笑みを浮かべ、据わった目でこちらを貫いているその人はまさしく鬼。か弱い人間に対する温情などなかったのだ。
もはやこれまでと覚悟を決め、再び目をつむる。
「……あれ?」
しかし、何もおきなかった。俺の頭がひょうたんのようにへこむでもなく、圧縮の末爆発するでもなく、ただ鈍い痛みを残すのみで、万力のような力は霧散していた。どうしたことかと鬼のほうを見ると、手を俺の頭から離し、やれやれといった風に呆れた顔を見せている。
「とどめを――と思ったが、それは後だ」
「ほ、ほんとですか」
「嘘は言わん」
よよよよかったー!! 何でか知らんけど助かったー! ……ん? 後? あれ、ホントに助かってるかこれ。寿命がほんの少し延びただけじゃ? むしろ死刑宣告されてない?
「それより、時間をとられている。さっさとしろ」
「へ?」
うんうんと考えていると、先生から思わぬ催促が入る。え? 何を? 一発芸でもしろって? それ『なんか面白い話しろ』レベルの無茶振りですよ先生。もしかして精神的に俺のこと抹殺するつもりじゃないでしょうね。
「何を寝ぼけている。自己紹介だ」
自己紹介……? ……ああ、なるほど。そんなことしてたっけか。入学式でだいぶ眠気がピークに来てたのに加えて、ホームルームでの自己紹介もみんなテンプレなことしか言わないもんだから、もーあかんと眠気に抗うのを諦めたんだっけ。それでいつの間にか自分の番がきてて起こされたと。
そういうことなら、さっさとすませましょうかね。そう思い、立ち上がりえへんおほんと声の調子を整えてこう言った。
「日ノ下 比呂。ご覧の通り、品行方正、明鏡止水をモットーとしてるんで。そういう感じで絡んでもらえると嬉しいっす」
ドヤ顔で俺はそう言った。
「うーむおかしい、何故うけなかったのか」
ホームルームも終わり、現在昼休み。
これで大爆笑必至だろうと思っていった自己紹介は、水を打ったようにしんとした教室内に吸い込まれ、なんともいえない空気が残るだけだった。ツッコミどころ満載の紹介をすることで、笑いを誘う作戦だったのだが。
「おかしいのは貴方の頭でしょう」
凛とした声が右のほうから響く。まさか反応があるとは思わなかったため、少し驚いてそちらを向くと、長く、艶やかで美しい黒髪の、まさに絶世の美人がおかしそうにくすくすと笑っていた。
「まじかー。俺の頭、おかしくなってる? あの先生、アホみたいに力強いから、ひょうたんみたいにひしゃげてないかと心配だったんだけど」
「っふ……! ひょうたん……っ! くくっ、そ、そういう意味じゃ……ないわよ……!」
ツボにはまったのか、苦しそうに笑いをこらえている美人さん。そういえば先ほど大スベリをかました後、誰かこっそりうけてないかなー、と周りを見渡すとこの人は不自然にうつむいていた。あれももしかして腹を抱えていたのだろうか。
そんなことを思っていると、落ち着いてきたのか美人さんはこほんと息を整えてこちらに向き直る。
「貴方、ユニークな人ね」
「あんたこそ」
見た目クールビューティーなのに実のところ笑い上戸なんて、ギャップがあってとてもユニークだと思う。やはりこういう人間味があるほうがとっつきやすくて好感がもてる。俺がそう言うと、美人さんは少し驚いたような顔を見せた後、「やっぱり貴方、変わってるわ」と言って綺麗な笑みを浮かべた。
はて、何か変な事言っただろうか。割と真面目に褒めたつもりだったのだが。やはり女性というのは不思議な点が多いものだ。
さて、改めてこの美人さんと向き合うと、本当に顔のパーツ一つ一つが整っていて、特に印象的なのはその瞳の色。まるでサファイアのように美しい蒼で、ぱっちりとした目と長いまつげがさらにそれを際立たせている。
「ああ、ちなみに私はハーフじゃないわ。両親も祖父母も日本の人よ」
俺の視線に気が付いたのか、あるいはこの手の質問をされ慣れているから先手をとったのか。もしくは両方だろうか。
「おそらく隔世遺伝だと母は言っていたわ」
「へぇ」
確かに、瞳の色だけでなく肌の色も透き通るほどに白く、外の国の人を彷彿とさせる。遠いご先祖様に異国の人がいたのだろう。
「けれど、貴方あまり驚かないのね」
「ん? いや、じゅーぶんに驚いてるけど」
入学早々鬼にエンカウントして生死の境目をさまよったかと思えば、今度はこんな美人さんがお隣さんで知り合いになれたときた。ビックリの連続で俺のガラスのハートは白旗寸前だ。
「他の人の驚きは、未知のものに対するもの珍しさみたいなものを多分に含んでいたけれど、貴方のそれは単純に私の容姿そのものに対してのものに感じたわ」
まぁ、確かにこんな綺麗な蒼色の瞳、日本ではほとんど見られるものではないから、動物園のパンダのように扱われてもおかしくはない。しかし、俺が美人さんに向ける視線がそれと異なる事を美人さんは言及しているらしい。
「あー……。まぁ、それはあれだね。俺も生まれは日本じゃないから」
「え?」
「あんたと同じで、両親は日本人だけど、今はイタリアに住んでて。俺も生まれも育ちもそっちだったから」
確かに俺は美人さんに見惚れはしたが、蒼い瞳に関しては、「日本にもいるんだな」程度の驚きだった。イタリアでは蒼い瞳はそこまで珍しくはない。とはいえ、そのほとんどが灰色がかった蒼だったので、彼女のような深い蒼は初めてなのだが。それでも、日本人よりかはいくらか慣れがある分、美人さんに対して奇異の目を向けることはなかった。
「そうなの。通りで」
美人さんは得心がいったように目を丸くしてうんうんと頷いた。
「では、高校入学にあわせて日本へ?」
「あー、イタリアの学校制度だと、16歳はもう高校3年生にあたるから、入学っていうより転校ってほうが正しい気がするけど。まぁ、そんな感じ。両親はあっちに残ってるから、こっちにきたのは俺一人だけどね」
俺が日本の高校に行く、と言ったら泣いて止めてきて、それを説得するのはものすごく面倒だった。うちの両親は優しくていい親なのだが、いかんせん親バカが過ぎる。両親は仕事の関係上、日本に移る事ができず、子供一人異国に送り出すのだから不安は当然だけれど、流石に説得に丸3年かかるのはどうかと思う。
「あら。じゃあ今は一人暮らしなの?」
「うんにゃ、流石にそれは許してもらえなかったから、親戚のところでお世話になってる」
本当は一人暮らしを希望したのだが、両親はそれだけは駄目だと譲らなかったため、妥協点として日本に住んでいる親戚のもとでお世話になる事に落ち着いた。俺の自家発電ライフ計画がパーになったときはへこんだが、その親戚の人が女性だと聞いて生気を取り戻し、その後、よくよく考えれば余計に自家発電が難しくなったのでは、と気が付いたのもいい思い出だ。
「そう……。でも、今までずっと外国暮らしだったのなら、この学校の生活は大変でしょうね」
「うん? いや、別に日本語には困らないし、文化とかもネットとかで調べてたからそんなに心配してないんだけど」
「いえ、そういうことではないのだけれど」
どういうことだと聞いてみるが、美人さんは神妙な顔つきでこちらをじっと見つめた後、フッと息を吐いた。
「まぁ、すぐに分かるわ。それに、貴方なら何とかするような気がする」
「おいおい、もったいぶるね……。急に怖くなってきたんだけど」
なんなの? この学校じゃ外国人とか帰国子女に当たりが強いとか、そんな感じ? それとも、学食がクッソ不味いとか、通気性最悪で夏冬辛いとか、教師がみんなさっきの鬼みたいなのばっかりで魑魅魍魎が跋扈してるとか……。
俺が様々な可能性に頭を悩ませていると、美人さんはまた楽しそうにくすくすと笑う。
「ふふ、今のうちに存分に怖がっておくといいわ」
「……案外意地が悪いなー、あんた」
「いやでも分かることだから。それと……」
今日一番の綺麗な笑顔を見せて、茶目っ気たっぷりに口の前に人差し指をピンと立ててこう言った。
「私、“あんた”じゃないわ。月宮 雫。どうぞよろしくね、日ノ下君?」
壮大に何も始まらない。