第九話
魔王子犬やられ事件から数十分。全力で走ってようやく宿に到着した。
「や、やっと着いた。走ったせいで汗だくだぜ」
「コウちゃん。その着てるシャツ私にちょうだ」
「とりあえず広間に行って休もうぜ。茶ぁ淹れるからよ」
「MU☆SHI」
「あっ、じゃあ私手伝います!」
「うん? いいよ茶ぁ淹れるくらい一人でできるし」
「そう、ですか……あ、じゃあじゃあ、お菓子用意します! 一緒に台所行きましょう?」
「お、おう」
ソラさんはなんだか必死な様子で俺の腕を引っ張る。俺は引かれるまま台所へと歩きだした。
「はっはっは。ソラのやつ張り切っているな」
「どういうことじゃ?」
「ラブだよ、ラブ」
「???」
まーたあの変態は余計なこと言ってるな。魔王のやつポカンとしてるじゃねえか。
「さて、とにかくお茶を……ってソラさん、なんか近くねえか?」
「ふぇっ!? ご、ごめんなさい。気を付けますね」
「…………」
「…………」
や、やはり妙に距離が近い。なんでだ? もしかしてソラさん、俺の事を……
「えっと、航太さん。お茶菓子の準備できました」
「お、おお、ありがとう。じゃあ行くか」
「は、はいっ」
こうして俺は大いなる疑問を抱きながらも、お茶とお茶菓子を持って魔王たちの待つ広間へと戻っていった。
広間で束の間の休息を取った俺たちは、同時に安堵のため息を落とす。それと同時に体の汗が気になり、俺は風呂場の方に視線を移した。
「さて。お茶も飲んで落ち着いたし風呂にするか。一人ずつ入ろう」
「じゃあ私は魔王ちゃんと入ろう」
「一人ずつって言ってんだろが!」
「貴様となど絶対に入らんぞ!? だったらこやつと入る方がマシじゃ!」
「ふぇっ!? わ、私ですか」
突然魔王に指名されたソラさんは、驚いた様子で自身を指さした。
魔王はそんなソラさんの様子を見ると鋭い目つきへと変わった。
「不服か? 人間の分際で生意気な」
「いえ、私も魔王さんの頭を洗ってあげたいなって思ってました」
「そ、そうか」
にっこりと微笑むソラさんの様子に面食らったのか、魔王はその顔を赤くして頷いた。
「あー魔王ちゃん赤くなってるー♪ 照れ屋さんなんだ♪」
「う、うるさいうるさい!」
「じゃあ俺は最後でいいよ。最初は―――」
「いやいや、私が最後に入ろう。じゃないとみんなの残り汁を楽し」
「最初は七海だな。さっさと行け」
「いけずぅ」
しばらくして風呂が沸くと七海から順番に風呂に入り、しばらくしてようやく俺の番になった。
頭と体を洗って湯船に浸かる。ああ、疲れが全部流れ出そうだぜ。
それにしても―――
「ソラさん、俺と話してるとなんか顔赤いし距離も近いし、あれって……」
もしかして、ボーイミーツガール的なあれか? あれなのか?
「ははっ、そんなわけねぇか。勘違いもいい加減にしねえとな」
そう言いつつも、妙に俺の傍にいたがっていたソラさんの姿と笑顔が頭に思い浮かんで、俺はぽーっと中空を見つめる。
しばらくアホ面でぼーっとしていた俺だったが、やがてぶんぶんと顔を横に振った。
「いやいや。勘違い勘違い。落ち着けよ俺」
どうやらのぼせてしまったらしい。俺は湯船から出て体を伸ばした。
「さて、そろそろ出るか。七海のアホがまた何かするかもしれんからな」
俺は浴室のドアをゆっくりと開き、更衣室の中を見つめた。
「ふう。ちょっと早いけど出ちまっ……た……」
「はすはす! はすはす! はぅぅ、航太さんの匂いがするよぉ」
「…………」
俺の視線の向こうでは、女の子座りをしたソラさんが俺の履いていたパンツを両手で持ってその匂いを思い切り嗅いでいる。
これは夢だろうか。夢であれ。
「癒されるー。うう、持って帰りたいけど無理だよね。今だけで我慢しなくちゃ」
俺はそっとドアを閉めた。
「いやぁ、何か幻覚が見えてしまった。はっはっは」
俺は誰に言っているのかわからない独り言を落としながら大量の汗を流す。
そんなまさか、ねえ? 気のせいですよ。こうしてもう一度ドアを開けばほら、いつも通りの日常が待ってるさ。
「はぅぅっ、ここ最高! 良い匂いがするよぉ。持って帰れないかなぁ」
悦にいった表情で嬉しそうに俺のパンツの匂いを嗅いでいるソラさん。俺は自身の目の光が無くなっていることを自覚しながら再びドアを閉めた。
「―――どうしよう。風呂から出れねえ」
「はううううう!」
こうしている間にもソラさんの嬉しそうな声が微かに聞こえる。てかあの人油断しすぎだろ丸聞こえじゃねえか。
「とにかく落ち着け。落ち着け俺。今すべきは―――」
「はぁー堪能した。匂いを固形化できればいいのに」
「ゴラァ! 人の下着で何してるですか!」
「ひぁっ!? こ、航太さん!?」
「いろいろツッコミたいところはあるが、とりあえず正座しなさい!」
俺は勢いで風呂を飛び出し、ソラさんへ怒号を浴びせた。
ソラさんはしゅんと体を小さくしながらその場に正座する。
「うう、すみません。私昔から匂いフェチなところがあって」
「うん。七海の例もあるしそれはかろうじて納得した。……でもポケットに入れた下着は返してね?」
「ちっ」
「舌打ち!?」
「すみません。これからは自制しますね」
「ああ、うん。近い近い。もう俺に向かって顔突き出してるし」
ようやくわかったよこの行為の意味。俺の匂いを嗅いでいたわけだ。ははっ、死にたい。
「うぅ。本当にごめんなさい」
「はぁ、もう。とりあえず、匂い嗅ぐのは勘弁して下さい。恥ずかしいので」
「それは確約しかねます」
「こ、この子。そんな真っ直ぐな眼で……!」
「じゃあ私は部屋に戻りますね。今日はすみませんでした」
にっこりと微笑みながら立ち上がるソラさん。しかし俺はある事実を見逃さなかった。
「あ、うん。いいけど右手の靴下は返してね?」
「ちぇっ」
「ちぇっじゃない!」
こうして俺はとんでもない変態姉妹を相手にしてしまっている事に気付き、目の前が真っ暗になるのを感じた。