第六十五話 佐倉鍋山死出の山
「一戦もせずに降伏するなぞ武家としての沽券にかかわる」
そんなセリフと共に散って行った武士の何と多いことか。特に関東では。
京室町に幕府が開かれて以降在京の食えない公家は地方の大名の食客となって食い繋ぐ者が多数いたが、それでも関東以東に足を踏み入れようとする公家は稀であった。それは、何かあったら、殺されて食われてしまうと本気で信じられていたからである。
実際、ほとんどの関東武者はどう考えても、理屈の分からない莫迦な野蛮人である。云うことを聞かせられるのは、主家の統領の一喝ぐらいなものだろう。
補給の都合で、鹿島川の東を行軍してきたわけだが、渡河し易い場所から東へなだらかな谷間を抜けて佐倉城へ向かう途中、鍋山という小高い丘にそんな野蛮人が集結しつつあるようだ。
下総国の国人衆は水賊とそれ以外に分かれる。水賊は印旛沼、手賀沼、長沼、涸沼、渡良瀬川、鬼怒川、霞ヶ浦、北浦という香取海を構成する沼沢河川の水運・漁業の従事、保護育成によって経済を重視し発展してきた者たちのこと。それ以外とは、田畑の収穫に依存し、閉鎖的な血縁関係の小さな領地に固執し、物事を深く考えずともすれば筋肉言語で語り合おうとする悪癖を持つ、鎌倉幕府からの関東武者の性格を色濃く残す者達のこと。
目の前の脅威を鑑みるに、遠方のしかも最前の戦で負けた古河公方を頼ろうという選択肢は、雲散霧消したようである。気を見るに敏な水賊の多くは、関東管領殿に挨拶し、鎌倉府に出仕の約束をした。さもなければ、遠方であることを理由に閉じこもっている。古河公方から要請があれば、出陣する可能性もあるかもしれない。しかし、排他的な気質を持つ下総の国人衆は、岩橋家に唆されたか騙されたか、鍋山に集結しているらしい。
数は大凡千五百。
関東管領が率いる軍勢は、三千。較べれば遥かに少ない数である。
だがこんな言葉で、自分をごまかし、蛮声と共に坂を駆け下り突っ込んでくるのではないか。
「古来より、小数が多数を打ち破る例はいくらでもある」
その通り、小勢が大を打ち破った例はいくらでもある。だが、普通はないからこそ後世に言い伝えられるものなのだ。彼らは騎馬と三、四人の郎党の単位で固まって行動する。騎馬の速度を生かせないし、一人か二人いる弓も基本直射で狙うので射程が短く、集団戦には効果的とは言えない。
こういう敵と戦う時、恐ろしいのは、傑出した能力を有する個か、浮足立った逃げ腰の味方だけである。
関東管領軍は、整然と隊列を組んで行軍した。第一列には、足利二両引き、竹に雀、桔梗等の旗持ちが、二列目から弓兵だけの列が続き、その後ろには槍兵、更に騎馬、荷馬だけの輜重が続く。敵らしき集団を発見したことで、騎馬隊が広がって槍兵の外に位置するようになる。
今回の出陣に当たっては、先の北近江の戦いを参考に、兵種ごとの構成にした。あの時も効果的だったから、今回も上手くいくだろう。渋る大名連中を説得するのが大変だった。伊豆、相模、武蔵の湿地で採れた葦を材料に、大量に作った矢を持ち込んだ。獅子が浜や横浜の葦を狩り集め、鎌倉周辺に増えた養鶏所の鶏の羽と屑鉄の即製の鏃で何千何万と作り上げた。品川から江戸にかけての葦もかなり使った。真っすぐだが脆い葦は、使い捨ての矢としてはなかなか使いやすい。鏃や矢羽は回収した方がよいかもしれない。
禿山の如き鍋山の中腹に陣取った武装集団らしき一群が動き出したのは、丁度山の麓に差し掛かったところだった。来襲があるのを予想して兵種別に行軍をしていたが、各々の指揮を取る武将が号令を掛ける。
先頭を進んでいた旗持ちは下がり、隊伍を組んだ弓隊が敵に向き直る。その数八百。号令と共に矢をつがえ弓を弾き絞る。矢は敵の頭上を向いている。
この日のため、大量に作った矢だ。次の夏の葦簀は高値となるだろう。
大音声の号令と共に矢が射掛けられる。上空に上がっていく矢の群れは蝗が群れ飛ぶようだ。着弾すると共に敵の兵が何人ももんどりうって倒れる。だが、他の兵は走るのをやめない。
矢が落ちきる前に風の補正をして矢の向きを修正しながら四射。弓隊が後退し、長柄の槍隊が前進、長さは三間で揃えた槍衾だ。数は千二百、四列横隊で、前に列が穂先を前に向け、後ろに二列は上に向ける。前二列は槍の石突を腰に具足の上から巻きつけた皮の当て具に固定し歩く速度で前進。二列目は前列の兵と兵の間から槍を構え、遅れずに歩む。二列までの槍の穂先をかき分け、近づいた武者が三列目の槍に強打されて昏倒している。大量生産の槍は竹を細く削いで膠で固めた打柄である。長さも自在に作ることができる。
槍隊は走る必要はない。ほら、走って来た騎馬が、槍兵が立ち往生している。走って来た敵兵は、矢で二割ほど数を減らしている。一族で、郎党共に少人数で作った軍は、まったく機能していない。こちらは散発的に矢を射掛けられて、小人数が怪我を負っているが、すぐ穴は埋まり、怪我人はすぐ後方に送られて輜重隊で治療を受けている。
そうこうするうちに、こちらの騎馬隊が槍部隊の脇を抜けて、右往左往する敵を押し包むようにすると、敵の動けるものは算を乱して逃げ出したのであった。その間一時間もない。味方武将があっけに取られるほどの完勝であった。味方の兵で死者はなく、怪我人も数えるほど。敵は、数百の男が地に伏している。自胤を苦しめた者共であったはずなのだが。
輜重隊に敵のけが人は任せた。武装解除し、名前を聞き取って治療する。治療後は証文を押し付けて記録し、その辺の木陰にでも打ち捨てる。戦死者? 身ぐるみ剥いで埋めましたが何か?
鍋山の敵が陣を敷いていたあたりに陣を敷くことになり、そこで警戒しながらの野営となった。
佐倉城はここからは指呼の間である。全ては明日だ。
なお、後年鍋山は近在では死出の山と呼ばれるようになる。地獄への入り口となったからだ。




