第六十二話 千葉家の家督
自胤は、翌日には鎌倉から消えていた。
「佐倉城でも攻めますかな」
澄まし顔で左京が言った。
「逆立ちしても、落ちぬだろうに」
俺が答える。
「御屋形様のお情けに縋らなかったのですから、他に道はありはしません」
「二人とも、随分と物騒な話をしておるな」
関東公方の親父、足利政知がいきなり俺の部屋に入って来た。
「これは、父上」
俺と左京はいったん立ち上がって礼をする。
「朝餉を食べて腹ごなしに歩いていたところじゃ」
親父は、どっかと上座に座って、俺たちの顔を等分に見た。
「今朝は何を召し上がりましたか」
「ん。卵の粥をな」
「ほお。卵を」
鶏卵は、松の努力で伊豆や鎌倉では急速に食材の地位を獲得していた。無精卵と有精卵が存在し、無精卵からは決して雛が孵らないことを、主だった武士や僧侶に認めさせたのである。今では、鎌倉府に近隣の農家が鶏卵を持ち込むまでになっていた。
「あれは美味いですからな」
「まったく。食しても殺生戒を破るわけではないというは、目から鱗であった。経文では読んでおったが、天竺と日ノ本で同じとは思えなかったのが今になると不思議だ。勝子殿に説かれるとは、これでも五山の最上位の僧であったというのに」
「ああ、末法の世に戒律は不要という話ですか」
「うむ」親父が大きく頷いた。「還俗して三十二年、釈尊談義を久々にして、心が現れるようであった。知っておるか? 釈迦尊には息子が居ったのだぞ」
「天竺の王族ですからな。当然のことでありましょう」
「むう。つまらぬやつめ」
「先ほどの話ですが、父上」
「うん?」
「千葉のことです」
「次郎殿のことか?」
「あの御仁では、下総は纏まりません」
親父はそっぽを向いた。
「そもそもは、あやつを助けるために儂が東下したようなものじゃ」
「ですが、大御所は東野州殿を派遣されましたな」
「馬加一族を討ち、仇を打っても、下総は治まらなかった。岩橋のような本当に血の繋がりがあるか分らぬような男につく国人が多いのです。そもそも、馬加一族を討った時、あの御仁は陣中にはいなかった」
「仇を討ったのは、東野州様。しかも派遣したのは、渋川を武衛家に押し込んだこともある大御所様です。仇を打ては、千葉宗家の家督は、郡上の東家で継がせると、囁いていないとは言い切れませぬ」
「かつては普広院様を超えると公言してらっしゃったそうですから」
「兄上がのう・・・」
「弟を二人も還俗させた公方様は他にいらっしゃいません」
「まあ、そう言うな。儂が還俗しておらねば、お主が生まれることもなかったのだからの。茶々丸よ」
おっと、その名前で呼ばれるのは随分と久しぶりだ。
「は、それは勿論のこと。ただ、今は、千葉家の、下総の旗頭を誰にしようかと」
「ふん、相模守。決めておるのだろう? 次郎殿では立ち行かぬと」
「は、御賢察恐れ入ります。左京」
一礼して、左京が話し始めた。
「では。東野州いえ徳性院様(東常縁の戒名を略した呼び方、戒名は徳性院殿釋素傳大居士)でありましたか、そのご次男の東常和が、三浦家中に食客されておいでです」
「次男か。長男は如何した」
「ご長男は、左近将監縁数様。徳性院様と共に総州の戦地にありましたが、かの大乱の折、斎藤妙椿が東家代々の郡上の地を押領したために徳性院様が帰洛されましたが、これに同道せず、関東に留まりました。あの領地返還の後、徳性院殿が亡くなって郡上に戻り、頼数と名を変え跡を継いだ由にございます。ただ、二年後には上洛し奉公衆として出仕しており、それ以来領地には帰っていないようです」
「で、次男はどんな男なのだ」
「一言で言うと、歌詠みです」
「藤の坊法印殿から古今伝授を受け、相模の国内をふらふらと物見遊山を続けているそうです」
「なんだ、それは?」
親父は顔を顰めると、白湯を口にした。
「三島の陣では、徳性院殿や副将の浜式部殿とは面識があるが、息子たちとは、記憶にないの」
「馬加討伐軍の鎌倉留守居役だったのでは?」
「で、あろうの」
「頭が良すぎないこと。打ち込める芸事があるなら、お飾りとしては最上でしょう」
「まるで、儂のことを言われておるようじゃ。左京控えよ」
「ははっ、畏まりまして」
ははは、と笑う親父である。
「父上、父上の芸事とは何のことをおっしゃっておいでなので?」
俺が問うと親父は、片眉を上げて横目で俺を見た。
「これから始めても遅くはあるまい?」
んん、と考えるようにして思い浮かんだことを口にする。
「では、楽器などは如何でしょう? 吹きもの、中でもひちりきは、廃れてしまっているとか。父上のお力で復興するのも一興かと」
「ひちりき、ほう、「扶桑略記」や「源氏物語」にも大篳篥は書かれてあったが、ふむ、京の公家なら探せば出てくるか」
「はい、母上にお願いいたしましょう」




