第六十話 火器の真実
伊豆大島は伊豆諸島最大で最北端の島である。伊豆半島から東に凡そ二十五キロの海上にあり、伊豆国に属している。伊豆大島から南方三百キロに渡って最南端の青ヶ島まで人が住む島が点在している。伊豆諸島の中でまともな耕作地があるのも、伊豆大島だけである。伊豆国だから、堀越御所で差配しているかと思えば、年貢は関東管領の命で神奈河に送られていたようである。横浜開府の折に堀越に送るように改めさせたが。
漂流船を見つけて、伊豆大島まで引いて来たのは、下田の関戸家の船であった。
変わったものが好きな俺の為にと張り切って曳航したそうである。だが、風や潮が折り合わず下田でなく大島になったらしい。
漂流船の乗組員は多くは死んでおり、生き残りもいたが、すぐに死んだらしい。犬も乗っていたらしく、腐乱した死体があったそうだ。
船員の死んだ様子。多くの遺体が、船の奥にあったことなどから、狂犬病の犬が暴れ、人を噛みまくって、噛まれてあるいはパニックになって、死んだのではないかという。
食料は、たっぷりとあったそうだ。運よく鼠の類が乗っていなかったのか、狂犬病で死に絶えたのか玄米はネズミの糞が混じった様子もないとのこと。その糧食はどうしたと訊くと、島民に分け与えたとのこと。死体の処理をさせた対価だそうだから仕方がない。
問題は積み荷である。積み荷は火槍と硝石であった。
火槍は、一メートル位の木の棒に四十センチ程の青銅の筒を取り付けたものだ。三本ずつ油紙で包まれ船倉に納められていた。全部で、七十二本あった。 硝石は、ほぼ白い目の粗い粉である。大きな箱の内側が油紙で貼ってあり、綿の袋に入れられ、さらに油紙で包まれていた。そんな箱が三つあった。
なぜ硝石と分かったかというと、発注書のようなものが見つかったからである。他にも、香木、絹織物、象牙などの手工芸品という、南方の文物が見受けられた。だが、その量は船の大きさに較べひどく少ないように思えた。察するに、火器を主力商品として運んでいる琉球の交易船ではないかと思えた。
記録にある限りでいれば、日ノ本で最初に火薬が使われたのは、ここ伊豆大島である。承安2年(1172年)のことであった。時の関白太政大臣九条兼実の日記に書かれている。大陸の人間と思しき者たちが火薬らしきものを使って畑を焼き払った旨の記述が読み取れる。三百年以上も前の話である。そのような兵器が大陸では三百年前にすでに実用化されていた。
そう、この十五世紀から十六世紀に移り変わろうという時代。火薬と火器が普及していないのは、この日本列島だけなのである。中国大陸は火薬の発明された地であり、周辺諸国への侵略、防衛へと頻繁に使用していた。明朝が火器を使用してモンゴル勢力を駆逐し、インドシナ半島を征服し、更には現地で開発された火器で撃退され撤退するということが行われてきた。朝鮮半島ですら、倭寇撃退に頻繁に火器を使用している。日ノ本にないのは明の海禁政策が功を奏したということだろう。
周辺と交易を繰り返している琉球もその例に漏れない。中山王朝が一帯を統一した現在、戦争に火器を使うことはないが、儀式儀礼には使っていた。弾を込めずに空砲で音だけを利用したのだ。船が琉球のものなら、この火槍はそういうものなのだろう。琉球国の使節が幕府で将軍に謁見の後退出する際に使用して人々を驚かせた記録というがある。
しかし、日の本に火器がなかったわけではない。応仁文明の乱のごく初期に東軍細川勝元の陣に飛砲・火槍を備えていたことを記述した僧侶の日記がある。使われた様子がないのは、火薬が無かったか、貴重であり過ぎたために使用をためらったかいずれかであろう。現在の京兆家にないのは確かだから、戦乱の中散逸してしまったと思われる。大枚をはたいて購入しただろうに勿体ないことだ。
そんな歴史があるから、情報通の武家、商家、僧は火器を知っている。その形、使用法、火薬を調合するための材料も知られている。実物がないだけだ。いや、だっただ。
「儀礼用なら、兵器としては使えないか・・・」
「若?」
河内丹波五郎という海の水軍にはあり得ないような名乗りの若者が、訝し気に俺を見た。
「火槍の弾はあったのかな?」
丹波五郎は、俺の初めての上洛の折下田水軍から選ばれて同行し、六角征伐でも活躍した、気の置けない武士の一人である。最近は伊豆大島の代官の下で、下田大島の連絡を仕事にしている。帆船の風見頭の一人として、下田家中でも認められつつあるという。
「ああ、鉛の弾が長持三つに分けて入っていたぞ。百貫はあるんじゃないのかと思うぞ」
「ふむ。じゃ、試してみようか?」
「試す? 何を?」
「あの、白い粉があったろう。あれが多分硝石だ。硫黄と炭と混ぜ合わせれば火薬ができる」
「ほんとか! 硫黄も炭も明日には用意ができるぞ」
興味深そうに笑う、五郎。
「丹波殿、御所様にいささか言葉使いが過ぎるであろう」
さっきから、難しい顔をしていた左京が丹波五郎にくてかかった。
「ああ、いいんだ左京。鱶五郎兄貴は幼馴染だしな」
「いくら幼馴染でも、河内殿はこれから将になろうという方」
「だから、いいんだよ。城や御所の中で気をつけてくれればな」
「むう。 御所様は配下に甘すぎますぞ」
俺は左京に向き直った。小声で話す。
「俺が一番甘いのは、左京にだと思うがな」
「そ、それは」
左京が絶句するのを、横目に丹波五郎が続ける。
「明日の昼までには、硫黄も炭も用意できるから、続きは明日でいいと思うぞ」
「そうだな。硫黄も炭も粉にしておいてくれ」
「粉か、薬研持ってる奴いたかな。探さなきゃならないぞ」
火薬を調合するのに、さらに三日が費やされた。
翌日から続けて雨が降ったためであるが、火薬という危険なものを扱うためには好都合だったかもしれない。
薄曇りの朝、的に小舟に藁束を高く積んで、歩測で十間ほどの間合いに浮かべ、石組みを作って弾薬を詰めた火槍を固定し、着火した。とはいっても、着火に非常に手間がかかった。火孔と呼ばれる穴に火を差し込んで着火するのだが、なかなかうまくいかなかった。炭火で熱した針金(丁度良いのがなかったので現地の野鍛冶に作らせた)を差し込んで着火するまで数時間かかってしまった。
轟音と共に石組みが崩れ、煙が立ち込めた。
誰しも茫然としていたのだと思う。あまりの音だった。
「弾はどうした? どこまで届いている?」
はっと我に返って、誰にともなく訊ねた。
丹波五郎が頭を振りながら、的となった小舟にじゃぶじゃぶと近づいて、藁束を見ていたが、大きく両手で×をつくった。
「当たっていないようですぞ」
「仕方ない。もう一度やろうか」
二度目以降は着火に手間取ることもなく、撃つたび石組みが崩れるのは閉口したが、実験は概ね順調に進んだ。誰も轟音に慣れることはなかったが。
藁束への着弾を確認して、次第に沖へと小舟を移していった。どうやら、射程は二十間ほども無いようだった。
火薬の威力が思ったほどではないのだ。あるいは、儀礼儀式用に音だけが大きくなる火薬なのだろうか。硝石をカリウム処理してみる他ないか。
「鱶五郎兄い、木灰を用意してくれないか」
「木灰っすか。いか程必要で?」
「大鍋ひとつ位か。灰汁になったものがあるんならそのほうが良い」
「ここでも、樟脳作り始めたんで、楠の木屑の灰があるはずぞ」
「ああ、それで良い」
翌日は、硝石を灰汁で煮る詰める作業を始めた。硝石を溶かすと、吸熱するため溶液の温度が下がり、単なる湯沸しよりも多くの薪が必要になる。ほぼ丸一日、硝石を煮詰めて、乾燥させてから、再度火薬の調合である。
硝石は自然に産出する硝石にしろ人工硝石にしろ、そのまま粉にして火薬として調合することはない。硝酸塩を全て硝酸カリウムへと置換するため、カリウム源の木灰と混ぜ合わせて熱を加える必要がある。英国は18世紀にインドを手に入れるまで深刻な火薬不足に陥っていた。必要な量の火薬をつくるには、国中の森林を伐採してもまだ足りないと言われていたのだ。日本でも幕末には木灰に限らず様々な灰に「領外持ち出し規制」をかけた藩もあった。
木灰がなければ硝石があっても火薬が作れないということである。だから、発達した火器を有する明朝の軍に騎馬民族のモンゴルは、火器を持っていても、十分な硝石を、木灰を持っていなかったため中国から駆逐されてしまった。森林と硝石を共に有する地域では、騎馬の時代は終わりを遂げていたのだ。俺は考える。そうだ、1510年頃にはポルトガル人が大砲をインドで作り始めるはずだ。いわゆる仏郎機砲だ。あれを買いに行けないか? あと二十年か、鬼どころか、その辺の子供にも笑われそうだ。
俺は自分の思い付きを嗤った。大量殺人兵器を積極的に取り入れようというのは如何なものか。それに、今の目標は二度の地震を乗り切ること。死亡フラグをやり過ごすことだ。それに、戦争で使うといって、どこで使うというのだ。俺は先走る夢想を止めようとした。だが、ついつい想像してしまう。まだ、コロンブスは到着していない。ならば?
さらに三日後、改良した火薬での火槍の射程は五十間ほどになることが確認できた。しかし、新たな問題も見つかった。火薬の威力に耐えられなかったのか、砲身に罅が入ったものが散見されたのである。これでは、実戦に使えないか。思わず、左京と顔を見合わせた。




