第五十九話 鎌倉の公方倒れる
薄暗い中、目が覚めると、体が動かなかった。
両腕に何かが乗っているようで痺れている。
首を左に向けると、左腕は松が枕にしている。右を見ると、お勝だ。
昨夜何があったか、思い出そうとしていると、ふわっと耳元で声を掛けられた。
「お早うございます、旦那様」
松が体を起こしてくれたので、左腕を抜いて目を擦った。
御所の中はまだ静かだ。少しずつ明るくなっているようだから、直に家人が動き出すだろう。
「昨夜は?」
お勝を見ながら松に、問う。
「長旅でお疲れでしたのでしょう。夕餉の後、酒を過ごされたのか、すぐにお休みなると」
「そうだったか?」
そうだったような気がする。
「勝子が我が儘を言ったのですよ、旦那様と一緒に寝たいと」
ああ、そうだったか。
「旦那様が良いというので、こうして・・・」
お勝に目を向けると、丁度目が覚めたらしく、目が合った。
「お勝、頭を退けろ。体が起こせぬ」
「は、はいっ」
お勝が跳ね起きた。
「も、申し訳ございませぬ」
そのまま土下座した。
俺も半身を起こすと手を振った。
「やめろ、やめろ。些細なことで奥に土下座などをされて喜ぶような男に見えるのか?」
「いえ、そんなことは」
「お勝。俺がお前を抱かないのは、子ができた時、母としての体が成長していないと出産のとき危ういからだ。それは、話しただろう」
「はい。でも・・・」
体を起こして、しかし正座は崩さない、お勝。膝の上で小さな拳を握り締めている。
「旦那様。勝子ちゃんはね、旦那様の無事を祈って、毎日水垢離をしていたんだよ」
「なんだと! なんて無茶をするんだ。冬の水がどんなに冷たいか。それに、お勝、お前、禅宗じゃないだろう。お松も、何でやめさせないんだ」
「止めたよ。でもやめないんだ。隙を見つけては、水場に行くんだよ。私も付き合ってやろうとしたけど、水が冷たいので一回やって懲りた」
「ああ、もう」
俺は、お勝に体を寄せると、抱きすくめた。お勝はなすがままだ。
「すまないな、心配かけて。お前が無理する必要はないんだよ。俺は、大丈夫だ。何もかもを大丈夫にするために、飛び回っているんだ」
お勝の頭をなでると、気持ちよさそうに目を閉じた。
「分かっています。分かっているけれど、何かしていないと不安なんです」
「だけど、冬に水垢離などと、無茶が過ぎる」
「だけれど、閨に呼ばれるのはお松姉さまばかり。父や兄も手紙のたびに子はまだかとの催促で、姉さまに、子ができたというのにわたくしは・・・」
「なに!?」
「あ、あれ。まだ、お話しになっていない、・・・のですか?」
「えへへ・・・」
「お松、子供できたのか?」
「いや、まだ分からないんだよ。旦那様が出発してから、月のモノが来ないんで、そっかなーって」
「医者は? 医者には見せたのか?」
「それが、まだ・・・。いやね、重臣達に話すと大騒ぎになるだろうし、まだ勝子ちゃんにしか、話してなぃ・・・」
俺は立ち上がって、廊下に出ると、そこに左京が現れた。
「おお、丁度良いところに」
話しかけようとすると、左京が被せるように声を出す。
「御所様! 鎌倉から知らせが!」
「何があった!?」
「公方様が、鎌倉公方様がお倒れになったと」
「その手紙か、寄越せ」
左京から渡された手紙を読もうとして、暗いので、部屋に戻った。庭に面した部屋はいつの間にか十分に明るい。お松たちが板戸を開け、中庭からの明かりがとれる場所で手紙を読む。
「宇佐美の爺からだ。朝議の後倒れたそうだ。医者が虫下しを飲ませて、相当な量の虫が出たが、その後、一人では立てないらしい。医者の見立てでは、脚気だそうだ」
「脚気ですか」
脚気は、この頃は死病に近い。左京とお勝の顔はサッと青ざめた。
「そうだな、黄三郎を呼べ。あと、江川に使いをやる」
「は。 黄三郎は分かりますが、江川とは酒屋ですか。病人に酒は・・・」
左京が遠慮がちに訊ねてくる。
「江川には、酒粕を一斗ほど届けてもらうのだ。火入れをしていないものを頼むように」
「あとは・・・」
「蕎麦ね」
俺が考えを整理しようとすると、松が言う。
「うん。そうだ、あの親父殿のことだ、蕎麦粥は食べないだろう、蕎麦切りにしよう。お松」
「できるよ。こねるところさえ手伝ってもらえば」
「そうか。鰹節と醤油を手に入れたのは都合がよかったな」
「あるの、醤油。それに鰹節って」
「湯浅の溜まり醤油だ。伊勢の鰹節は枯れ方が足りないとは思うが」
「あら、素敵」
「伊豆丸に出航の準備を急がせよ」
「はっ」
左京が命を伝るべく離れると、お勝が俺の袖をつまんでいることに気が付いた。
「どうした?」
「私も連れて行ってください」
今にも泣き出しそうな必死な面持ちである。
「分かった」
お勝の髪を撫でていると、松が小さく咳払いをした。
「旦那様、それは大変結構なのですが、まずは着替えませんと」
松の声で、三人ともまだ襦袢のままであったことに気が付いたのであった。
予定外だが、鎌倉へ向かわねばならない。留守は、播磨守に任せよう。
親父は、風通しの良い南向きの部屋で伏せっていた。
「父上、参りました」
「・・・おお、茶々丸ではないか」
「・・・、まずは、これを」
小さな盆にのせた大き目の椀を示した。
むう、と親父は顔をしかめた。
「薬か?」
「まあ、そうですね。薬と言えなくもないですね」
親父が体を起こすのを、傍仕えの女中が支える。
椀に口をつけると、顔をしかめながらそれでも、ゆっくりと飲み干した。
女中に口元を拭われている親父に、何を飲ませたのか告げる。
「酒粕を白湯で溶いたものです。しばらくは、朝夕にこれを飲んでいただきます。ただし、酒の方は病を悪くするので厳禁です」
「そうか、それで酒の香りがしたのか」
「湯で溶いたので、酒精は飛んでいます。次は、これをどうぞ」
膳に差し出した皿には、菜びたしと猪肉の味噌焼きだ。親父は匂いがどうのと文句を言いながらも平らげた。
香の物を欲しがったが、 漬物は寄生虫卵の摂取につながるので禁止である。
「さて、次は」
俺は、パンパンと手を叩く。お松とお勝が膳を捧げ持つように入室して来た。
「なんじゃこれは」
「蕎麦切りです」
膳に置かれた、大き目の椀を睨む、親父。
「父上には、初めてのものかと存じます故、食い方の手本をみせるため私の分も用意してございます」
俺の前に置かれた膳にも掛け蕎麦が載っている。
俺が蕎麦をすすって見せると、親父は目を丸くした。




