第四十七話 三好と波多野
短いです。
腰が痛くて辛いです。
改めて、細川政元に一席設けてもらう。
「真宗への計らいにはお礼いたします」
「何、揆一郎様には、恩もある。我が子の兄上でもある。叔父甥なれば、大抵のことは通るものよ」
「五山の僧には恨まれるかもしれませんが」
「そんなことより、裏を教えていただけぬか、揆一郎様」
「難波津に安心して船を預ける場所が欲しかっただけのこと。それに、堺の湊は些か目に余るとは思いませぬか?」
「しかし、淀の川には渡辺党が巣食っておる」
「そこはそれ、摂津国守護が号令すれば済むことかと」
「摂津守護・・・儂ではないか」
「住吉大社も近くにありますし、神仏習合すればよいのでは?」
「住吉は、水神、神功皇后 の新羅征伐以来、海運、海戦の神、水運、商業の神、現世利益を求める商家の信仰を集めておりますからな。石山の寺が、住吉大社にも本願寺も属するようになれば、淀川の利権は転がり込んでくるでしょう。あとは、塩津街道と琵琶湖の水運」
「琵琶湖は、京極飛騨守、塩津街道は敦賀の朝倉か」
「朝倉家は、越前守護の補償を求めてくるでしょう。敦賀湊の運上金を対価にすれば莫大な膳が転がり込んでくることになります」
「なんとも、旨そうな話だが」
「それを阻止するために、武衛殿が軍を率いてきます」
「その後ろに美濃の斎藤がいる」
「いかさま」
「親子鳩は、京洛の手前、叡山にいるようだ」
「後先考えぬ、莫迦者らしいですね」
「たとえ、将軍になったとしても、強訴でもされれば断ることなど不可能になる」
「その強訴ですが、東山なら門徒を動員して防ぐことも可能でしょう」
「うむ、山科からは一刻もあれば駆けつけることもできようからの」
「神輿については、日枝神社を園城寺に任せるのはどうでしょう」
「うむ、三井寺(園城寺)とは天台の本山位を巡って争っておるからな」
「先年の強訴を失敗した折に、山中に神輿を打ち捨てて山に帰ったことを追求すればよいでしょう」
「うむ、普広院様が取り上げた寺領をもいつの間にか押領して居る」
「普広院様の布告はまだ生きている旨布告をしましょう。六郎殿には働いてもらいましょう」
「その六郎殿だが勝てるだろうかの」
「甲賀衆の使い方次第では」
「あの、者どもな。どう使う」
「兵糧を焼きます」
「近江の村々に徴発を掛けるのではないか」
「徴発隊を狙って夜討ち、砂入りの米俵を渡したり、いくらでもやりようはあるでしょう」
「・・・美濃の兵はそれで良いとして、敦賀に向かう尾張勢はどうする」
「堅田の衆に兵を運ばせるか、湖西を行軍して塩津まで」
「堅田衆には、十分な銭を掴ませる必要があるな」
「田部山城を守る浅井備前守とは、どのような御仁でしょうか。城を守り切れますか」
「三雲が言うにはそこそこの戦上手だという。なかなかの胆力の持ち主だと」
「それでも、千に満たない城兵で、斯波の本軍を相手にするのは・・・」
「後詰を急がねばならぬ」
「関東総代相模守殿でござるか」
細川屋敷で甲冑姿のやや小柄な侍が声をかけてきた。
「拙者、三好讃岐守の家臣にて、阿波の三好筑前守と申します」
茫洋とした感情の掴めない細面というより長い顔の男だった。細い目が、俺を測る様に見つめておる。
「この度、公方様の代将を務めることに相成った。足利、相模守である。そなたが、京洛を騒がせる、阿波の佞臣か」
「これはしたり、そのような噂が蔓延っておるのですか。臣は全く知りませなんだ」
細い目を精いっぱい見開いて驚いた風だ。こいつが三好長慶の祖父にあたる。阿波を支配する細川分家の重臣だが、応仁文明の乱で上洛して以来京洛に居座っている。
俺は薄く笑った。怒った様子もないのは、良い印象だ。
「兵の口糊のための謀略であろう。右京兆殿に縋れば良いものを、自分の才覚で進めるから色々と揉める。細川で最高の用兵家評価されておるといいうのに」
「いかさま、それでは、とうに阿波に返されております」
「畿内で功なりとげたいか」
「もののふならば当然のことでございましょう」
「そうだろうな。早々に大津まで向かい、そこから船で塩津に入る予定だ」
「それがよろしいでしょう」
「兵の数は?」
「阿波衆と、管領代波多野様の丹波衆合わせて八千程」
「うーん。阿波衆は弓はどれほどいる」
「多くありません。千が良いところでしょう」
「丹波衆は?」
「阿波衆より多く、騎馬とも千五百はおりましょう。して、何故そのようなことを」
「新しい戦をしたい」
波多野玄蕃頭秀長は、常に月代を剃っているような、折り目正しい長身の男であった。
管領代として、細川家が洛中を仕切らせたのだから、京洛では野蛮な風体では受け入れられないということなのだろう。この時期多くの文書が管領代波多野の名で発給されている。それは政元からの信頼の現れであるとともに、波多野秀長の事務能力の高さを示すものだろう。
「某は、元は出雲では京極家の被官にて、かつての御恩を些かなりとも返すため参陣いたします」
元々は出雲の出であったらしい。細川勝元の下で応仁文明の乱で功を上げたということだから、四十にはなっていると思うが、随分と若く見える。領地の多紀郡は現在では兵庫県だから、京との往復は骨が折れるものであったには違いないが、だからこそ細川領国の丹波で勢力を拡大できたとも思われる。
「・・・というわけだが、いかがだろうか?」
「面白い。何故、儂が考えつかなかったのか」
「組頭の選定が鍵でしょう。それさえ上手くいけば、」
「移動中は、味方の顔を覚えさせるという名目で良いですか」
琵琶湖を渡って、山本山の南に上陸したのは三月になっていた。近隣の山本山城は、京極軍に参陣し、南近江城主の阿閉氏が兵を連れ出て行っているため、ほぼ空であった。田部山城に続く街道の周辺には二十以上の小城が点在しており、そのどれにもまとまった人数は入っていないようであった。
多方面に物見を放つと、山本山城を接収し、陣立ての調整を行った。塩津浜、田部山城には味方(のはずの)高島七頭や浅井備前がいるはずなので連絡を取ることを第一とした。
北国脇往還を舞台にした戦闘が迫っていた。




