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第三十四話 代替湊横浜津

歴史との本格的な乖離が始まります。

 この頃の横浜は筆記体で描くEの大文字のような形状をしている入江である。上の横線が神奈河、下の横線が元町、石川町で真ん中の横線が富部(戸部)山にあたる。上の湾に注ぐ川を帷子川、下の湾に注ぐ川は大岡川である。帷子川が注ぐのは袖ケ浦。大岡川が注ぐのは釣鐘型の入り海であった。


 Eの字の下の線の右端から上方向に、横浜の名の元になった砂洲が北に伸びていて、一端が破れたような釣鐘型のこの入江は水深が浅く非常に波が穏やかで、蒔田内海まいたうつみと呼ばれていた。季節によっては流路長の割に水量の多い大岡川の川水により汽水湖と化しているこの湾は、自然が作った材木の集積場に最適な場所として、古くから利用されていた。材木問屋が大岡川沿いには幾つも軒を並べている。当然、材木は多摩川や荒川、利根川、房総各地からも集積され、本来群生していた葦を押しのけて大岡川への航路を除く水面は丸太がぎっしりと浮いているのだった。百段階段で有名になった浅間神社が入海の南端にあった。


 材木が集まっているのは偶然ではない。吉良氏にひそかに声をかけ集めさせたのである。名目は神奈河湊の復興であった。その序でに、横浜に『臨時』の施設を作ってしまおうというものである。なにしろ、神奈河湊を見下ろす位置にある権現山城(横浜市神奈川区幸ヶ谷公園周辺)に扇谷側の武将上田正忠が居座っており、すぐ近くの青木砦(横浜市神奈川区高島台周辺)に関東管領側の武将矢野右馬助が虎視眈々と権現山城を窺っているのだから、工事などできるものではない。この地域での戦乱が収まったとして、神奈河湊が昔日の繁栄を取り戻すかどうかはまた別の話だ。


 この時期蒔田一帯を支配していたのが、吉良氏であった。足利の分家でもあり足利氏の飛領地を差配する家柄で、一時は蝦夷征伐で有名な多賀城に拠って、奥州管領を世襲したほどの威勢がある時代もあったが、内訌等もあり奥州ではほとんど滅亡寸前まで衰退していた時、足利幕府鎌倉府に呼び出され仕えるようになり勢力を回復していた。もっとも、本領の武蔵国世田谷は、いつの間にか扇谷家一党に押領され、蒔田御所に逼塞しているのが現状だった。


 俺は、耳の奥で谺するほど喧しい蝉の合唱を聞きながら、舞田の内海を望む吉良家の座敷で、横浜湊建築の談判をしていた。神奈河が焼けたのは勿怪(もっけ)の幸い。湊を見下ろす権現山城を扇谷方が占領している以上、神奈河湊への支援は後回し。横浜の開発を先に進めよう。ということである。武蔵国の海岸沿いで、最も開けていない、浅間山以南の本牧一帯を開発し、根岸辺りまでを惣構えとする計画だった。千代崎川一帯の穀倉を城内部の蔵とするのだ。


 砂州の根元のあたり、山の際に蔵を建てる。足利鎌倉府、関東管領、三浦家、鶴岡八幡などの出資で蔵町とする。運営は、鎌倉府懇意の伊勢屋や吉良氏懇意の三河屋等の商家が行い、関東管領家、三浦家は兵を駐屯させる。湊の一部に兵舎を造り、山手の山と本牧の崖上に砦を築く。山手から平楽、根岸、本牧一帯は40~60メートル級の台地であり、中心部の千代崎川一帯が低地であるほかは、急峻な崖に囲まれた、築城に最適なところである。


 史上、横浜の山手地区に一度も城が築かれていないのは、既存の街道から離れているというただ一事が原因であろう。域内に豊かな農耕地帯を有し、三方を急峻な崖で囲まれ、山手の山はどこを掘っても水量水質共に極上の井戸ができる。惜しむらくは、広すぎることであろうか。


 ところで、この域内には、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したり、鎌倉幕府の皇族将軍惟康親王が社領を寄進したことなどで著名な神社がある。仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を祀ってることから本牧十二天社と呼ばれ、本牧岬にあることから航海安全の神とも崇められている。俺はここを灯台にしたいと思っている。夜間火を灯し続ける油代は湊の上りから出そうという心算だ。


「如何でござろう、左衛門佐殿。ご同心願えないか」

 吉良成高きらしげたかは俺には答えず、立ち上がって半開きだった板戸を開け放った。眼下には蒔田内海がさらには本牧山が一望できる。

「相模守殿。城を造るとのことだが、いずこになるのであろうか?」

俺は立って成高殿の隣に立った。関東吉良氏中興の祖ともいうべき吉良家きっての英傑は傍に立つと見上げるほどである。まだ俺の背が足りないとも言うべきか。


「あの、東の端を考えています。湊の真上になりますし、傍に良い水源を見つけました。湊に入る舟に売れば、横浜の水は腐らないと評判になることでしょう。水売りの商売を始めさせるつもりです。水屋敷となずけました。あちらが居城になれば、鎌倉街道から寶生寺の際を通って、道を造る必要があります。橋もかける必要があるでしょう」

 

 築城、道普請、架橋、いずれも人足の動員、材木の提供と、配下に材木商を抱え、地区の顔でもある吉良氏にとっては垂涎の餌である。それが、奉公という美名のもとに与えられると来たら、飛びつかないわけがなかった。

「奥方の御実家についても御懸念は無用。定正殿も理を解けばわからぬ御仁ではないでしょう」

 成高の夫人は扇谷家の娘であった。扇谷家の利に反する行動をとることは、扇谷定正の勢いが強い時期にはそれなりの勇気が必要だ。


「かの御仁の言うがままに世田谷をあきらめなさるか?」

 武家と名の付くものが領地をあきらめる? 嘆いて繰り言を繰り返すだけなら、公家と大して変わらない。寺社であっても武力は持っている。このあたりの寺社はさして大きい武力を持っているところはないが。現にこの舞田の隣の太田郷には鎌倉寶積寺の寺領があり、水運を生業とする端山という商人が各々それなりの兵力を有している。


 もし、成高が扇谷の言うがまま世田谷の領地をあきらめるのであれば、付近の勢力は吉良の意向を無視することになるだろう。定正が吉良氏の領地を押領したのは、吉良氏が兵を出し渋ったのが原因だろう。なにしろ、成高は太田道灌と懇意だった。成高が道灌の依頼で江戸城に入り籠城した際の戦いぶりについて、絶賛した書状が残っている。


 懇意だった太田道灌が扇谷定正に謀殺され、その嫡男は関東管領側に走った。扇谷定正の義妹を嫁にしている成高にとっては板挟みで苦しんだことだろう。夫人も嫡男を産んでおり離縁などできない。兵を出さないが、武蔵の中央部からは退去する。だが、世田谷領(多摩川北岸一帯)は扇谷家に押領されてしまっている。


「吉良は武門にござる」

 成高は、俺を振り返った。

「領地については、いずれは返してもらう。それには、銭が必要じゃ。鎌倉の公方様への奉公で銭が稼げるならば、否やはござらぬ」

 この瞬間。神奈河湊の復興は見送られ、横浜湊の建設が決定したのである。

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