参
目を覚ます。
どうやら、あのまま眠りに落ちてしまっていたらしい。
見慣れた暗闇が俺を迎える。
現実離れした最悪の状況が夢ではなかったことに軽く絶望を覚えながら、漫然と身を起こした。
寝起きだが、幸いなことに尿意等はない。
正直考えたくも無いが、いずれ排泄場所を決めるなどしなければならないだろう。
閉じ込められるということは、そういうことだ。
窒息死や餓死よりも余程早く直面する問題だ。
むしろ、ここまで無事であったことが奇跡に等しい。
軽く目頭を揉む。
やる気がどうとか、怖いからどうとか、言っている場合じゃあない。
捜索を開始しよう。
時間のかかりそうな人形は後回しにして、赤い壁に向かった。
初回はほとんど無視を決め込んでしまったから、今度はきちんと調べ上げることにしよう。
上から下、端から端まで見て触って叩く。
途中で人形が転がっているのを発見して、それが記憶になかったが為にかなりビクついてしまったのだが、思い切って拾ってみれば、正体は俺が放ったブリキの少年だった。
ホッと安堵の息を吐いて、絵画側の角に立てかけてやる。
……どうか祟ってくれるなよ。
若干の凹みを発見して、思わずそう呟いていた。
睡眠を取ったことで少しは気分も向上したはずなのに、未だにそんな妄想を引きずっているなど、自分でも呆れる馬鹿さ加減だ。
壁の調査が終わるまでに、そう時間はかからなかった。
塞がれた窓やダクト、隠し扉などを期待したが、どれも見つからず仕舞いだ。
言ってしまえば、完全にただの壁だったのである。
唯一気になるのは、塗られた赤の中にも濃淡があるようで、引きで全体を見ればもしかしたら何か絵でも描かれているのかもしれないということぐらいだった。
意味があるのか、無いのか。
ヒントとなり得るのか、そうじゃないのか。
全体像を想像するに、脳だとか腸だとか、そんな臓器系統の絵であるように思えた。
合っているのかどうかは分からない。
例え合っていたとしても、そんな絵からはどんな意図も読み解くことはできない。
俺は赤の壁から視線を外してため息を吐き、同時に火を消した。
まだそんなに時間は経っていないし、本体が熱くなっているということもなかったが、すぐに人形に取り掛かるには少しばかり覚悟が足りなかったのだ。
目を閉じて深呼吸。
また深呼吸。
さらに深呼吸。
十回ほど続けて、ようやく腹が決まった。
まずは、服を着ている人形のそれを脱がそう。
鍵やヒントが隠されているとすれば一番確率の高い場所だろうし、付属の装飾品が何かに役立つ可能性もある。
調べ終わった後の服は、排泄関係でも良い仕事をしてくれるだろう。
まぁ、その他にも……女の死体からナイフを引き抜く時、とか。
流れの止まった血液は重力に従って背中側に移動しているだろうから、そう飛び散ることもないはずだが、それとは別に刃自体だって汚れているだろうし、とにかく拭くものはあった方が良い。
ナイフさえ手に入れば、素手ではどうにもならない類の人形を切り刻んで中身を確認することもできる。
まだそんな末期の精神状態までは達していないが、いよいよとなれば自殺することだってできる。
もちろん死体になんか極力触りたくも近付きたくもないから、最終手段だと考えているが。
地獄のような暗闇の中、四つん這いで右の壁へと近付き、最初に手に触れた人形を掴んで背を向ける。
この形、服装は、日本人形か。
スタートからレベルが高すぎるだろうと思ったが、決死の覚悟で明りをつけて、悲鳴を飲み込みながら無機質な瞳と目を合わせた。
あぁ、想像以上に怖い。
それに、心なしか、背後からも視線を感じるような気がする。
例え効率が悪くとも、もっと離れた場所で作業すべきだったろうか。
いや、それではオイルの消費が余分に嵩んでしまう。
視覚に頼らず鍵を探すなど、砂漠でたった一粒の黄金を見つけるのと同じくらい難しいことだ。
躊躇してはいけない。
霊も呪いも付喪神も、みんな非科学的で、みんな妄想の産物で、実際に存在しているわけが無いんだ。
動くな、動くなと何度も何度も心の中で懇願しながら、着物の帯に手を伸ばした。
頼む、今度こそ、何か、出てくれっ。
真っ暗な密室で、目を血走らせ息を荒げながら次々人形の服を脱がしていく男。
それが今の俺だ。
笑いながら女の死体を漁っていた時と比べて、どちらの方がより怪しいのだろうと益の無いことを考えてみる。
絵画と違い、どれだけ続けても人形と対峙する恐怖に慣れる事はなかった。
いや。それぞれ不気味さの趣が違うのだから、慣れようはずもない。
脱がし終わったものと、最初から服を着ていないものの向きを壁側へと変えていく。
回したと思い込んでいた人形がこちら側を向いていた時は、それこそ失禁でもするんじゃないかというレベルで魂消て腰を抜かし大仰に震えながら泣き喘いだものだ。
むしろ、失神しなかったのが不思議なくらいだった。
そりゃあ俺だって人間なわけで、作業が続けば一度や二度は失敗することもあるだろう。
だが、この置き間違いはあまりに心臓に悪すぎた。
気を落ち着けるため、しばらく作業を中断する羽目になったのは言うまでもない。
そもそも、傾ければそれに合わせて目が閉じるタイプの人形だとか、目立たない場所にボタンがついていて押せば声が出る人形だとかが混じっていて、ただでさえ恐慌状態に近かったせいもある。
しかし、精神力を多大に消耗させられたにも拘らず、やはり成果が比例してくれることはなかった。
ただ人形の服が手に入ったというだけ。
彼らと目が合わなくなったというのは大きいが、そんなことは単なる気休めで、脱出には何の関係もない。
この時ばかりは、さしもの俺も部屋中暴れ狂ってやりたくなった。
あんなメモ一枚で、ヒントも何もなくて、なにが脱出ゲームだ馬鹿野郎。
ちなみに、人形は見た目に反してどれも重く、おそらく壊してしまった陶器の人形と同様に、件の血を模した液体でも詰まっているのだろうと予想された。
プラスチック製やビニル製の人形の中には隙間から液が漏れ出ているものもあったし、布製の人形に到っては無残にも肌が真っ赤に染みてしまっているものもあったから、九割九分九厘、正解とみて間違いないだろう。
残りの一厘については、その中に鍵が隠されている可能性に対するものだ。
扉も絵画も赤の壁もすでに調べ終わっている今、気は進まないが、人形たちをひとつひとつ壊していくしか俺にはもう選択肢は残されていない。
だが、それが他にはない唯一無二の事実だとしても、本当に、本当に、気が進まない。
もしまた何もなかったら、残るのは見るに堪えない惨状と絶望だけだ。
ともすれば、ライターのオイルだって切れてしまうかもしれない。
液に有害な成分が含まれていて、触っているうちに病気になることだってあるかもしれない。
何より、これ以上どこをどう調べれば良いのかも分からなければ、鍵の存在自体を疑わなければならなくなるかもしれない。
そうなれば、今度こそ自分は発狂してしまうかもしれない。
外部刺激の発生し得ないこの密室で、元より脆弱な俺の精神がそう長く保つとは思えない。
かもしれない、かもしれない、全ては可能性の話にすぎない。
だが、ここで賭けに出るには分が悪すぎると思った。
他に何か、希望はないのだろうか。
他に、何か。
っあぁ。そうだ、写真があった。天井の写真が。
手が届かないから最初に除外してしまっていたが、鍵はともかくヒントくらいはあってもおかしくないだろう。
さっそく足元に気をつけながら天井を見回ってみたが、別段特徴のある写真は見つからなかった。
あと出来るのは、剥がしてみるくらいか。
問題はどうやってアレを剥がすのか、ということになるが。
人形は、無理だろうな。
そもそも、このシチュエーションでどうやって使えば良いのか見当もつかない。
絵画を積み重ねて踏み台に、いや、駄目だ。
ほとんどボロボロで踏んだ瞬間壊れることが目に見えている。
だったら、大きめの額を持って、その角を使い削るような感じで取ってみるのはどうだろう。
この発想は悪くないんじゃないか。
さっそく実行してみたが、思った以上にしっかりと貼り付けられているらしく、破れカスがパラパラと落ちてくるだけだった。
これじゃあ、ヒントかもしれない写真を駄目にしてしまうだけだ。
しかも、見た目にも不気味になるという追加効果付きで、良いことが一つもない。
絵画を使うことを諦めて、再び思考に入る。
死体は、初めから選択肢には入れてない。
ということは、もう使える物がない。
八方ふさがりなのか。
ジャンプという古典的手段に挑戦してみても良いが、届いたところで何度もは出来ない。
奇跡的にヒントの写っている、もしくは書かれている写真を手にすることが出来るものなのか。
ただ無駄に体力を消費して終わりという、苦い結果になるんじゃないか。
いや、試すだけ試してみよう。
何もせずに諦めるよりは、一度でもやってみた方が良い。
この部屋を用意した人間は絶対にまともではないのだから、常識に囚われていては見つかるものも見つからない、かもしれない。
人形破壊に着手するのを出来るだけ遅らせたいという気持ちもある。
それから十回ほど挑戦して、一回だけ成功した。
額の時とはまた違う形の破れカスが増えたが、そこはもう気にしないことにする。
入手した写真は、取った拍子に裏側が薄皮一枚分剥げてしまっていた。
とりあえず、筆圧による凹凸だとか、マジックの滲みだとか、何かが書かれていたような跡はない。
剥いだ後の天井にも、変わったものは見えない。
表側は何の変哲も無い女の写真だ。
服装から言って、春に撮られたものだろう。
風で髪が煽られていて、それを面倒臭そうな顔で右腕を使って抑えている。
背景の建物にも見覚えは無い。
やはり無駄だったかと思いながらも、落胆は大きかった。
あとは薄気味悪い人形たちをズタボロにして、偽の血に塗れるか。
もしくは開き直って、今度こそ隅々まで女の死体を調べるか。
どちらも御免だと思うが、さすがに自らの死とは比ぶべくも……な……っ。
ぺち、と音がした。
息が止まる。
俺じゃない、俺は動いていない。
だが、じゃあ、なぜ、音がする。
俺以外に、この部屋に音を発するようなものは何もなかったはずだ。
しかも、そんな、まるで人が、人が手かどこかで地面を叩くような、そんな音を出せる存在は、何も。
ここにあるのは、扉と、赤い壁と、絵画と、写真と、人形と、それから……。
に ん げ ん の し た い。
あ、あぁ、あああぁ、痛い。
心臓が痛い。このまま胸を突き破って、てんでにばらばら飛び散ってしまいそうだ。
脳が痛い。このまま頭蓋を突き破って、てんでにばらばら飛び散ってしまいそうだ。
喉が痛い。目玉が痛い。耳が痛い。背が腹が胃が手が足が痛い痛い痛い痛い痛い。
こわい。こわくて、こわくて、たまらない。
なのに、なのに俺の身体は無視して、心が嫌だと言っているのに無視して、勝手に目を、首を、足を、手を動かして、勝手に、勝手に死体の、方向を、見ようと、動いて、そして、ついに、ついに決定的な、それを、俺は……。
ゆっくり、ゆっくりと、視界が移動する。
果たしてそこには、女の死体が横たわっていた。
明らかに、俺の記憶とは違う場所に腕を置いて、女の死体が横たわっていた。
叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
狂うことが出来なかったせいで、狂ったように叫んだ。
もう嫌だと叫んだ。出してくれと叫んだ。止めてくれと叫んだ。言葉にならない何かを叫んだ。
これまで溜め込んでいた恐怖を纏めて吐き出すように、叫んで叫んで叫び続けた。
だが、何も変わらなかった。
俺は意識を手放した。




