弐
体感なので本当は違うかもしれないが、死体相手に喚いていたあの時よりも更に長い時間が経過した。
一秒単位で少しずつ少しずつ追い詰められていく精神が、とうとう限界に近付こうとしている。
そこまで来ると俺ももうヤケクソに近い感情を抱いて、ライターを手にふらりと立ち上がった。
死体を、絵画を、人形を、何もかもを調べ尽くしてやろうと思った。
まずは、やはり女の死体だ。
本物かどうかの確認をしなければならないし、俺が持っていたように服のどこかに何らかの道具を所持している可能性もある。
例えば、それが扉の鍵であるなら最高だろう。
ヤケクソになったからと恐怖心が無くなったわけではないので、何度も唾を飲み込みながらへっぴり腰で進んでいく。
と、その途中で人形が転がっているのを発見した。
無視したい気持ちを抑えて拾い上げてみれば、なんとも古臭いブリキ製の人形であることが分かる。
手のひら二つ分くらいの大きさの、どこを見ているのかハッキリしないサスペンダーの少年人形だ。
他の人形はみんな壁沿いに並べられているのに、なぜこの少年だけがこんなところに落ちているのだろう。
まさか、これは呪いの人形で女を殺したのは……などとくだらないこと想像してみる。
自分で自分を和ませるための冗談のつもりだったのだが、少年の死んだような黒目を見ている内に段々と本当のことのように思えてきて、つい力いっぱい投げ捨ててしまった。
明りの範囲から外れ暗闇に消えた人形が、壁にぶつかり地面に落ちたのであろう音が響く。
もし、本当に彼が呪い人形であったのなら、この行為で怨みを買ってしまっただろうか。
本物にしろ、妄想にしろ、馬鹿なことをしてしまったものだ。
数度頭を振り、気を取り直して死体へと向かう。
……あった。
当たり前のことなのに、どこかで見つからなければ良いと思っている自分がいた。
足先から徐々に露わになってくる姿に呼吸を荒げながら、何とか傍らに辿り着き膝をつく。
顔面蒼白になりながら、なけなしの勇気を振り絞って女の手に触れた。
あぁ、参った。本物だ。間違いない。
気付けば、俺は涙を流しながら笑っていた。
怖さが限界点を突破して、もうそうすることしか出来なかったのだ。
突破ついでに、泣き笑いのまま女の服をまさぐる。
百円ライターと違って、手放しでも使えるのがジッポの良いところだ。
肩から順に触っていきながら、とても人には見せられない姿だと自嘲する。
今このタイミングで警察でも現れようものなら、逮捕一直線待ったなしだろう。
うん。おそらくだが、この死体。すでに死後硬直が始まっているようだ。
うろ覚えの素人知識にすぎないので確かとは言えないが、要は女が死んでから少なくとも二時間以上が経過している、ということになる。
更に言えば、冬場でも四日程度で硬直は解けるという話なので、半袖で寒さを感じないこの場所においては、多く見積もっても三日は経っていないはずだ。
いや、まぁ、彼女が死ぬ前と後のどちらの状態でここに運ばれたのか、そもそも俺と同じ時間に入れられたのかどうか、その辺りが全然確定していないのだから、こんな考察にあまり意味はないのかもしれないが。
とりあえず、硬直の影響で死体が動くとかいう恐ろしすぎる現象の目撃者となるのだけは全力で遠慮しておきたい。
探る場所の少なすぎるノースリーブのワンピースは、すぐにも調べ終わった。
さすがに服を捲ったり脱がせたりなんてことは、死体が相手でも出来なかった。
むしろ、死体が相手だからこそ出来なかった。
俺がそれを実行する場面を想像しただけで、吐き気が込み上げてくる。
死者を冒涜することになるからだとか、そんな高尚な理由じゃあない。
ただ怖かった。
死んでしまった人間の肉を見てしまうのが、意味も無く怖かった。
俺は臆病すぎるのだろうか。
こんなにも苦労しておきながら、しかし収穫は何も無かった。
どこかで分かっていたことでもあるが、やはり損をしたような気分になる。
だからといって、もうこれ以上死体の傍にいたくもなかったので、床に置いていたライターへ手を伸ばした。
少し熱くなっているが、持てないというほどではない。
ただまぁ、他に行く前に一度休憩を挟んだ方が無難かとは思った。
立ち上がろうとして、そこでふと女が右手に何か握り締めていることに気が付く。
再び腰を落とし、ライターをその近くに置き直した。
死体を調べるなどという恐ろしいことは、これきりにしてしまいたかったのだ。
指先まで硬直が及んでいたら面倒だと思ったが、それは杞憂に終わった。
一本ずつ丁寧に女の指を開いて、慎重に中身を取り出し確認する。
どうやらグシャグシャに丸められたメモ用紙のようだ。
破いてしまわないようにゆっくりと広げてみれば、そこにはこんな文章が印刷されていた。
『君と僕の未来をかけた脱出ゲームをしよう
君が鍵を探し出して、見事この部屋から抜け出せたら勝ち
出来なければ負けだ
君が勝てば僕は自首して警察の世話になり、もう君とは関わらないことを誓う
そして、君が負ければ、君は一生僕のものとなる』
明朝体、いや、そんなことはどうでもいい。
読んで、分かったことがある。
死んでいるこの女、これは天井に張られている写真の女と同一人物だった。
天井は離れているし死体は直視に堪えない形相をしているしで、イコールで繋げることが出来ていなかったが、改めて見てみれば、髪形や体型や身に着けている小物など類似点が多い。
さすがにライターの火では細かな色彩までは分からないが、ここはもう断定してしまっても良いだろう。
脱出ゲームの舞台であろうこの部屋に無関係な他人しかいないというのも、まぁ不自然と言えば不自然だしな。
ただ、そうなるとまた疑問も増える。
文章中の『君』を示すのがストーカーされていたこの女だったとして、じゃあなぜ俺は彼女と共にゲームに招待されてしまったのか。
もしかして、後頭部を殴られたショックで忘れてしまっているだけで、彼女の拉致の邪魔でもして一緒に捕まってしまったのか。
だが、果たしてストーカーが意中の彼女と自分以外の男とを同じ場所に監禁するものなのか。
脱出ゲームのはずなのに、部屋が捜索された痕跡もなければ、彼女がすでに死亡しているのは何故なのか。
女は死んでいるのに、なぜ俺が生かされている。
勝負の判定のために、今後『僕』とやらが様子を伺いに来ることはあるのか。
そもそも『君』が彼女という仮定が間違っていて、『僕』の存在を認識していないが、俺こそが『君』という人物である可能性はないか。
だとすれば、女の死体や写真もまたゲームの道具ということになるのか。
情報が限定されすぎていて、謎は深まるばかりだった。
しばらく色々と考えてみたが、結局、『鍵を探して脱出する』というシンプルな答えに収束した。
この際、犯人の動機や意図などは関係ないだろう。
鍵がある。生きて帰れる可能性がある。
現在、情報として大事なのはこれだけだ。
腹が決まったおかげか、がぜん気力が湧いてきた。
恐ろしいばかりだった人形たちも、今の自分になら……と思ったが、意気込んで彼らを炎の先に照らし出せば、一瞬にして後悔の波が押し寄せる。
再び発露した怯えの感情に手が震えて、揺れる光の加減で無機質な瞳がぎょろりと動いてこちらを見たような幻影に取り憑かれた。
……呪い人形。
自ら発した単語が脳内を踊る。
完全な自滅だった。
無意味に心拍数が、息が上がる。
密室のせいか、気持ちの問題か、どちらの音もうるさいほど耳に響いていた。
ついでに軽く目眩までしてくるのだから、俺もなかなか単純な人間だ。
一気にその場を駆け出して、扉に体当たりすると同時に火を消す。
いっそ何もかもを投げ出して気絶でもしてしまいたいと思ったが、意味のない逃避は自らの死期を早めるだけだろうとその考えを強引に矯正した。
逃げよう逃げようとする不甲斐ない心を無理やりに縛り付けて、ライター本体の熱が冷えた頃合いを見計らって、捜索を再開するため抽象画へと向かう。
ダイレクトに精神を崩壊させにくる人形よりも、じわじわ蝕んでくる絵画の方が少しはマシというものだ。
一応各々の位置が何かのヒントになっている可能性も考慮して、一枚ずつ調べて戻しを繰り返すことにする。
扉側の端から順に壁から絵画を外して、その壁、絵の内容、額の裏、模様、材質、形、大きさ、絵と額の隙間など丹念に観察していった。
三十を超える絵画の全てを見終わる頃には、その行為はもはや作業と化しており、恐れを忘れて没頭している自分がいた。
結局、鍵どころかヒントになるものすら発見することは出来なかった。
そう。貴重な時間とオイルをいたずらに消費しただけの、無残な結果に終わってしまったのだ。
元よりギリギリで保たれていた精神の糸が、そこでふつりと途切れる。
肉体的疲労が重なっていたこともあり、あっさりと思考を放棄した俺は躊躇無くその場に寝転んだ。
完全な虚脱状態に陥っていた。




