壱
眠りというにはどこか腑に落ちない混濁から目を覚ませば、そこは暗闇だった。
異常で不可解な現実を前に、何に対してかも分からぬ疑心を抱き幾度と瞬きを繰り返す。
今の今まで瞼を閉じていたはずだというのに、それでもなお両の瞳に何も映りはしない。
一切の光が遮断された、真の闇の中に俺はいた。
ふと夢でも見ているのかとも思ったが、それは違うと心のどこかが叫んでいる。
星も見えなければ風も吹いていないということは、考えるに室内なのだろう。
だが、自室ということは有り得ない。
遮光でも何でもない安物のカーテンは、例え真夜中であってもネオンの光に染まっていた。
そもそも、この場所に窓は存在していないのではないだろうか。
耳が痛むほどの静寂が、その仮定を確信に近付けている。
ついでに言えば、ここにいる生物はおそらく自分だけだろう。
例え虫のような極小の存在がいたとしても、視覚以外の感覚に強く集中している今、気配や僅かな羽音や足音もろもろ全く感じ取れないということは無いはずだ。
そこまで考えて、周囲に広げていた意識を自分自身へと移す。
圧迫感から、どうやら俺はうつ伏せの状態で倒れているらしかった。
軽く手を動かして、ベッドや布団、畳やゴザ、ついでにカーペットやビニールシートの上でもないようだと大まかに確認する。
室内なので、もちろん土でもなければ岩でもアスファルトでもない。
まさしく床といった風情のそこに、俺は無防備に四肢を放り出していた。
ツルツルしているが、フローリングでは無いらしい。
特有の窪みがない。
同じ理由で、タイルなども除外する。
まぁ、床の材質になんか詳しくないし、これ以上知ろうとしたところで知識がなければ何の判断材料にもならないだろう。
固い、ということだけ分かれば今は充分だ。
身体は伏せていても顔だけは横を向いていたようで、下側になっていた頬が痛い。
いや、痛みと言えばむしろ後頭部だ。
血管の収縮に合わせてズクズクと鈍痛がしている。
……もしや、俺は誰かに襲われて昏倒していたのか。
しかし、覚えがない。
頭に受けた衝撃のせいで、前後の記憶が曖昧になっているのだろうか。
さすがにリアルがどうかは知らないが、創作物なんかでは良く聞く話だ。
とにかく起き上がろうと腕を曲げて手のひらを地面につけば、ようやく腰の辺りに何かが乗っていることに気が付く。
軽くはないが、だからといって動けないほど重くもないようだ。
背を反らして多少強引に起き上がれば、腰からずり落ちた謎の物体がゴッと鈍い音を立てた。
さすがに視界の効かない中、二本の足だけで立ち上がりヨロけない自信もないので、一先ず片膝をついた中腰の姿勢で動きを止める。
自身に乗り上げていた物体のことも気になるが、まずは自分がどうなっているか調べたい。
いつまで経っても黒一色から変わることのない空間で、俺は指先に全神経を集中させ自らの肉体を探っていった。
後頭部の痛みは続いているが、どうやら小さなタンコブになっているだけで血は出ていないようだ。
例え流れていたとして止める方法もないので、助かると言えば助かる気もする。
だが、そうなると逆に、内出血の心配をしなくてはならないだろう。
まぁ、実際どうなっていたところで、今は置いておくしかないのだが。
服は着ている。
半そでのTシャツにGパンというシンプルな格好だ。
耳、首、腕、腰なども調べてみたが、アクセサリーの類はつけていないらしい。
もしくは俺をここに運んだ誰かに外された、か。
靴も履いている。
いや、靴というかサンダルだな。
何週間、何ヶ月と眠りこけていたというのでなければ、外の季節は夏で間違いないだろう。
足先まで細かく触っていったが、頭以外に怪我をしている様子はない。
不安だらけの現状と、ほんの少しの安堵。
ズボンのポケットには、ひとつだけ。小さくて冷たい、薄い四角の何かが入っていた。
もし俺が外出していたのなら、必ず所持しているはずの財布や鍵や携帯がないというのはおかしい。
おそらく、ここに運び込まれるまでに盗まれたか捨てられたかしたのだろう。
自宅で襲われた、とはあまり考えたくないな。
俺はチンケなアパートで一人暮らしをしていて、誰にも合鍵なんざ渡しちゃあいなかった。
後頭部にしか怪我が無かったということは、確率が高いのは、見知らぬ他人が勝手に家の中に侵入して挙句俺に気付かれることなく隠れぬいて背後から襲い掛かった、もしくは、無防備に背を向けられる信頼をおいていた誰かの仕業ということになる。
どちらにしても、ゾッとしない話だろう。
もそもそと四角の何かをいじっている内に、それがジッポライターであることが判明する。
思わず歓喜の声を上げて、早速とばかりに火をつけた。
シュボッという耳慣れた音と共に、時おり青を交えながら橙の光が灯る。
風もないのに癖で翳していた手のひらが目に映り、見えるというたったそれだけの事実に感激して涙が出そうになった。
ライターを軽く掲げて周囲の様子を伺ってみるが、どうも想像以上に広い部屋の中心辺りにいるらしく、壁はおろか家具のような物も視界には入らない。
そういえばと思い出した、起きぬけ腰に乗っていた物体を確認しようと背後を振り向いて……絶句した。
人が、倒れていた。
限界まで眼球をむき出しにして、驚愕と恐怖と憤怒とをごちゃ混ぜにしたような表情を浮かべた見知らぬ女性だ。
そして、その胸部には深々とナイフが突き刺さっていた。
し……死体。
死体だ。
人間の、死体だ!
悲鳴を上げようとして失敗し、声にならない引きつった音が喉から漏れる。
爆発的に動悸が激しくなり、胸が苦しくなって空いている手で服を掴んだ。
見開いた目が乾く。
呼吸も上手くできない。
顔中から脂汗が流れていた。
全身がガタガタと大げさに震えている。
その時、緩んだ手からライターが抜け落ちてしまった。
落下の衝撃で偶然蓋が閉じたようで、突然失った光源に恐怖した俺は、今度こそ部屋中に響き渡る大声を上げていた。
音がやたらに反響して、それが更に混乱を煽る。
ひぃひぃと情けなく喘ぎながら、這いつくばって必死にライターを探した。
傍から見れば、気でも違っているように見えたことだろう。
いや、ここでおかしくなっていれば、むしろ楽になれたのかもしれない。
この部屋に絶望しかないことを知ってしまう前に、狂ってしまえたのなら……。
それから間を置かずにライターを探し当てることが出来たが、また死体に直面するのが怖くて、俺はしばらく火をつけられずにいた。
蹲り、泣いて、喚いて、ただ呆然と暗闇を眺めて、どれだけの時間そうしていただろう。
やがてほんの少しだけ戻ってきた理性で、再び炎を灯す決意をした。
もちろん死体は怖いが、黙っていたって状況は何も変わらないし、こうしてジッとしているよりも、動いていた方が気も紛れるだろうと思ったのだ。
極力女のいる場所を見ないようにして、再び視界を手に入れる。
ゆっくりと立ち上がり、恐る恐る正面に向かい足を踏み出してみれば、すぐに鋼鉄の扉を発見した。
駆け寄って調べてみたが、扉には鍵がかけられており、押しても引いてもビクともしない。
何度か叩いて声を張り上げてみたが、外から反応が返って来ることはなかった。
まぁ、あっさり返事があるような場所に、明らかに他殺であろう死体を放置する人間はいないだろう。
当然、予想は出来ていたことだが……辛い。
無意識に脱力していたらしい俺は、いつの間にか地面に座り込んでいた。
俺は女を殺した何者かの手によって、ここに閉じ込められているのだろうか。
何者かは女を殺したように、俺も殺しに来るのだろうか。
それとも、このまま死ぬまで放置されてしまうのだろうか。
何にせよ、俺がこの場で死体になることは免れないのか。
いや、ネガティブになってしまうのは良くない。
まだ部屋の中を全て調べたわけではないのだ。
閉じ込められているのだと、決まったわけではないのだ。
他に開いている扉があるのかもしれないし、手の込んだドッキリだという可能性もある。
殴られたのは何か手違いがあっただけで、死体だって咄嗟に見間違えただけで作り物かもしれない。
さすがにまだアレを直視できるだけの覚悟はないから、確認するのは後回しにするが……。
一度強く拳を握って気合を入れ、ゆっくりと解したあとで冷たく頑丈な鋼鉄の扉に手をつき立ち上がった。
壁沿いに歩けば、数秒ほどで左側の角に辿り着く。
左壁面には、大小様々な額に入れられたいくつもの抽象画が乱雑に飾られていた。
どれも人の精神をじわじわと侵食していく類の、怪しく不気味な絵画だった。
斜めになって落ちかけている物もある辺り、これを飾った誰かは絵自体に興味のある人間ではないのかもしれない。
あまり長く眺めている気にもなれず、緩やかに視線を外した。
惨めに狼狽えたくなる気持ちを、歯を強く噛み締めることで堪えてから、再び足を動かす。
ズリ、ズリ、と摺り気味に歩く自分の足音が木霊して怖い。
たまに俺以外の誰かの足音が混ざっているのではないかと錯覚しそうになる。
幽霊の正体見たり枯れ尾花とはよく言ったものだが、こんな状況で冷静沈着でいられる奴がいるのなら、是非お目にかかってみたいものだ。
むしろ、今すぐ代わって欲しい。
扉の対となる背後の壁には、ペンキだか絵の具だかが一面に隙間なく塗りたくられていた。
真っ赤だ。眩暈がしそうな鈍い赤色。
それがいかにも不吉な色合いで、俺の脳は自然と死という単語を連想してしまう。
そうなれば、否が応でも思い出すのは自身に絡み付いていた女の存在だ。
ほんの数秒で俺の記憶に強烈に焼きついた恐怖の映像が甦る。
そのイメージを振り払おうとして、繰り返し強く頭を振った。
やはりここも詳しく調べてみる気にはなれず、足早に次へと進む。
右側の壁は、コンクリートと思わしき無機質な灰色がむき出しになっていた。
ようやく何もなかったことにホッとしたのも束の間、つま先で小さな物体を蹴倒してしまう。
同時にガチャリと砕ける音。
慌てて距離を取って光を下方に向ければ、そこには人形がいた。
一体だけではない。
典型的な日本人形や西洋人形、博多人形にビスクドール、有名なチャッキー、リカ、ジョー、その他何体もの人型の人形が揃ってこちらを眺めていた。
瞬間的に膨れ上がった恐怖心で息が止まりかける。
頼りなく揺れる灯火を通して観賞するには、あまりに趣味の悪すぎるインテリアだった。
壊れた人形はどうやら陶器製のものであったらしい。
中から血液を模したような赤茶色の液体が零れて飛び散っていた。
液体入りの人形など聞いたこともないので、おそらく持ち主が購入した後でわざわざ入れたのだろう。
俺が壊してしまうことを想定していたわけでもあるまいに、なぜそんな無意味に等しいことをするのか。
自己満足という言葉もあるにはあるが、とても理解できるものではない。
分からないものは、恐ろしい。
そんな未知の存在のテリトリー内にいるのだという事実に怯えて、俺は全身に鳥肌を立てた。
不安だ。何もかもが、たまらなく不安で仕方がない。
もはやどこを見る気にもなれず天井へと視線を移せば、そこにもまた異様な光景が広がっていた。
写真。
少し距離が遠く判別しにくいが、何枚にも渡る一人の女の写真が天井を埋め尽くしている。
カメラ目線のものが見当たらないことからして、全て隠し撮りなのではないだろうか。
これだけ何枚にも渡る写真を全て……その考えに至った瞬間、ゾッと背筋が寒くなった。
ここは、ストーカーのアジトか。
ともあれ、これで一周。見るべきものは大体見た。
その結果から、やはり自分はこの異様な部屋に閉じ込められているようだと結論付ける。
天井に写真、地面に死体、右は人形、左は絵画、背後は赤、正面は扉。
どれもこれも俺の精神を追い詰めるために存在しているとしか思えなかった。
きっと、この部屋の主は、常人には理解できない特殊な感性を持った人間なのだろう。
比較的マシな扉の前を陣取って腰を下ろし、立てた両膝に顔を埋める。
火は消した。
知らなかったのだが、ジッポライターは長くつけていると本体自体が熱くなって、持っていられなくなる仕様のようだった。
実際かなり熱くなっていたのに、ここまで気付かず握り締めていたというのだから、俺がどれだけ冷静さを欠いていたのかが分かる。
しかし、消した理由はそれだけではない。
そもそも火を燃やし続けるなど貴重なオイルがもったいないし、もし万一にもここが完全な密室であるのなら酸素だって限られているのではないかと思ったのだ。
全てに怯えながらも、死にたくないという根源的な生への渇望が、俺の思考を手助けする。
けれど、そこから先は駄目だった。
まともに考えれば考えるほど、悲惨な結末しか頭に浮かばない。
現状を打破するだけの材料が何もないのだ。
もはや絶望と恐怖だけが俺の心を支配していた。
閉鎖された空間であることを認めた今、急に息苦しささえ感じるようになるのだから、現金なものだと思う。