PIANO 神月 嘉架編
無邪気に微笑みかけてくるその顔が、ただいとおしかった。
「じゃあ、バイトに行ってくるからね」
「うん、行ってらっしゃい」
嘉架は軽く手を振って、麗歌を見てから扉を閉めた。
毎日バイト詰めで大変でしょう。
そう、言われたことがある。
バイトの内容は主に家庭教師で、色んなところに行っているから、それなりに労力を使う。物覚えが悪い子供も勿論いるし、反抗的な子供もいる。
だが、手っ取り早く稼ぐにはそれが一番だった。
そうして1日にできる限りシフトを詰め込んで、何とか生活費を捻り出す。
生活する、というのも楽じゃない。生きていくだけで、精一杯だ。当たり前のように遊んでいる友人たちが、少し羨ましくなる時もないわけではない。
幼い頃に父が消息を絶ってから、嘉架は勉強漬けだった。高校生になってからはバイトと勉強で手一杯になり、それは大学生となった今も同じ。
だが、家に帰れば、家族がいてくれる。それだけで、どんなに救われることか。
辛いのは自分だけではない。安い賃金で限界まで働いている母の苦労は知れないし、父がいないことで麗歌は嫌な思いをしてきただろう。
………特に、あの件があるから、尚更だ。
「……は……」
10月の夜空を、何気なく見上げてみる。
見上げた先にあったのは、どんよりと曇った灰色の空だ。
「………本当なら………」
麗歌のあの笑顔は。
こんなに近くに、ある筈じゃなかった。
彼女が今ここにいること。
それが彼女にとって幸せだったのか、そうじゃないのか。
彼女が真実を知らないこと。
それが彼女の望む幸せの形なのか、そうじゃないのか。
彼には知る由もないけれど。
「願わくば………お前の、笑顔の傍にありたいよ、麗歌」
妹。
大切な、何にも代え難い、光。
本当なら、麗歌の隣にいるのは、嘉架じゃなかった筈だ。彼女を妹として慈しみ、愛し、守るのは、彼の役目じゃなかった。
でも、それでももう、手放せない。
今の彼にとっては、唯一の、そして最後の――希望なのだ。
「もしもお前が、真実を知ったら。………お前は、俺から、離れていくのかな……?」
自分のあるべき場所を知ったら、彼女はどうするのだろう。
憤るのだろうか。嘆くのだろうか?
彼女の笑顔だけが今の自分の支えなのに、もしもそれが失われてしまったら、もう、
「………歩いていける気が、しないな」
僅かに苦い笑みを零す。
実際のことを言えば、今自分が彼女の兄になりきれているかも不安だった。
昔はただ単に可愛い妹だった。初めて出来た兄妹。何よりいとおしくて、大切な存在。
愛らしくて、守り続けなければならない、そんな使命感を駆り立てるような、存在。
でも。
今は。
「…………お前は…………どうして、俺の妹に………なったんだろうな」
そんなことを言ったって仕方ないのだけれど。でも、どうにもやるせなくて。
もしもただの………幼馴染だったなら。
「…………あぁ、馬鹿だな、俺」
顔をしかめた。本当に、言ったって仕方ないことだ。
…………彼は、麗歌の兄なのだから。
変えようがない。
「こんな気持ちになるのは………まずいな」
何だか無性に泣きたくなって、目頭に親指を強く押し付けた。
生ぬるい風が身体を包む。
幼かった麗歌。あの頃とは比べ物にならないほど美しくなった彼女をこんな風に思ってしまうのは、彼には絶対に許されないことだ。
…………誰よりも傍にいるのに、誰よりも――遠い。
切ない。強い感情が胸の底から湧き上がって、抑えつけるのだけでも大変だった。
「この想いを、伝えることさえ………俺には、許されないんだな」
自然と足は止まっていた。約束の時間はそう遠くない。早く行かなければ、遅れるかもしれない。
“いってらっしゃい”
……無邪気な彼女の笑顔が、ただただ遠い。
「………あぁ、駄目だ。こんなことを考えてるなんて知れたら……優哉が何て騒ぐか判らない」
ふっと小さな吐息を零し、嘉架は空を仰いだ。
「………ふふっ………後で優哉でも苛めて、気分を切り替えようかな」
10月の夜の雑踏の中。
嘉架は再び、歩き出した。