1-3 チェス
喧騒とはかけ離れた静かなシャルルの部屋。シャルルとレアはチェス盤を挟んで向かい合って座る。二人は慣れた手つきでチェスの駒を動かしていく。意思を持たない無機質の駒たちは彼らの手によって滑らかに動き、まるで現実の人間社会を彷彿させた。王を守るために自分のことなどかまわず駒たちは動き回る。
「レアはさ、なんでわざわざああやって立てつくようなことするの?」
駒を動かしながらシャルルがまるで独り言のように呟いた。チェスを始めると無口になる彼だから、それはとても珍しいことだった。
「いつもわざわざ面倒くさいこと背負い込んで。ある程度うまく立ち回らないと潰れるよ?姉さんじゃないけどさ」
シャルルの声はいつものように澄んでいたのだけれど、そこに柔らかさはなかった。例えるなら冬の湧き水だ。澄んでいて美しい。だが触れるなら刺すように冷たい。
なぜって、とレアは考える。
――だって、今まで一緒だったし
彼女は今まで一緒に仕事をしてきた仲間だった。深く会話をしたわけでも、親しい友人だったわけでもない。だけど家族を養うという同じ目的を持って共に働いてきた。何らかの結びつきはあった。だからテレーズが彼女をくびにすると言ったとき、私はそれを阻止したいと思った。その思いのままに行動した。それだけだった。
「辞めて欲しくないと思ったから。それだけ」
「レアのその真っ直ぐなところは長所でもあるけどさ、致命的な短所にもなりうるんだよ。例えば、レアがこのポーンだとする」
シャルルがレアの駒のポーンのひとつを、ひとマスずつ前に動かす。
「レアは目的、ここでは僕のキングを取るためにひたすら前に突き進む。だけど、それしか見えていない。レアが一こまだけ動かしている間に僕のビショップ、ナイト、ルーク、クイーンは少しずつ、少しずつレアのキングを囲んでいく。キングが囲まれていることに気づいた頃にはすでにチェックメイトだ」
チェス盤の上のシャルルのビショップが、レアのキングを捕らえる。彼女のキングは周りをしっかりと彼の他の駒によって囲まれており、逃げ場はどこにもなかった。シャルルがビショップをレアのキングにこつんと当てる。キングはことりと乾いた音を立ててチェス盤上に転がった。
「ただひたすら真っ直ぐに進めばいいってものじゃないんだ。周りをよく見て慎重に行動しないと。全体を見て、どこをどう進めれば上手くいくのかよく観察するんだよ」
レアが口を尖らせて不満を明らかにした。シャルルが動かした駒を元の位置に戻して、ゲームを再開する。
「じゃあ、シャルルは私にそうやってせこく生きろって言いたいの?」
「別にそういう訳じゃないよ。それに僕はそういう生き方がせこいと思わないな」
「せこいよ。こそこそしてるというか、真っ直ぐじゃないというか」
「正当法だけじゃだめなんだって」
「やっぱりせこいよ」
「レアがそう思うならそれでいいけど」
シャルルが軽く肩を竦める。
「ただ」
「ただ?」
「心配」
「…………」
「って言ったらうれしい?」
シャルルが視線を投げかける。
「ぜんっぜん」
「はい、チェックメイト」
いつの間にかシャルルは駒を上手く操り、レアのキングを捕らえていた。
「ちょっといつの間に」
「だから言ったのに。レアは一箇所しか見てないんだって」
レアはキングの逃げ道を必死で考えるが、綿密に考えられたシャルルの策から逃れる術はなくレアの負けは確定していた。
「また、負けか」
「レアって僕に勝ったこと一度もないよね」
不服を露にしてレアが頬を膨らます。シャルルにはチェスで一度も勝ったことがない。そしてこれからも勝てる気がしない。シャルルの戦略は緻密で隙がまるでなく、いつもあっという間に追い込まれている。悔しいという思いより、鮮やかだと感心してしまうことのほうが多かった。
「少しくらい手加減してくれてもいいのに」
「そんなのおもしろくないよ。本気でやらなきゃ」
シャルルが頬杖をついたままにっと笑った。