不倫妻ユカリのやりなおし
「ユカリ先輩。俺……ユカリ先輩のことが好きです。旦那さんより俺のほうが……先輩を幸せにできます!」
夕暮れの陽の光が会議室を赤く染めている。立ちすくむ私に向かって、勢いよく頭を下げたのは、中堅印刷会社で同じ部署の後輩である桶狭間ゴエモンだった。
私よりも一つ下の、25歳。整った童顔と、母性本能をくすぐる愛くるしい瞳。彼はいかにも「守ってあげたくなる年下の男」という風情で、真っ直ぐな好意を私にぶつけてきていた。
「ゴエモンくん……」
私は自分の声のトーンを慎重に調整しながら、短く呟いた。
私の夫であるマサトは27歳。大手住宅メーカーに勤めており、このところ大きなプロジェクトを担当していて連日のように出張と遅くまで残業を重ねていた。家には寝に帰るだけのような夜が続き、部屋の静けさに私は押しつぶされそうになっていたのは紛れもない事実だった。
『一周目』の私は、まさにその寂しさに負けたのだ。
ゴエモンは、私の孤独を鋭く察知していた。私が落ち込んでいると、「先輩、大丈夫ですか?」と缶コーヒーを差し出し、絶妙なタイミングで甘い言葉を囁き、私の乾いた心にスルリと入り込んできた。そして……この会議室で、私は彼の誘いに乗ってしまったのだ。
彼に案内されたのは高級ホテル。一度体の関係を持ってしまえば、そこからは坂道を転げ落ちるだけだった。寂しさを言い訳にした背徳の快感。「旦那さんはわかっていません。ユカリ先輩のように素敵な女性がそばにいてくれる……その奇跡の価値を」ゴエモンの責任感のない、だけど耳当たりの良い甘い言葉に溺れ、私はどんどん狂っていった。
夫のマサトには友達に会うと嘘をついてはラブホテルに通い、マサトが出張に行くのを見計らってはゴエモンと温泉旅行に出かけた。
最初の頃は「俺が全部出しますから」と羽振りの良かったゴエモンの金払いは、月日が経つにつれて露骨に悪くなっていった。「今月はちょっと厳しくて」「今度払いますから」という言葉を鵜吞みにし、私は愚かにもマサトと二人でコツコツ貯めていた夫婦の将来のための貯金口座から、こっそりお金を引き出して密会費用に充てるようになったのだ。
そんな最低な裏切りが、バレないはずがなかった。
マサトはある時期から、恐ろしいほど静かだった。怒ることもなく、問い詰めることもなく、裏で着々と興信所を動かしていたのだ。
ある日の夜。いつものようにホテルから帰った私を「おかえり」と迎えると、リビングのテーブルの上に、ずっしりと重い茶封筒が置かれていた。
引きつる笑顔で「これ、なに?」と尋ねた私に、マサトは表情ひとつ変えずに封筒の中身をぶちまけた。
溢れ出したのは、言い逃れようのない大量の写真。ホテルから笑顔で出てくる私とゴエモン。車内で見つめ合う私とゴエモン。さらには、ICレコーダーから流れる、私たちが囁き合った生々しく恥知らずな音声記録。
一気に血の気が引いた。背には冷や汗が吹き出し、視界がぐにゃりと歪んだ。
「離婚だ」
マサトの冷酷な声が室内に響いた。
「待って……待ってよ! これは……違うの! ゴエモンとはただの遊びで、ほんの一時の気の迷いで。こんな……離婚だなんて……!」
本当に、私が最も愛しているのはマサトだった。ゴエモンとの浮気など、ただの寂し紛れ、現実逃避の火遊びに過ぎなかった。私は必死でマサトの足元にすがりつき、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら言い逃れを試みた。
しかし……マサトの瞳に宿っていたのは、炎のように激しい怒りと、深く絶望した氷のような悲しみだった。
「お前とは……もう、無理だ」
その後の人生は、文字通りの地獄だった。
マサトからは弁護士を通して、容赦無く高額の慰謝料を請求された。使い込んだ貯金の返済を含めて700万円……それも、財産分与無し。社内不倫だったため会社中に噂が広まり、噂話と冷ややかな視線に耐えかねて自主退職せざるを得なくなった。激怒した両親からは「恥知らずめ。お前などもう娘ではない、我が家の敷居を二度と跨ぐな」と絶縁された。
頼みの綱だった共犯者のゴエモンは、マサトから慰謝料の請求が届いた途端に青ざめ、私からの連絡をブロックして行方をくらませた。
家から追い出され、実家にも帰れない私は日当たりの悪い、カビ臭い狭い安アパートに身を寄せ、早朝から深夜までパートの仕事を三つ掛け持ちした。ボロボロになりながら分割で慰謝料を払い続ける極貧生活。孤独と過労で精神を病み、マサトに出された接近禁止の警告すら無視して彼の自宅前で復縁を迫り、警察を呼ばれて罰金まで科された。
身も心も、完全に壊れた。
マサトとやり直したい……。私はこんなにもマサトのことを愛しているのに。たった一度の過ちが、私から全てを奪い去ったのだ。
後悔と絶望、そして過去の自分への激しい憎悪に苛まれた末、私は寒々しいアパートの室内で、ドアノブに太い縄をかけたのだった。
そして——。
ハッと気がついた時、私はこの会社の会議室にいたのだ。ゴエモンから告白をされる直前の、あの瞬間に。
まだ私は汚れていない。マサトを傷つけてもいない。やり直せる。神様がくれた、たった一度の奇跡。
だから、答えなんて最初から決まっている。
私は背筋をピンと伸ばし、真っ直ぐにゴエモンの目を見つめた。動揺も、迷いも、一切見せずに。
「私は世界一愛している夫を裏切るようなことはしないから。二度と悪い冗談はやめて」
語気は強く。氷のように冷ややかに。
ゴエモンは目を見開いた。甘い言葉で簡単に落ちるだろうと高を括っていたのだろう。私のあまりにもキッパリとした拒絶に、彼は顔を赤くして「あ……すみません」と蚊の鳴くような声を漏らした。
気まずそうに、そそくさと会議室のドアを開けて去っていくゴエモンの背中を見送りながら、私は深く、深く息を吐き出した。
……これでいい。これで、私の惨めな未来は完全に回避されたのだ。胸の奥から湧き上がる強烈な安堵感に、私は膝の震えを必死で抑えていた。
あれから、三年が経過した。
私は寂しかった気持ちをマサトへ素直に告げていた。すると彼は難しい顔をして「そうだな……確かに俺はお前のことを放っておいたかもしれない。すまなかった、ユカリ」と謝ってくれ、そして少ない余暇にも私に構ってくれるようになった。そして私も、私を愛してくれる彼に懸命に尽くした。やがて……マサトの激務の時期は終わりを迎え、彼の地道な努力は実を結び若くして課長へと昇進を果たした。勤務時間も安定し、私と過ごす時間も増え、私たち夫婦の間には……二人の愛の結晶である、愛くるしい男の子が生まれた。
今の私たちは、誰もがうらやむほど仲の良い、幸せな家族だ。
あの惨劇のような一周目の末路は、今や遠い悪夢の欠片に過ぎなかった。私は完璧な妻であり、慈愛に満ちた母親だった。マサトを深く愛し、家庭を温かく守り続けている。
ある休日の夕方。柔らかい日差しが差し込むリビングで、私は一歳になる息子を抱っこし、ソファでマサトと並んでテレビを見ていた。
画面にはワイドショー。『不倫妻への壮絶な制裁』をテーマにした再現ドラマが映し出されている。浮気が発覚した妻が、夫から離婚と慰謝料請求をされ、社会的信用を失い、追い詰められていく様子がセンセーショナルに描かれていた。
マサトが画面を見つめながら、静かに口を開いた。
「不倫か……許せないよな。こんな奴は徹底的に追い詰めて地獄に落としてやればいいんだ」
その声は、単なるドラマの視聴者以上の、どこか深い冷徹な憤りが含まれているように聞こえた。
私は息子のお腹をあやしながら、ごく自然に、おしゃべりをするつもりで言葉を返した。しかし、一周目で自分が味わった、あの恐怖と絶望が、無意識のうちに溢れ出る。
「そうね……でも、この妻もここまでされると、きっと心から反省してるんじゃないかしら。この状況、ほんと怖かったし」
言った後で、自分の背中に冷たいものが走った。
(……あ)
しまった。ドラマの感想としては、あまりにも実感のこもった発言だ。
案の定、マサトがゆっくりとこちらに顔を向けた。その瞳は笑ってはいなかった。
「……え?」
「え。あ……違くて」
私の顔から一気に血の気が引いていくのがわかった。心臓が早鐘を打ち鳴らす。間違えた、今の言い方はおかしい。私は何も経験していないはずなのだから。
マサトはソファの上で身体を私の方に向け、静かな、けれど逃げ道を塞ぐようなトーンで呟いた。
「俺……ずっと前にさ。すごく辛くて……長い悪夢を見ていた時期があって」
「あ、そうなの」
喉がカラカラに乾き、声がかすれた。
嘘でしょう、まさかそんなわけがない。まさか、マサトも、あの地獄のような一周目の記憶を持っているとでも?
あの時の、興信所の写真を叩きつけた時のマサトの冷酷な目。離婚を言い渡された時の絶望感。アパートのドアノブの感触。全ての記憶が怒涛のようにフラッシュバックし、頭の中が真っ白になる。
「ユカリ、お前……」
マサトがじりじりと距離を詰めてくる。その眼光は、家族とドラマを見ていた優しい父親のそれではなく、裏切られた男の冷徹な怒りを宿していた。
「え、意味わかんない」
私は引きつった笑顔で、抱いている息子を抱き直しながら、必死に取り繕った。誤魔化さなきゃ。認めてはダメだ。
「マジかよ……お前」
マサトの目が細められる。彼は私の一瞬の揺らぎ、血の気の引いた表情から、何かを確定的に察し始めていた。記憶の答え合わせが、彼の中で急速に行われているのが分かる。
「ないない、ないって! おかしいじゃんそんなの!」
私はわざと明るい声を作って否定する。私にも、マサトにも、そんな過去があってはならないのだ。もしあの記憶が本当にあったこととするならば、今のこの平和な日常は、この温かい家庭は一体なんだというのか。
「……」
マサトは数秒間、あるいは気が遠くなるほどの長い時間、じっと私の目の奥を見つめていた。その沈黙は永遠にも思えるほど長く、恐ろしいものだった。
やがて……彼は小さく息を吐き、視線をテレビの方へと戻した。
「……そうだよな……。ゴメン、変なこと言って。そんなことあるわけないよな」
「そうそう。夢の話でしょ? 疲れてるんだよ、マサト」
私は引きつった声を出しながら、マサトを宥めた。どうにか……どうにか誤魔化すことができた。だが……テレビに向けた彼の横顔には、ほんのりと消えることのない冷たさが残っていた。彼の口元は笑ってはいなかった。
その日を境に、マサトの言動に小さな変化が現れ始めた。
「今日の買い物、どこに行ったの? レシート見せて」
「明日の予定、時間単位でいいから詳しく教えてくれないかな」
彼はごく自然な口調で、私のスケジュールや行動履歴を事細かに確認するようになった。財布の中のレシート一枚一枚をチェックし、スマートフォンの位置情報共有アプリを「防犯のため」と笑顔で導入することを提案してきた。
疑われている。
彼は、あの悪夢の記憶を捨て去ってはいないのだ。
けれど、私は狼狽えない。何しろ、今の私は完全なる潔白なのだから。
ゴエモンの誘いは完璧に断ち切ったし、他の男と怪しい連絡を取ったこともない。夫を愛し、子どもを愛し、家族を心から大切にしている。私の心も身体も、何一つ汚れてはいない。
マサトがどれだけ怪しもうと、どれだけ興信所を使おうと、どんな裏切りも出てくるはずがないのだ。
私は微笑みを浮かべ、マサトに言われるがままにレシートを差し出し、スケジュールを丁寧に伝える。
何ひとつ後ろ暗いことなんてない。
私はやり直したのだ。
過去の過ちを乗り越え、完璧な自分を手に入れたのだから。
決して浮気ひとつしない、堂々たる良き妻、良き母として。私はこれからも、この手に掴んだ幸せの中で暮らし続けるのだ。
めでたし、めでたし。




