6.作戦
三月上旬。今日行われた東京マラソンは礼の出した二時間二十二分五秒を上回る記録・二時間二十一分四十五秒が出された。その記録を出したのはメートクではチームメイトであったオルディア・福永葵であった。
彼女がこの結果を残すことについては、当然だろうという他人事じみた感想しか浮かばなかった。
彼女とはチームメイトかつ同期入社だった。だが、彼女は入団からAチームに加入し、入社一年目からフルマラソンに出走して好成績を残すようなエリート街道を歩んでいた。一方、私はBチームでくすぶっていた。
チーム変遷の際も、彼女は当然のようにメートクの意志を引き継ぐオルディアに確保された。その傍らで、私は「クビ」を通告されていた。
そして、この記録はもちろん二時間二三分ちょうどの参加標準記録を大きく超えるものだ。後の選考レースは名古屋ウィメンズマラソンを残すだけ。彼女の世界陸上出場は、もはや確実だった。
今、私はピーキング週間を終えて、明日からは軽いジョグと刺激走を中心に行う週間に差し掛かる。
以前の私なら、この記録に焦って、ピーキング期間にもかかわらず無断で無理な練習を重ねてしまっただろう。
だが、今は違う。
その記録に焦るどころか、私はむしろ冷静でいられた。
それは、ひとえに礼の存在があったからだ。
「戦いたい相手がいるんです」
あのインタビューでの、静かだが決意に満ちた礼の言葉が、私の心の中で確固たる錨となっていた。
福永葵の記録は確かに速い。しかし、私の目標は、ただ「世界陸上出場権を獲得すること」ではない。最高のライバルである東礼と真っ向から勝負し、私の「爆発」を証明し、優勝することに変わったのだ。
その目標を実現するために、ピーキング期である今、私がやるべきことは、焦って練習の「量」を増やすことではない。村田監督・大井ヘッドコーチから与えられたピーキングのメニューをこなすことだ。
私はリビングの窓から外の景色を眺めた。福永の記録は、私を不安にさせるものではなく、むしろ「これぞ、挑むべき戦場だ」と鼓舞する檄のように感じられた。
名古屋ウィメンズマラソンまで、もう時間はない。私は、大井ヘッドコーチが作成した、名古屋で「爆発」を起こすための最終調整メニューに目を落とした。
「私は、私の爆発を、礼の粘り強さの隣で、そして福永葵の記録の上で、起こしてみせる」
私の闘志は、最高潮に達していた。
そんな情熱たぎる私に水を差すように、コンコンコンとノックが響いた。
「鬼頭。少しいいか」
村田監督の声が襖の奥から響く。短く返事すると、襖をスライドさせて村田監督と大井ヘッドコーチが私の部屋に入ってくる。
そういえば、今日は名古屋ウィメンズマラソンに向けた作戦会議だということを忘れていた。小さいローテーブルに三人集った。
「じゃあ名古屋ウィメンズマラソンに関する作戦会議を今から始めようと思うが、その前に──」
村田監督が言いよどんだ。
「このレースはチームメイトの東も出走する。そして、彼女の作戦も我々が立てることとなる。そのうえで、鬼頭清美の存在はレースに大きくかかわってくる。鬼頭の作戦を濁しながら話すことは、その内容を知っている我々からすると、二人ともに公平なレースプランを組むことは難しい」
「だから、スポーツマンシップに則った真剣勝負を行うためにも、レースプランをお互いに知らせておこうと思う」
村田監督は、私の目を見つめた。
私の胸は、基本的に秘密とされる戦略が暴露されることへの驚きと、礼との勝負が真の意味で正面からの対決になることへの興奮で、激しく脈打った。大井ヘッドコーチが続ける。
「だから、わざわざ二人別々に作戦会議をする必要はない。鬼頭、東を呼んで一緒に作戦会議をしていいか?」
その言葉に私は頷いた。
すると「東!来てくれ」という大井ヘッドコーチの声が襖の外に投げかけられる。ほどなくして私の部屋に礼がやってくる。
「清美の作戦会議になぜ私が?」
もっともな疑問を集った三人に投げかける礼に向けて、私に話した同様の内容を村田監督が説明する。
「……分かりました。一緒に作戦会議をしましょう」
礼からも了承を得たことで、異例である二人同時の作戦会議が行われることとなった。
「じゃあ名古屋ウィメンズマラソンに関する作戦会議を今から始めようと思う」
村田監督が改めてそう切り出す。
「まず、コースと環境から確認するぞ」
大井ヘッドコーチがローテーブルに名古屋ウィメンズマラソンのコース地図を広げる。
「名古屋は目立った起伏が少なく、気象条件も基本的に悪くない。だから、大阪がレース巧者が制するテクニカルコース、東京が序盤の下り坂で勢いづくスピードコースだとすれば、この名古屋はアップダウンの少ないフラットコースだといえるだろう」
起伏が少ないことから私の足に優しいのだと、この多気町に移り住む前に教えてもらったのを思い出す。
レースの概要を説明した大井ヘッドコーチは、カラーで印刷されたコース図の主要なポイントを指差しながら、説明を始めた。
「まずはスタート地点から十キロ地点。基本的には環状線をメートクの練習拠点があった大曾根から新瑞橋の方まで南下。途中、名城線の堀田駅前で一度目の折り返しがあるな。ポイントはスタート直後の渋滞は避けられないこと。だが、この渋滞は最初の五キロまでには落ち着く。そのことを念頭に入れて、飛び出したりして、変に体力を消耗しないことだな」
「次に十キロ地点から二十キロ地点。さっきまで走っていた環状線を北上して、今池駅のあたりで左折。そこからは桜通を直進して、伏見通に差し掛かる手前で二十キロ地点を迎える。ポイントは北西方向から吹く季節風の伊吹おろしだな。この風が年によるが向かい風気味にこの区間では吹くようになる。この風はレース中ずっと影響を受けるはずだが、特にこの区間では要注意だ」
「そして二十キロ地点から三十キロ地点。伏見通から若宮大通に入り、栄五丁目交差点でUターン。再び伏見通に戻って、名古屋城の目の前で出来町通を通って、大津通に入る。そして、そこから基本はフラット。ポイントは三度の上り下りだな。特に三度目の市役所付近の急激な下り坂には注意だな」
「最後は三十キロ地点からゴール地点。大津通を左折して再び環状線。康生通二交差点で二度目の折り返しを迎え、今池駅付近まで再び来た道を戻る。そして今池駅付近で左折し、ゴールのナゴヤドームへ向かう形だな。ポイントは先ほどは急激な下り坂であった市役所付近の登り坂。三十数キロを走った疲れの溜まった体には、一気に駆け上るこの坂はかなり苦しくなると予想される」
大井ヘッドコーチは私たちにざっとコースの概要を伝える。
「鬼頭、東。ざっとコースの概要は分かったな」
大井ヘッドコーチは地図から顔を上げ、私たちを見渡した。
「はい!」
そう私と礼は声を揃えた。
村田監督に名古屋ウィメンズマラソンを目標として走ると言われたころから、スマホの地図アプリ等で確認を重ねてきた。それに地元が名古屋ということもあって、走るコースのほとんどには馴染みがあった。だからコースの把握状況については自信があるのだ。
礼は一度走ったことがあるのだから、コースについては熟知しているのだろう。
私と礼が上げた威勢の良い声に村田監督が深く頷き、本題に入るように口を開いた。
「では、それぞれのレースプランについてだ。まず、東のレースプランから説明しよう」
村田監督は、用意していたメモに目を落とした。
「東の武器は天性の体内時計と、どのレースでもタイムを出せる安定性だ。その武器を生かせるような作戦を立てた。目標タイムは二年前の名古屋ウィメンズマラソンで記録した、二時間二十二分四十秒だ」
そう言った村田監督と大井ヘッドコーチは地図に目をやる。それを見て、私たち二人も再び地図に目をやる。
「大阪国際女子マラソンの時と同じく、最後まで三分二十秒前後で行く気持ちを持ってレースを進めて行ってくれ。粘りの走りを見せれば、外国人ランナーが参戦しない今回。優勝は固いだろう」
大井ヘッドコーチが続く。
「だからペースはイーブンから若干のポジティブスプリット気味で行くこととなる」
「まあ、もう東に関しては心配はしていない。もちろん世界陸上へ出場することがほぼ確実的なのもあるが、長野・北海道・大阪とずっと安定した成績を残している。このレースでもきっと同様の結果を残すだろう」
礼は凛とした顔で頷きながら大井ヘッドコーチの話を聞く。その声色は安心そのものだった。
「次に鬼頭のレースプランだ」
私は自然と背筋を伸ばした。村田監督は、私に真っ直ぐ視線を向けた。
「鬼頭のプランは、礼とは全く異なる。鬼頭の武器は爆発的なスピードと、ネガティブスプリットを出せる後半の強さだ。目標タイムは、二時間二十一分三十秒」
村田監督の言葉に、礼の手がわずかに止まった。
「今日の東京マラソンで出した福永の記録を上回り、世界陸上内定を自力で掴み取るためのアグレッシブな設定だ」
大井ヘッドコーチが続ける。
「白川公園を左手に望む中間点までは三分二十五秒前後で控える。そしてそこからは三分十五秒を切るペースまで引き上げ、先頭集団に追いつく。そして、そこで少し控えた後、最後は集団から抜け出して一着をさらう。これで予想タイムは二時間二十一分三十秒に届くかどうかだ。かなり厳しい戦いになりそうだな」
一瞬の静寂が場を包んだ。
それもそのはずだ。初マラソン挑戦の選手が、今の日本トップクラスの成績を出すプランが立てられているのだ。
特にマラソンには「三十五キロの壁」と呼ばれる後半の失速を揶揄する言葉がある。この壁に初マラソンの選手はことごとくぶち当たる。どんなにハーフマラソンで好記録を残した選手も、学生駅伝でブイブイ言わせた選手でも、多くは前半どんなに順調に進んできても、いつの間にか失速していて、そして実況の声がかけられないような位置まで沈んでいく。
そしてレースプランも難しいものだった。いくら私にネガティブスプリットを出せる後半からの力があると見込まれているとはいえ、後半に二度のスパートが控えるレースプランは、世界を舞台とするような強力なランナーでも難しく感じるであろう。
もちろん礼は目標、そしてそのレースプランに驚いた表情を見せる。
だが、私は真剣な表情を崩さなかった。
この記録を出せる自信があった。
その自信はどこから湧いてくるのか分からない。だが、この多気町で重ねてきた練習と私の持つ才能は裏切らないと思うのだ。
村田監督が口を開く。
「このペースは初マラソンの選手が出すにはあまりに酷な記録だ。だが──」
一呼吸空ける。
「私と大井は君がこの記録を出せることを真剣に信じている。君は名古屋の地で爆発を起こす。福永葵の記録はあくまで通過点だ。君は、東礼という日本でも指折りの選手との真っ向勝負に勝ち、真の優勝を勝ち取れる。そう信じているんだ」
その言葉に一瞬耳を疑った。だが、顔を上げるとその言葉は本当なのだと、二人の真剣な表情を見て確信した。
初マラソン選手が日本でも有数の記録を出せると信じている陸上経験者がこんなところに二人もいる。大たわけだ。
だが、私の根拠ない自信と同じ意見を持つ人間がこんな近くにいること、非常に心強い。
私は、村田監督と大井ヘッドコーチの言葉に、全身の血が沸騰するのを感じた。
「はい。承知しました。福永の記録に怯むことなく、礼と共に最高のレースをして優勝して見せます」
私の横で、礼は静かに口を開いた。
「清美のプランは、私にとっては非常に厳しい挑戦となります。ですが、私は私にできる最高の走りで、清美の痛烈な爆発に食らいつきに行きます」
私たちは、ローテーブルの上のコース図を挟んで、互いの決意を視線で交わした。
その様子を見て、村田監督は満足そうに微笑んだ。
「よし、じゃあ最後にレース展開について解説をしよう」
村田監督はパンと手を打って場を再び引き締める。地図を指でなぞりながら、大井ヘッドコーチは解説を始める。
「ペースメーカーは今回のレース、二時間二十分の設定だ。このキロ三分二十秒ぐらいのペースに付いていく形で先頭集団が形成され、その後ろにキロ三分二十五秒ぐらいのペースで行く第二集団が五キロ地点を過ぎるころには形成されるだろう」
「このまま中間点頃までは多少の動きはあれども、この様相を保ったまま行くだろう。そして、中間点を過ぎた後やペースメーカーが外れる三十キロ地点、三四キロ地点に構える名古屋市役所前の登り坂やマラソンでは壁とも呼ばれる三十五キロ地点が近づくにつれ、先頭集団から遅れを取って第二集団に吸収される者や第二集団からも脱落して一人旅を強いられるものも出てくるだろう」
「テレビでは名古屋駅が桜通の奥に抜かれる頃合いになれば、先頭集団と第二集団の差は大きく開き始めると同時に、先頭集団の人数も限られてくるだろう。先頭集団も五名ほどに絞られ、その絞られたランナーが一位の座に輝くことになるわけだ。桜通から今池駅あたりで再び環状線に入るころにはだいたい順位争いは終わって、そこからナゴヤドームに向かうまではその順位をキープできるかになる」
「このレースは大阪のようにアップダウンがあるコースではない。だから、仕掛けどころとなるポイントが少ない。そのために、一回集団から離れてしまうとそのまま追いつけないままゴールを迎えたり、仕掛けどころを見つけられないまま平行線で終盤戦に差し掛かることもある」
「だからこのコースではいかに自分の設定ペースを守ることが重要となるはずだ。周囲の無理な加速などについていかずに自分自身やペースメーカーを信じることが良い。鬼頭で言えば、中盤以降、先頭集団にくっついたときに集団には東という"精密機械"がいることになるだろうからそれを基準にしてもいいかもな」
「前半は東は先頭集団、私は第二集団でレースを進めることになるのですね」
私は、コーチの言葉を思い出してコース図に視線を落とした。村田監督は頷く。
「そうだ。鬼頭は白川公園そばの中間点までは第二集団のペースで、体力を温存しながら進むのが理想だ。集団で走ることで風よけにもなり、無駄なエネルギーを使わずに済む。そして、後半の爆発にすべてをかける」
大井ヘッドコーチが付け加える。
「東は、ペースメーカーにつく形で先頭集団で、設定通りのイーブンペースを刻む。清美が後半に仕掛けてきた時、それにどう対応するかが勝負の分かれ目になるだろう」
「分かりました」
私の返答は迷いなく力強いものだった。初マラソンで「後半からペースアップ」という大胆なプランだが、不思議と不安はなかった。
礼は静かに口を開いた。
「清美は後半、必ず来るはずです。その時、私は私の粘りの走りで、どれだけ差をつけさせずにゴールできるか。大阪の覇者という肩書を背負って、最後までペースを落とさずに走り切ります」
私たちは再び、コース図を挟んで決意を新たにした。
地図上の「ナゴヤドーム」の文字が、栄光のゴール地点として強く目に焼き付く。
「よし、これでレースに関する作戦会議は終了だ。このレースは、鬼頭の『爆発』と東の『粘り』、二つの異なる戦略が正面からぶつかり合う、最高の勝負になるだろう」
大井ヘッドコーチが、最後に念を押した。
「二人とも、改めて言うが重要なのは、相手の作戦に惑わされないことだ。東は前半から果敢に突っ込んでいく。鬼頭はスパートを見せていくことだ。それぞれ、自分たちのメニューとピーキングを信じて、最高のコンディションでスタートラインに立て。最終調整のメニューに疑問はないか?」
「ありません!」
そう私と礼は、同時に力強く答えた。
その声とほとんど同時に「夕飯できたぞ!」という村田監督の叔父さんの声が響く。
村田監督を除く三人が立ち上がって、夕飯を食べるリビングへ向かおうとしたとき、村田監督が私に声をかけた。
「鬼頭だけ、ちょっといいか?」
「はい」と反射的に返事をしたが、何について話すのか見当もつかない。
礼はそそくさとリビングへと向かっていったが、大井ヘッドコーチは眉をひそめてその場に立ちすくむ。
「二人きりで何について話すのか?夕飯冷めちまうぞ」
「二人きり」の部分を強調するように村田監督に大井ヘッドコーチは問いただす。
「一旦夕飯のことはいい。それに二人きりで話すが、東の作戦に不利が出るような秘密裏の話し合いはしない」
そう真っ直ぐ言い張ると、「そうか。早く来いよ」と短く言い残し、襖を閉じてリビングへ向かっていく足音が聞こえた。
立った私は再びローテーブルの前に座る。
「話って何ですか?」
なかなか口を開かなかった村田監督に私がしびれを切らして聞く。
「……驚かないでくれよ」
そう前置きをした村田監督の表情は葛藤の感情が読み取れた。
「そう並大抵なことじゃ驚きませんって」
そう冗談めかしく笑って答えるが、村田監督の表情は硬いままだ。
ふうと決心を込めたようなため息をついて村田監督は口を開ける。
「このことは誰にも言ったことがない」
村田監督の声が、わずかに震えた。
「今後も、君以外に言うつもりはない」
一拍の沈黙。リビングから聞こえる食器を並べる音が、やけに遠く感じられた。
「……実は私は、陸上が好きではない」
時が止まった。いや、止まったように感じた。
「京浜葉のホシ」と呼ばれた天才ランナー。その人物の口から、今、何と言った?
「陸上が……好きではない?」
私は思わず反芻していた。言葉の意味を理解しようと、必死に頭を働かせた。
その言葉は、驚くなよという抑止の声を無視するのに十分な言葉だった。あの"京浜葉のホシ"村田星一が、あの"走りの天才"村田星一が、陸上が好きではないという言葉に、驚きを隠すことはできなかった。
好きこそ物の上手なれという言葉があるように、走ることが好きだったから、走ることに熱中して、いつのまにか陸上の世界にのめり込むというのが陸上選手の陸上に対する馴れ初めで、この方向性からズレた陸上に対する馴れ初めを持った陸上関係者を私は知らない。
私の表情が硬直したのを見て、村田監督は苦笑いを浮かべた。
「そうだろうな。そんな顔をするだろうと思っていたよ。鬼頭。君の知る"村田星一"は、きっと選手としても指導者としても、陸上にすべてを捧げてきた"陸上バカ"を体現するような男だろう。だが、それは表面上の話だ」
監督はローテーブルに肘をつき、顔を覆うようにして深く息を吐いた。彼の表情には、これまで私たちが感じてきた自信や情熱とは異なる、諦念のような影が見えた。
「私は、走ることに対して無関心だった。だが、そんな内情とは反対に小さな頃から、走れば誰もに勝てた。努力もしていないのに、結果が出てしまう。周りの努力が、私の才能の前に意味をなさない。それが、傲慢だと、失礼なことだと、いつも感じていた。走ることをやめた方がみんなのためになるのではと考え、それを行動に移そうともした」
彼の過去が、まるで初めて開かれる秘密の扉のように、目の前に現れた。
「だが、周りはそれを許さなかった。コーチ、メディアが"天才"は走るべきだ、その才能を発揮するべきだと。俺は、期待に応えるための道具だったのだと大人になってからふと思った。でも、その頃に再び走ることをやめたいと思ってもやめることはできなかった。いつしか走りでしか自分を証明できない人間になってしまったからだ。いわば陸上は、俺の人生を支配した鎖だったんだ」
村田監督は顔を上げ、私の目をまっすぐに見た。
「鬼頭の前で言うのも申し訳ないんだが、実を言うと指導者には本当はなりたくなかった。でも三十近くになるまで陸上にしか打ち込んでこなかった男だ。結局、陸上から逃れられなかった。だが、陸上に対する情熱はなかったが、指導をすることによって得られる喜びは今までの何物にも代えがたい喜びであった。しかし、その愛着を自覚した束の間、メートクが解散することになった」
「あの時の衝撃は昨日のことのように思い出せる。自分のような陸上に対してこれほどまでに不誠実な人間が未来ある職に就けるのに対して、陸上に誠実なBチームの彼女たちがこんな無慈悲にも切り捨てられることに怒りを超越した"何か"を抱いたんだ」
村田監督の語りには熱がこもる。その熱に感化されるように村田監督の話に私は相槌も打たず、聞き浸る。
「それでこのチームを立ち上げ、約一年間このチームを運営してきた。そこで気づいたことがあるんだ。私が陸上を愛せないのにもかかわらず、陸上を通して指導することに愛着を持てたのか。そして、自分の将来をほっぽり出して無謀な挑戦の道を歩んだのか」
確かに私もそれについて疑問を抱いていた。陸上を愛してやまないお人よしなんだろうと薄っぺらい考えを今まで持っていたが、今聞いた話を以てそれは否定された。村田監督は一文字に閉ざした口を開く。
「……私が持てなかった陸上に対して『好き』という感情を、陸上に対して誠実な君たちから見出したかったんだと思う」
村田監督の静かな告白は、私の胸に深く突き刺さった。それは、単なるチームの方針や技術論を超えた、彼の魂の告白だった。
「鬼頭。君には、私が持っていたような規格外の才能と、俺が持てなかった陸上への並外れた愛がある。君の走りは、計算を超えた爆発だ。まるで、鎖を振りちぎって、自由に空を駆けるようだ」
彼の眼差しは、私の中に眠る未知の力を見透かしているようだった。
「もちろん東も言わずもがな素晴らしい選手だ。彼女も陸上を心から愛している。『精密機械』のように、すべてをコントロール下に置き、設定タイムをクリアしていく。彼女の安定性は、私が選手時代、手に入らなかったものだ」
「だが、君はそれ以上の熱意と、まだ見ぬ圧倒的な爆発力を秘めている。はっきり言って君は"異端"だ」
村田監督は、力を込めてその言葉を口にした。
異端。その言葉に村田監督の大きな期待の重さがうかがえる。あの歴代屈指の天才ランナーにこれほどまで評価されているのだ。ランナーとして高ぶりが抑えられなかった。
だが、ここで一つ疑問が浮かぶ。なぜ私だけにこのような衝撃的なカミングアウトを行ったのか。そして、なぜ名古屋ウィメンズマラソンが一週間前に控えるこの時期に。
その疑問を払しょくするために私はバカ正直に聞いてみる。
「……村田監督の秘めたる思いはよく伝わりました。でも、なぜこのタイミングで、なぜ私だけに打ち明けてくれたんですか?」
私のそんな愚直な問いかけに、村田監督は再び深いため息をついた。その息は、彼の胸中に渦巻く葛藤と長年の重荷を物語っているようだった。
「……本当に身勝手な願いであることは分かっている。だが、どうか聞いてほしい」
一度天井を見上げ、目を大きく見開く。それほどまでにこれから吐露する言葉は村田監督にとって決心することが難しいことなのだろうと分かる。
「何度も言うが東は素晴らしいランナーだ。それに何の文句は言わせない。だが、長野・北海道・大阪と続いた彼女の走りでは私の陸上に対して冷え切った態度は改善することはできなかった。そこで鬼頭、君だ。東の安定した走りとは正反対の君の爆発による衝撃で、君がいかに陸上に対して『好き』という感情を持っているか私にぶつけてほしい。そうすることで私は陸上に対してポジティブな感情を抱くことができるかもしれない」
村田監督は熱っぽくそう語る。
礼ができなかったことが私にできるのかという一抹の不安はあった。
「その願い、叶えて見せます!」
そんな不安な気持ちとは裏腹に、自然とその熱意に押されて口に出ていた。それほどまでに村田監督は必死で私に縋り付いているように見えた。
だが、そうまでして彼を陸上が好きになりたいのかという根本の疑問は残る。
「なぜそこまで陸上が好きになりたいんですか?」
再び愚直に村田監督へ訪ねる。先ほどまでの葛藤した様子はどこへやらといった調子で、即答する。
「先ほども言ったように陸上に対する情熱がない人間が上位に立って、陸上に対して熱のある人間が下位に追いやられるという今までのことを償いたいという感情もあるし、最大の理由はそれに通ずる部分がある」
「……最大の理由は君たち三人に申し訳が立たないという理由だ」
私の顔には困惑が広がっているだろう。知らぬ間に私たち三人が村田監督をこれほどにまで追いつめていたのか。そう思うとクエスチョンマークが脳内を占める。
「君たち三人が陸上にかける熱がすさまじいことを改めてこの一年間で思い知ったんだ」
村田監督が昔話をするように目を細めて語り出す。
「チーム名を決める際、私以外の君たち三人は紡ぐ言葉は違えども陸上に対する『情熱』が垣間見れたときや、この多気町での練習風景を見ていて、私と君たち三人では生きている世界が違うのだとまざまざと実感させられた」
その語り口調は哀愁をただわせるものがあった。
「そんな情熱を無碍にはしないため私もできる限りのことは尽くしたつもりだ。そして、陸上を愛していないということを隠し通すつもりだった。だが、それをやめたくなった決定打の瞬間がある」
「それは東の大阪国際女子マラソンのインタビューだ。名古屋ウィメンズマラソンに変わらず出走するといった際、雷に打たれたような衝撃が私の体をほとばしった。私の顔がカメラに抜かれなくてよかった。それほどまでに驚いた顔をしていたと思う」
乾いた笑いを村田監督は見せるが、再び表情が真剣なものに変わる。
「衝撃的な発表に驚きを感じると同時に、それほどまでの情熱を持ち合いたいという気持ちがふと思い浮かんだんだ。あの輝いた東の表情は純粋に陸上を愛しているだけのピュアなランナーだと眩しく見えた。そのまばゆさが私を引き付けたんだ。あれほど純真な笑顔を私も浮かべてみたい。それを実現するには陸上を愛することが必要不可欠なはずなんだ」
村田監督の言葉は、まるで長年にわたり心に絡みついていた鎖が、今、一つずつ外れていく音のように響いた。彼の目は、私や東が持つ「陸上への愛」という、彼にとっての"光"を必死に見つめようとしていた。
「……だから、鬼頭」
村田監督は、テーブルの上のコース図ではなく、私自身の目をしっかりと捉えた。
「こんなどうしようもない監督の思いも背負って走ってくれないか……」
その言葉は私の燃えたぎる走りに対する情熱にさらにガソリンを投入したかのようだった。
この人がいなければ、私は競技者のままいられなかった。まさに走りの恩人だ。
「……その言葉は、私にとって、自分の走りをさらに加速させる材料です」
私の声は、先ほどの監督の告白に対する驚きや戸惑いを一切含まず、ただ純粋な熱意と喜びに満ちていた。ローテーブルを挟んで、私は監督の目をまっすぐに見た。
「監督。おかしな話かもしれませんけど、私、この初マラソンのレースプランを最初に聞いたときから、『できる』という根拠のない自信がありました。その自信がどこから来るのか分からなかったけれど、今、それが分かった気がします」
私は、自分が持つ『爆発的なスピード』や『後半の強さ』という才能以上に、誰よりも陸上を心から愛する気持ちこそがこの根拠のない自信の源だと直感した。
「村田監督。私は、監督が『陸上を好きになる』ための走りをします。監督が今まで見たこともないような、計算外の爆発を名古屋の地で起こしてみせます。そして、最高の笑顔でナゴヤドームのゴールを駆け抜けます。だから、監督が本当に望むものを見つけてください。そのために月並みな言葉ですが、一生懸命走ります」
私の決意に満ちた言葉に、村田監督の顔が大きく歪んだ。その目には、これまで見たことのない、安堵とも、感動ともつかない複雑な感情が溢れていた。
「鬼頭……」
村田監督は少しの間、何も言わずに私を見つめた。やがて、彼は震える手でローテーブルの上のコース図を指し、自嘲気味に笑った。
「本当に、君は異端だ。初めてマラソンを走る人間に、自分の人生の重荷まで背負わせて走らせようとする監督なんて、聞いたことがない。……だが、その言葉、非常に嬉しい。いや、心強い」
村田監督は、私の持つ「陸上への愛」こそが、自分の人生の『鎖』を断ち切る唯一の鍵だと確信しているようだった。
「分かった。君のその熱意に、改めて敬意を表する。そして、この身勝手な願いを背負ってくれることに、心から感謝する」
村田監督は、立ち上がり、私の肩に手を置いた。その手は、かつての『走りの天才』の、しかし今は一人の人間としての重みと、深い信頼を伝えてきた。
「さあ夕飯を食べに行きましょう。きっと待ってくれていますから」
私はそう言って立ち上がる。それを見て、村田監督も立ち上がり足を進める。
この部屋と外の世界を隔てる襖を開け、暦上では春でも冬の気配を色濃く感じる廊下を渡り、温かい夕食の匂いが満ちるリビングへ足を踏み入れる。
「遅いぞ、二人とも!」
村田監督の叔父さんが、大きな声で私たちを迎え入れた。リビングのテーブルには、東と大井ヘッドコーチがすでに座っていた。
「すまない、叔父さん。最後の確認に時間がかかってしまった」
村田監督は、平然とした様子で答えた。
大井ヘッドコーチは、私たち二人を一瞥し、眉間に深い皺を寄せた。
「本当にただの確認か? 村田。妙に顔がスッキリしているように見えるぞ」
大井ヘッドコーチのその指摘は鋭かった。さすがは大学四年間苦楽を共にしてきた仲間たる所以か。
村田監督は、そんな鋭い指摘に動じることなく、ただ笑みを返した。
「何を言っているんだ、大井。ただ、最高の才能を目の前にして、胸を躍らせているだけだよ」
その言葉は、東を褒めているようにも、私を褒めているようにも取れた。しかし、私には、その言葉の裏に、監督自身の"解放"への期待が隠されていることがわかっていた。
礼は、そんなやり取りには関心を払わず、静かに箸を取り上げた。彼女の顔には、レースに向けての揺るぎない集中が宿っている。
「清美、早く食べなきゃ。せっかくの叔父さんのご飯、冷めちゃうよ。エネルギーをしっかり補給しないと」
私は監督の隣に座り、東の一切の揺らぎがない凛とした横顔を見た。
彼女は、与えられたプランを完璧に遂行するランナー。
私は、大爆発の可能性を秘めたランナー。
二つの「強さ」が、名古屋でぶつかり合う。
テーブルを挟んで、私と礼が向き合っている。
礼──「精密機械」。設定タイムをミリ秒単位で刻む、完璧な走り。長野、北海道、大阪と、一度も期待を裏切らない安定性。
そして私──「異端」。計算を超えた爆発。誰も予測できない、制御不能の加速。
私の中で、ある思いが固まっていく。
(礼。ごめんなさい。これは、あなたとの優勝争いだけじゃない。あなたの設定タイムすらも、通過点にします。私と監督の『解放』のために、全てを懸けて走る)
私は、深く心に誓い、静かに手を合わせた。
「いただきます」
夕食の湯気が、私の決意を包み込む。
戦いは、もう始まっていた。




