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2.結成

 秋風が肌に冷たく染みる午後八時前。

 練習を終え、メートク女子陸上部のグラウンド近くに借りているアパートへ戻ろうと歩き出したそのとき、ピコン、とチャットアプリの通知音がスマホから響いた。画面を見ると、差出人は大井だった。

 『二十時から第一会議室を借りた。少し話せるか?』

 短く、しかし有無を言わせぬ口調。きっと、あの話――新チーム設立の件だろう。大学時代、同じ釜の飯を食った仲間として、無謀にも思える自分の計画を、熱血に止めようとしているに違いない。

 『了解した。先に待っている』

 そう返すと、すぐに既読の文字がついた。

 気が進まないまま第一会議室へ向かい、室内灯をつけ、誰もいない革張りのソファに深く腰を沈める。夕方の練習の疲労が、どっと体に押し寄せてくる。

 本当に、この計画を実行していいのだろうか。

 有賀監督が言うように、自分には実績がある。元日本代表という肩書き、三年間で築き上げた指導者としての評価。指導者としてはまだ若い三一歳。これからのキャリアを考えれば、無理をする必要などない。

 しかも、自分にはすでに移籍先――新設される"メートク・クラブチーム"への内定がある。

 女子陸上界の名門・メートク。数多くの日本代表を輩出してきたその圧倒的なノウハウと、Aチームの中でもさらに選抜された少数精鋭の体制。最新のトレーニング設備、豊富な遠征費、充実したサポートスタッフ――恵まれた環境が約束されている。

 そこに所属していれば、好成績は約束されたも同然だ。数年もすれば、女子陸上界の雄として確固たる地位を築くだろう。収入も申し分ない。安定した未来が、手を伸ばせば届く場所にある。

 だが、昨日の定例会で見た光景を思い出すと、その「安定の道」は、自分にとって「苦悶の道」にしか見えなかった。

 Bチームの選手たちを「不良債権」だの「効率が悪い」だのと切り捨てるような言葉が飛び交っていた。小山田の冷徹な視線、金森の無機質な声――あの場にあったのは、人間ではなく数字だけだった。

 彼女たちだって、望んでBチームにいるわけではない。怪我、スランプ、成長の遅れ――それぞれに事情がある。才能が開花する時期は、人によって違うのだ。

 たとえば今、Aチームのエースとして活躍している東も、わずか一年半前まではBチームで燻っていた。だが、本人の努力だけではなく、指導者や仲間たちとの切磋琢磨があってこそ、彼女は見違えるほどの選手へと成長したのだ。

 Bチームを切り捨てるようでは、"メートク・クラブチーム"に未来はない。効率だけを追求したチームは、いずれ選手の心を置き去りにし、空洞化していくだろう。

 そして何より、自分の目の前で、あの選手たちを侮辱されたことがどうしても許せなかった。

 なぜなら、自分が「走ること」以外で自己を証明できるようになったのは、彼女たちと過ごしたメートクでの日々があったからだ。この三年間こそが、自分の人生にとってかけがえのないものだった。彼女たちがいなければ、今の自分はいない。

 コンコンコン、と短くノックが響く。

 思考が中断され、現実に引き戻される。ドアの向こうに現れたのは、監督と大井の姿だった。なぜ二人一緒に? と思う間もなく、二人は横並びになってソファに座った。

 少しの静寂がこの会議室全体を包んだ。誰も口を開かない。張り詰めた空気の中、監督がゆっくりとその沈黙を破った。

 「村田コーチ。もう一度尋ねる……今日の話は本気なのか?」

 その問いに、私ははっきりとうなずいた。迷いはなかった。

 「はい。本気です。来年三月に理不尽に放出される選手たちを、黙って見ていることなんてできません」

 監督はしばらく黙っていたが、やがて小さく、そして複雑な表情で笑った。

 「……馬鹿だな。だが、悪くない」

 監督の目には、失望ではなく、むしろ温かい光が宿っていた。

 「村田コーチ、君の覚悟は理解した。本当によく理解した」

 監督は一度、深く息を吸い込んだ。

 「だが、私には家族がいる。妻と、二人の子どもがいる。小山田の提案を受け、メートクを離れて女子陸上部のサクラの監督を務めるつもりだ。家族を養わなければならない。生活を守らなければならない……だから、君たちを助ける手段がない。本当に申し訳ない」

 監督は唇を噛みしめた。その表情には、自責の念と無念さが滲んでいた。監督としての責任と、一人の父親としての責任――その板挟みに苦しんでいるのが、痛いほど伝わってきた。

 その肩に、大井がそっと手を置いた。

 「有賀監督。その選択は正しいと思います。家族を守ることは、何よりも大切なことですから」

 大井の言葉に、監督は小さく頷いた。

 否定の言葉が飛び出すかと思ったが、大井から返ってきたのは、まるで正反対のものだった。

 「村田。俺も"メートク・クラブチーム"のコーチ就任の話が来てる。好条件だ。給与も、環境も、全て申し分ない」

 大井は一度、言葉を切った。そして、いつもの熱血漢ぶりそのままに、迷いなく言い切った。

 「だけど、そんなもん、全部放り出す。お前の新しいチームに入らせてくれ!」

 「大井! 正気か!?」

 私は驚愕の声を上げた。

 「正気じゃないのはお互い様だろ? 俺だって、Bチームの面々を切り捨てるようなチームになんか入りたくねえ! 数字でしか人を見ないような場所で、何が情熱だ。何が走る喜びだ!」

 大井の声は、会議室に響き渡った。その即断に、私の胸に温かい波紋が広がった。

 大学時代、冷静な村田と熱血な大井はよく衝突した。考え方も、性格も正反対だった。だが今、二人は「守りたいもの」という同じ目標で結ばれていた。価値観が違っても、目指す場所が同じなら、人は共に歩むことができる。

 「ありがとう。本当にありがとう、大井」

 私は心の底からそう言った。声が少し震えていた。

 「おいおい。まだ選手も集まっていなけりゃ、練習場所も資金繰りについても何にも決まってないんだろ。俺が新チームに参加しただけでそんな声を上げてりゃ、先が思いやられるぜ」

 照れ臭そうに大井はぶっきらぼうに言い放ったが、それでも私にとっては新チーム発足への大きな第一歩に違いなかった。孤独な戦いではなくなった。共に歩む仲間ができた――それだけで、胸が熱くなった。

 部屋を出るとき、監督が私と大井の背に向けて言った。

 「指導者としては、君たちの計画を止めておくべきだと思う。無謀すぎる。リスクが大きすぎる」

 私たちは振り返った。監督の表情は、複雑だが温かかった。

 「だが、一人の陸上を愛する人間としては、君たちの挑戦を心から応援するよ。本当に、心から」

 その声は、冬が一歩手前に迫る十月の冷たい空気よりも、ずっとずっと温かかった。


 十月三十一日。ハロウィーンの日ということで、クラブハウス内も簡素ながらカボチャや骸骨の装飾が施されている。オレンジ色のライトが廊下を照らし、どこか浮足立った雰囲気が漂っていた。

 そんな浮ついた空気にのまれないよう、私と大井は気を引き締め直す。

 今日から、Bチームの選手を一人ずつ呼び出し、新チームへのスカウト活動を開始する。これからの数週間が、新チームの命運を決める。私たちの覚悟が、どれだけ彼女たちの心に届くか――全てはここにかかっていた。

 「単刀直接に言う。俺たちの新チームに入ってくれないか?」

 第一会議室は一瞬の静寂に包まれた後、一人目のターゲット・千葉が口を開いた。

 「私、メートク女子陸上部の解散をもって、陸上の世界から引退しようと思っているんです……」

 私と大井は驚きを隠せずにいた。なんせ、まだ千葉は高校を卒業してすぐの十九歳。伸びしろに溢れ、今年四月から現在までの成長度だけ見たら、その伸びはメートク女子陸上部の中でも随一だろう。将来有望な選手なのだ。

 「地元で行われていたクイーンズ駅伝で走っていたメートクの選手をきっかけに、私は小さな頃からメートク女子陸上部に入ることが夢でした。それだけを胸に、雨の日も風の日も走り続けてきたんです」

 千葉の声には、過去への懐かしさと、同時に何かを失った悲しみが混じっていた。

 再びの静寂に包まれたこの部屋を貫くように、千葉が再び口を開く。

 「でも、高校三年の時、学校に自分を目当てにメートクのスカウトが来た時――私の心の中で何かが燃え尽きた気がしたんです」

 「燃え尽きた?」

 思わず私は聞き返した。千葉はうなずき、握りしめた両手をじっと見つめていた。その手は小刻みに震えている。

 「夢が叶った瞬間、もうこれ以上の場所はないって思ってしまったんです。メートクに入れることが確定した時、『やりきった』気持ちになって……。でも現実は全然違いました。メートクに入社してからの私は、ただがむしゃらに走るだけで、自分が何のために走っているのか、わからなくなっていったんです」

 千葉の言葉には、迷子になった子どものような切なさがあった。

 「そして、先日の解散発表。それを聞いた瞬間――もう走らなくていいんだって、率直に思ってしまったんです……」

 その声はかすかに震えていた。千葉の言葉に、私は何も言えなかった。彼女の瞳は、どこか遠くを見つめているようで、その奥には疲労とも喪失ともつかない影が落ちているように見えた。

 燃え尽き症候群――目標を達成した瞬間に、全てのモチベーションが消えてしまう現象。スポーツの世界では珍しくない。だが、一九歳という若さでそれに直面している彼女を見ると、胸が痛んだ。

 「……一度、陸上以外の世界を見てみたいんです」

 「陸上以外の世界?」

 大井が問い返す。

 「はい。正直、怖いです。でも、陸上だけが私の全部じゃないって、そう思いたいんです。もっと広い世界を知りたい。走ること以外の自分を見つけたい」

 彼女の言葉に、私は胸の奥がチクリと痛んだ。

 陸上だけが全てじゃない――その言葉は、陸上に人生のほとんどを費やしてきた自分に向けられた刃のように突き刺さる。

 「……わかった」

 私は、やっとの思いでそう言った。

 「無理に引き止めたりはしない。君の人生だ。君が選んだ道を歩むべきだ」

 千葉は少し驚いたように顔を上げた。

 「だけど、また『走りたい』って思ったら――そのときは、迷わず戻ってこい。うちのチームは、いつだって君の席を空けておく」

 千葉は目を伏せ、そして小さく笑った。その笑顔には、少しだけ救われたような安堵があった。

 「ありがとうございます。そう言ってもらえるだけで、少し救われた気がします」

 彼女が部屋を出て行ったあと、静まり返った空気の中で大井がつぶやいた。

 「……あいつ、いい選手だったのにな」

 「『だった』なんて言うなよ」

 私は苦笑しながら言った。

 「きっとまた、どこかで走りたくなるさ。血が騒ぐんだよ、走る人間ってのは。一度走ることの喜びを知った者は、どこかでまた、あの感覚を求めてしまうものだ」

 私は思っていないようなことを口走る。

 燃え尽きてしまった炎は、簡単には再び灯らない。それでも、私の言ったような言葉を千葉が持っているとそう信じたかった。人間の心は、諦めたくなかった。

 私は名簿に次の名前を指でなぞった。

 「明日は由利を呼ぼうか」

 「おう。……でも、なんか重いスタートになったな」

 「まあな。でも、これが現実だ」

 ハロウィーンの飾りつけが揺れる会議室の中で、私はそう小さくつぶやくしかなかった。カボチャの明かりが、妙に虚しく見えた。


 十一月七日。木枯らしが吹き荒れ、クラブハウスの建付けの悪い窓をがたがた揺らす。外の木々は既に葉を落とし、冬の到来を告げていた。

 そんな中、私と大井は新チーム発足のため、今日も今日とてBチームの選手を一人ずつ呼び出し、スカウト活動を行っている。

 湯気の立つコーヒーをすすりながら、重苦しい沈黙を共有していた。

 「……昨日で、もう五人目だったな?」

 大井が、手元の名簿を見つめながらぼそりとつぶやいた。その声には、明らかな疲労が滲んでいた。

 「ああ。けど、誰も首を縦に振らない」

 ここ数日、私たちはBチームの選手を順に呼び出し、何度も説得を重ねてきた。だが、家庭の都合、心身の都合、将来への不安――様々な理由をつけて、新チームの入団打診を断られるばかりだ。

 断るのも無理はない。なんせ、チームメンバーは私と大井しか決まっておらず、練習環境も資金の提供元も全く決まっていない。机上の空論だと一蹴されても文句は言えない。口先だけの夢物語に見えるだろう。

 コンコンコンと静かになった室内へノックの音が響く。

 「どうぞ」と声をかけると、入ってきたのは和久井だった。やや俯き加減のまま静かにドアを閉める。

 「すみません、遅れました」

 「いや、ちょうどよかった。座ってくれ」

 彼女は素直に頷き、ソファの端に腰を下ろした。普段から感情をあまり表に出さないタイプの選手だが、今はいつにも増して表情が硬い。緊張しているのか、それとも既に答えを決めているのか。

 「単刀直入に言う。俺たちの新チームに入ってくれ」

 大井が、いつも通りまっすぐな声で切り出した。

 沈黙。窓の外で風が唸る音だけが響いた。

 しばらくして、和久井が静かに口を開く。

 「私、メートクが解散したら走るのをやめて、教師になります」

 昨日までの景色がデジャブのように繰り返される。拒絶の言葉。断られる現実。

 「……理由を聞かせてもらってもいいかな?」

 和久井が少し間を置いてから、こちらを真っ直ぐ見て話し出す。

 「大学時代は、オリンピアンになることが夢でした。その夢を実現するために、チームメイトの誰よりも走りを愛していたし、それに見合う努力を重ねていました。その覚悟と努力が実ったのか、ギリギリではありますけど、メートクに入社することができました」

 彼女の声は静かだが、その奥には深い感情が隠されているようだった。

 「でも、入社して一か月もしないうちに気づいたんです。一緒に走っているBチームの皆さん――私より速くて、私より努力していて……。その熱量に、もうついていけないんです。皆さんの『走る覚悟』が眩しすぎて、怖くなって」

 和久井の声は震えていた。けれど、その瞳には嘘がなかった。これは本音だ。偽りのない、彼女の心の叫びだ。

 「眩しい?」

 私が問い返す。

 「はい。私、走るのが嫌いなわけじゃない。でも、皆さんのように『全てを走ることに捧げる』覚悟が、どうしても持てなかったんです。他にもやりたいことがある。普通の生活も送りたい。でも、トップレベルで走り続けるには、全てを犠牲にしなければならない――その現実が、怖かったんです」

 その声は静かだったが、どこかに諦めの色が滲んでいた。

 私は思わず、言葉を選びながら返した。

 「……和久井。怖いと思うのは、逃げてる証拠じゃない。ちゃんと走ることと向き合ってきた証拠だよ。自分の限界を知っているということだ」

 彼女は少しだけ顔を上げた。

 「でも、怖いままでは前に進めません。私は、もう『速くなること』より、『誰かの背中を押せる人』になりたい。走ることの素晴らしさを、次の世代に伝えたい」

 和久井は一度、深く息を吸い込んだ。

 「それに、陸上部の顧問となって、メートクの選手のように『走る覚悟』を持った選手を生み出すのが、今の私の新たな夢です」

 大井が何か言いかけたが、私は手で制した。

 彼女の目の奥に、もう迷いがないことを悟ったからだ。これ以上引き止めるのは、彼女の決断を否定することになる。

 「……そうか。なら、もう止めない」

 私の言葉に、和久井は小さく微笑んだ。その笑顔には、重荷を下ろしたような安堵があった。

 「ありがとうございます。理解してくださって」

 和久井は立ち上がり、深く一礼して部屋を出ていった。その後ろ姿は、どこか晴れやかだった。

 残された私と大井の間に、また静寂が落ちる。

 外では、木枯らしが一段と強く吹きつけ、窓を鳴らしていた。まるで、私たちの焦りを煽るかのように。

 「……六連敗か」

 大井がぼそりと呟く。その声には、明らかな疲労と不安が滲んでいた。

 「いいさ。まだ始まったばかりだ」

 私はそう言いながら、冷めきったコーヒーを飲み干した。苦かった。

 

 十一月一八日。一九七九年の今日、世界初の国際陸連公認女子マラソンである第一回東京国際女子マラソンが開催されたそうだ。

 女子長距離界の歴史が始まった日――その記念すべき日に、私たちのチームの歴史も始まってほしい。そんな願いを抱きながら、私と大井は第一会議室で、今日のターゲットを待っていた。

 今日のターゲットをうちのチームに引き込むことができなければ、この計画は頓挫する。そうはなってほしくなかった。

 今日のターゲットは二十六歳の鬼頭だ。高校時代は「都大路の鬼」と称され、日本の女子陸上界を背負う存在として期待された。だが、大学時代に負った怪我で大学、そしてこのメートクでも目立った成績は残せていない。しかし、素材は抜群だ。

 窓の外は、昨日よりもさらに寒さが増している。空は鉛色に曇り、今にも雪が降り出しそうだった。

 コンコンコンと、聞き慣れたノックの音が、静寂に満ちた第一会議室にこだまする。

 「どうぞ」と短く返事すると、最後のターゲットである鬼頭が姿を現した。

 ジャージ姿で、どこか緊張した面持ち。しかし、その眼差しには、隠しきれないほどの強い光が宿っている。まるで、何かを決意してきたかのような――そんな強い意志を感じさせる目だった。

 「鬼頭、来てくれてありがとう。座ってくれ」

 私はヒーターの温もりが届くように、ソファの中央を指した。鬼頭は静かに腰を下ろしたが、両手は膝の上で固く握られている。緊張しているのか、それとも言いたいことがあるのか――その表情からは読み取れなかった。

 「単刀直入に言う。私たちと本気で走ってくれないか?」

 大井は、今日こそはという想いを込めて、力強く切り出した。その声には、これまでの十四連敗の重みと、それでも諦めない意志が込められていた。

 鬼頭は、すぐに答えることができなかった。

 彼女は、目を閉じ、長い沈黙の後、小さく深呼吸をしてからゆっくりと話し始めた。その仕草には、何か大きな決断をする前の緊張感があった。

 「……正直、これを機に走ることを辞めようと思いました」

 その言葉に、私と大井は息をのんだ。

 十五連敗――この時点で、全選手への打診が終わってしまう。全滅だ。私たちの計画は、ここで終わるのか。

 「高校時代は、好きな走りを好きなだけやって、結果がついてきました。何も考えず、ただ走ることが楽しくて、気づけば都大路で区間賞を取っていた。三年生の時には区間新記録まで出せた」

 鬼頭の声には、過去の栄光への懐かしさが滲んでいた。

 「でも、大学時代からは――ただがむしゃらに走っても結果がついてこないことに、初めて気づいたんです。走りについて、焦りを覚えました。『このままじゃダメだ』『もっと速くならなきゃ』って」

 彼女の声が、震え始めた。

 「その不安を払拭するために、今までよりも走って走って走りまくった。朝も夜も、休む暇なく。でも結果は、怪我でした。その怪我で思い通りに走ることができなくなった――それが、大学時代、そして今まで続く惨状です……」

 鬼頭の声は、震えていた。彼女は、本当の「天才」なのだろう。効率も考えず、科学的なトレーニング理論も無視した、ただひたすらがむしゃらな練習だけで、二年連続での都大路で区間賞。それも三年生には区間新記録――そんな選手は、滅多にいない。

 だが、どんな天才にも「スランプ」の時期は訪れる。今まで登り竜のように伸びていたタイムが、急に伸びなくなった時――走りに真摯すぎる彼女は「練習量が足りていない」と思い込んで、無茶な練習を重ねてしまったのだろう。その結果が、現在まで続く走りの不調なのだと、容易に推察できた。

 「特にメートクに入社してからは、走るたびに、『どうすれば速くなるか』じゃなくて、『どうすれば失敗しないか』ばかり考えていました。練習中に少しでも調子が悪いと、『もうダメだ』って。走ることが――好きじゃなくなりそうになるのが、本当に辛かった……」

 彼女は、手のひらで顔を覆った。その様子は、過去の苦悩を全て吐き出そうとしているかのようだった。肩が小刻みに震えている。

 「鬼頭……」

 大井が何か声をかけようとしたが、私はそれを制した。今は、彼女の話をただ聞くべき時だ。全てを吐き出させてやるべき時なのだ。

 鬼頭は顔を上げ、涙をこらえながら、続けた。その目は赤く、でも強い光を宿していた。

 「メートクがクラブチームになれば、私は確実に切り捨てられる。実績がない、結果が出ていない――それは、仕方がないって。むしろ、これを機に、この苦しみから解放されるんだって、そう思おうとしていました」

 彼女の声は、諦めに満ちていた。だが――。

 「だが、君は本当にそれでいいのか?」

 私が静かに、しかし力強く問いかけた。

 鬼頭の体が、ビクリと震えた。

 「君は、誰よりも走ることを愛している選手だ。朝、誰よりも早くグラウンドに出て、夜、誰よりも遅くまで一人で黙々と走り込む。霧雨の中でも、風の強い日でも、君は走るのをやめなかった」

 私は、彼女の目をまっすぐ見つめた。

 「それは、誰かに見せるためじゃない。評価されるためじゃない。心の底から、速く走りたい、走ることが好きだという――純粋な想いがあるからだろう?」

 鬼頭の瞳が、私をまっすぐに見つめ返した。その奥に、炎のような強い光が灯った。

 そして次の瞬間――。

 「もう一度、自分の好きな走りを、大手を振って好きと言えるようになりたい!」

 鬼頭が、立ち上がった。その声は、会議室全体に響き渡った。

 「もう一度、あの頃――いや、それ以上の走りを手にして、好きな走りを満喫したい!」

 彼女の目には、もう迷いはなかった。

 「私は――死ぬまで走り続けていたい! 死ぬまでトラックに立っていたい!」

 彼女は、握りしめていた両手をゆっくりと開いた。そして、私と大井に向かって、宣言するように叫んだ。

 「村田コーチ! 大井コーチ! お二人の新チームには、練習場所も資金もない。成功する保証なんて、どこにもない。それは、わかっています!」

 鬼頭は、そう言い切ると、不意に、少しだけ笑った。

 その笑顔は、これまでの重苦しい表情とは全く違う――久しぶり、いや、もしかしたら初めて見るかもしれない「鬼頭らしい」笑顔だった。純粋な、曇りのない、希望に満ちた笑顔。

 「でも……私、もう一度、好きな走りを、自分のために、思いっきり走りたい……」

 彼女は、決意を込めた眼差しで、私たちを交互に見た。

 「このまま引退したら、きっと後悔する。『あの時、もう一度挑戦していれば』って、一生後悔する。だから――私を、新チームに入れてください。もう一度、ゼロから、私を走らせてください!」

 その言葉に、私と大井は顔を見合わせた。

 大井の目には、熱いものが込み上げているのが見て取れた。彼の頬を、一筋の涙が伝っていた。

 「……もちろんだ!」

 私が返事すると同時に、大井が立ち上がり、鬼頭の肩を力強く掴んだ。

 「鬼頭! よく言ってくれた! 成功の保証なんてなくても、俺たちが、お前の『走りたい』って気持ちを、全力でサポートする! お前をもう一度、誰よりも速いランナーに――絶対にしてやるからな!」

 私も立ち上がり、鬼頭に手を差し出した。

 「歓迎するよ、鬼頭。私たちの新チームの、最初のメンバーとして」

 私は、彼女の目を見つめた。

 「ここには、君の『好き』を、誰にも奪わせない場所がある。結果ではなく、情熱を大切にする場所がある。君が、君らしく走れる場所が、ここにある」

 鬼頭は、私の手を取り、深々と頭を下げた。

 「ありがとうございます……! よろしくお願いします!」

 その声には、もう迷いはなかった。ただ、純粋な希望と、走ることへの愛だけがあった。

 窓の外は、夜の闇が濃くなっていた。だが、会議室の中には、確かな希望の光が灯っていた。

 「これで、一勝十四敗か」

 大井が、感慨深そうに呟いた。その声は、もう弱々しくない。力強さを取り戻していた。

 「はは。だが、この一勝は、何物にも代え難い」

 私は、鬼頭の顔を見て、そう断言した。

 走りたいと思いながらも陸上の世界から追い出される人間が、一人でも減った。その事実だけで、筆舌に尽くしがたい喜びがあった。

 Bチームのメンバーは皆、確かに「走る」ことへの情熱を胸に抱いていた。

 しかし、先日の衝撃的な発表や入社直後の挫折など個々の事情とタイミングは違えど、その情熱は決定的な「傷」を負ってしまった。

 その傷口から、冷たい諦念という「細菌」が侵入し、やがて「膿」となって内側から情熱を蝕んだ。その結果、彼女たちの心にあったはずの炎は、いつしか形を失い、腐り果ててしまったのだ。

 それを否定するつもりは毛頭ない。

 陸上から離れて新たな道を歩み出す者、ランナーとしてではなく指導者として別の形で陸上に関わる者――その選択は素晴らしく、心から応援したい気持ちでいっぱいだ。

 だが、鬼頭は違った。

 彼女の実際の走りは、率直に言って燻っている。伸び悩み、もどかしさに苛まれているのは明らかだ。結果も出ていない。周囲からは「終わった選手」と見られているかもしれない。

 それでも、鬼頭の胸の奥底には、「それでも走りたい」と願う焼け付くような思いが、溶岩のようにたぎっていた。

 周囲が走りへの情熱を一人、また一人と失っていく中でも、彼女一人の情熱だけが、激しく燃え続けていたのである。

 そんな彼女を、メートクから離れて指導してみたい。

 そんな彼女の走りを、間近で見ていたい。

 そんな彼女に、自分の人生を賭してみたい。

 そんな熱い思いを、陸上に関わる中で抱くとは――指導者になる前の自分に言ったら、鼻で笑われるだろう。「走りに無関心だったお前が、何を言っているんだ」と。

 だが、そんなことどうでもいい。

 それほどまでに私は――そして、きっと大井も――彼女と。


 鬼頭が新チームに入ることが決まったその日の夜。

 私と大井は、新チームの計画が動き出したことに歓喜し、ささやかではあるが祝勝会をすることにした。場所は、私のアパートの一室。質素だが、これまでの連敗を考えれば、最高の場所だった。

 「乾杯!」

 大井の乾杯の音頭が、私と大井しかいないアパートの一室に響く。いつもは静かなこの部屋だが、今日は祝杯の熱気で満ちていた。

 テーブルの上には、近所のスーパーで買ってきた安いビールと、パック入りの唐揚げ、冷凍の枝豆が並ぶ。決して豪華ではない。だが、これまでの連敗の重さ、そして今日の勝利の重みを考えれば、これは最高の祝宴だった。

 「いやぁ、まさか鬼頭が入ってくれるとはな! 正直、これで全敗かと思って、生きた心地がしなかったぜ!」

 大井は缶ビールを一気に煽ると、豪快に笑った。その目の下の隈はまだ残っているが、瞳には確かな希望の光が宿っている。疲労よりも、喜びの方が勝っていた。

 「私も、正直諦めかけていた」

 私も缶ビールを傾けながら、しみじみと語った。

 「千葉の燃え尽き、和久井の恐怖など――それぞれに、陸上を続けることよりも、新しい人生を歩むことの方が、Bチームの彼女たちにとって正しかったのかもしれない。それを否定する気はない」

 私は一度、言葉を切った。

 「だが、鬼頭は違った。彼女は走ることへの『好き』を、誰にも負けないくらい強く持っていた。ただ、その『好き』が、結果へのプレッシャーやスランプという形で、自分自身を苦しめていたんだ」

 大井は、真剣な表情で頷いた。

 「私たちが必要だったのは、『もう一度、自由に走りたい』と願う、純粋な炎を持った選手だ。鬼頭こそ、まさにそれだった」

 「全く同感だ! あいつが立ち上がって、吠えた時、鳥肌が立ったぜ! 『死ぬまで走り続けていたい!』なんてよ! あんな熱い言葉、久しぶりに聞いたぜ!」

 興奮気味に大井は私の背中をバンバンと叩く。その力強さに、思わず咳き込みそうになりながら、私は大井を軽くいなした。

 そして、一人思いに耽る。

 鬼頭という才能の塊が、本社の「効率」重視の運営方針によって陸上の世界から淘汰されるif の世界線――それを想像するだけでもゾッとする。

 彼女のような選手を「不良債権」の一言で切り捨てるメートクの新しいクラブチームに、私は断固として未来を感じなかった。数字だけで人を測る場所に、本当の強さは生まれない。

 そんな中、「ピンポーン」とインターホンが鳴った。

 「こんな夜分遅くに誰だ?」

 少し警戒感を抱きながら玄関まで行く。ドアスコープを覗いてみると――そこには、意外な人物の姿があった。

 東だ。

 なぜここに? という疑問もそこそこに、東が遠慮がちにこちらへ声をかけた。

 「村田コーチはいらっしゃいますか? 東です。お話したいことがあって、お尋ねさせてもらいました」

 私は驚きを隠せなかった。

 東はAチームのエース。現在のメートク女子陸上部の中で、最も成功を収めている選手であり、新設される"メートク・クラブチーム"の顔として内定が決まっているはずだ。

 彼女が、なぜこのタイミングで、私のアパートに?

 「東? どうしたんだ、こんな時間に」

 ドアを開けると、冷たい夜風と共に、東がそこに立っていた。黒いダウンコートを羽織り、練習着ではない私服姿。マフラーを首に巻き、吐く息が白い。

 その表情は、トラックを走る時のような自信に満ちたものではなく、どこか不安と決意が入り混じった複雑な色を帯びていた。

 「コーチ、お酒の最中でしたか。夜分遅くに失礼します」

 「いや、構わない。入ってくれ。大井もいる」

 東は一瞬ためらい、足元の冷えた廊下に視線を落としてから、ゆっくりと部屋に入ってきた。

 暖房と、先ほどの祝杯の熱気でこもった部屋のむっとするような空気に、東は一瞬戸惑ったようだ。外の冷気との温度差に、思わず息を整える。

 大井もまた、予想外の来客に目を丸くして立ち上がった。

 「おう、東じゃねえか! どうしたんだ、エース様がこんなところに? まさか、激励か?」

 大井が生粋の下戸であることを、私はすっかり忘れていた。缶ビール半分で既に陽気な酔っ払いと化している大井は、普段よりも一層軽い口調で東に問いかけた。

 しかし、東はその問いかけにすぐに反応しなかった。

 彼女は私と大井の前に進み出ると、張り詰めた空気の中、深く頭を下げた。その動作は、決意に満ちていた。

 「村田コーチ、大井コーチ。私を、お二人の新しいチームに入れていただけませんか」

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭から酔いが完全に吹き飛んだ。

 まるで冷水を浴びせられたような衝撃。私と大井は、目を合わせ、言葉を失った。何が起きているのか、理解するのに数秒かかった。

 「東、何を言ってるんだ? 正気か?」

 私が問う。

 「君はメートク・クラブチームのエースとなるのだろう? 君の席は、確固たる未来として確約されているはずだ。好待遇、最高の環境、そして誰もが羨む地位――全てが約束されている」

 東はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、暗い夜の光を反射し、強く揺らめいていた。

 「はい。ですが、私は、メートク・クラブチームには行きません。昨日、正式に辞退を申し出ました」

 「辞退!? ふざけるな! 冷静になれ! 東!」

 大井が、テーブルを叩く勢いで声を荒げた。酔いが一瞬で吹き飛んだようだ。

 熱血漢かつ酔っぱらいの彼が「冷静になれ」と叫ぶほどに、メートク・クラブチームのエースという地位は、東にとっての安定と、誰もが羨む未来を約束するものだったのだ。

 東は静かに、しかし確固たる意志を持って頷いた。その表情には、迷いがなかった。

 「十月の定例会で、金森本部長と小山田サポートスタッフがメートクの解散を申し出る際、Bチームの選手たちを『非効率』だとか『不良債権』だと吐き捨てた、という噂を聞きました」

 「……誰からだ?」

 「有賀監督です」

 東は、一度大きく深呼吸をして、感情を落ち着かせてから続けた。

 「有賀監督が皆の前で定例会の内容を話す際、あまりにも端的すぎて――その中ではひと悶着あったんじゃないかと睨んだ私が、定例会の内容を詳しく教えてほしいと、頭を下げて頼み込んだところ、正直に話してくれました」

 東は、一瞬目を閉じた。そして、再び開いた時、その目には強い決意が宿っていた。

 「私がAチームのエースになれたのは、村田コーチ、そしてBチームの先輩たちとの、あの熱い練習があったからです」

 彼女の声は、感情を抑えながらも、確かな強さを持っていた。

 「一年半前、Bチームで出口の見えないスランプと怪我に苦しんでいた私を、村田コーチは見捨てなかった。『焦るな。君の才能は努力を裏切らない』と――ただ練習量を増やすのではなく、私の好きな走りを尊重し、心を支えてくれました」

 彼女は、一瞬、目を閉じる。その表情には、過去の苦しみと、それを乗り越えた喜びが去来しているようだった。

 「Bチームの先輩たちも、いつも温かく見守ってくれた。調子が悪い日も、『大丈夫、お前は強い』って励ましてくれた。その環境があったから、私は這い上がれたんです」

 東は、まっすぐ私たちを見つめた。

 「そして、私は昨日知ったんです。私を実績のある一流のランナーに成長させてくれたあの場所――多様な選手がいて、怪我やスランプを互いに支え合う、あのメートクの環境そのものが、『効率が悪い』という一言で冷酷に切り捨てられようとしているのだと」

 東の声には、怒りと悲しみが混じっていた。

 「私は、そんなチームで走りたくありません。数字だけでしか人を見ない、心のない場所では、きっとまた、過去の私のように苦しむ選手が出る。そして、その選手は、情け容赦なく、切り捨てられる」

 東は、すべてを賭けたような、強い決意を込めて言った。

 「私には、確固たる実績があります。でも、その実績は、決して私一人の力じゃない。支えてくれた人たち、励ましてくれた人たち、共に走ってくれた人たちがいたから、今の私がある」

 彼女は、深く息を吸い込んだ。

 「私は、村田コーチと大井コーチの目指す、『誰も切り捨てられない、情熱の場所』で走りたいんです。結果だけじゃなく、人を見てくれる場所で走りたい」

 再び、彼女は静かに、深く頭を下げた。

 「お願いします。お二人の新チームに、私を入れてください。現段階では練習場所も資金もないこと、すべて承知しています。ですが、私を、鬼頭と、共に走らせてください」

 私と大井は、完全に言葉を失い、ただ目の前の東の姿を見つめることしかできなかった。

 信じられない展開だった。エースが、確約された未来を捨てて、不確かな道を選ぼうとしている――。

 「は、はは……はっはっは!」

 沈黙を破り、大井が、突然、堰を切ったように笑い出した。彼の目には、熱い涙が浮かんでいる。

 「おい、村田! これはなんだ!? 逆スカウトだぞ! エース様からの! しかも、『鬼頭と共に』だと? 粋なこと言いやがるじゃねえか!」

 大井の声は、喜びと興奮で震えていた。

 私は、東の前に進み出た。そして、彼女の肩に手を置いた。

 「東。君の決断は、君のキャリアにとって、あまりにも大きなリスクだ」

 私は、真剣な表情で言った。

 「だが、その信念は、何よりも尊い。結果ではなく、人を見る――その選択は、何よりも誉れ高い」

 私は、彼女の手を取った。

 「歓迎するよ、東。君の加入は、私たちの無謀な挑戦にとって、最高の希望の光だ」

 東の目から、涙が一筋流れた。

 「ありがとうございます……!」

 これで、チームはコーチ二人、選手二人となった。

 鬼頭という『まだ輝ききれない、秘めたる才能』に、東という『燻りを味わったからこそ、信念を持つ実績』が加わった。

 「これで、二勝一四敗だ! やったな! 村田!」

 大井が、喜びの震えを隠せない声で叫び、ビールを勢いよく注ぎ足し、その勢いのまま流し込んだ。

 「ああ。私たちの挑戦は、夢物語から、紛れもない現実へと、大きくそして急激に舵を切った」

 冷たい夜風が窓の外で吹き荒れる中、私たちの心には、消えることのない、熱く、確かな炎が燃え上がっていた。

 奇跡的な夜だった。

 一日にして、鬼頭という未来の才能と、東という現在のエースの二人が、私たちの無謀だが情熱に満ちたチームへ加わったのだ――。



 十一月二七日。今日は愛知県民の日。

 地元密着企業として地域からの評判が高いメートク本社は、この日を休日としており、陸上部の運営も休みとなった。練習もなく、選手たちは束の間の休息を楽しんでいる。

 この機会に、私と大井、そして鬼頭と東は、ファミレスに集まった。平日の昼間のファミレスは空いており、奥の静かな席を確保できた。

 「新チーム結成についての話し合いを、今から始めようと思う」

 私が神妙な面持ちで話を始める。四人の前には、それぞれが注文したドリンクが置かれている。

 「まずは、こんな先行きが見えない不安定な新チームに入団しようと思ってくれたこと、あらためて感謝する」

 私は、二人を真っ直ぐ見つめた。

 「いやいや。村田コーチが新チームを立ち上げなかったら、私は走りに未練を抱えたまま、陸上の世界からサヨナラすることになっていたので、願ってもいない幸運でしたよ」

 鬼頭が朗らかに微笑みを振りまきながら、私に言い返す。その笑顔には、もう迷いはなかった。

 「ありがとう。そう言ってもらえると、このチームを立ち上げた甲斐があるよ」

 私は、一呼吸おいて、真っ直ぐ二人を見据えて再び口を開いた。

 「最初から、最も厳しい現実の話をする」

 私はコーヒーカップを置き、姿勢を正した。空気が一瞬で引き締まる。

 「東。君のキャリアと実績は、私たちにとって計り知れない希望だ。だが、メートク・クラブチームへの入団を辞退したことで、君はメートクから全ての支援を失うこととなる」

 私は、一つひとつ丁寧に説明した。

 「給料、練習場所、トレーニング機器、栄養管理、遠征のサポート――すべてだ。鬼頭も同様だ。今のところ、君たちは来年の四月以降、事実上の無所属となる」

 大井が、真顔で言葉を引き継いだ。

 「俺たちコーチ陣も、きっと無給でやることになるだろう。資金はゼロだ。企業チームのように、ポンと運営資金を出してくれるスポンサーも、今のところいない」

 大井は、苦い表情で続けた。

 「正直、四月からの練習場所のアテすら、まだ決まっていない。これが、私たちの現実だ」

 この事実を把握してもなお入団を決めた東も、不安そうな表情を浮かべる。だが、すぐに口をキュッと引き締めて、まっすぐ私を見た。

 「それは、承知の上です。だからこそ、私にできることをさせてください。できることは何でもやります」

 鬼頭も、強い眼差しで頷いた。

 「その言葉は、本当に頼もしい」

 私は、彼女たちの覚悟を称えた。

 「だが、当面の課題は、君たちが安心して競技に打ち込める環境を、来年四月までにどうやって作り出すかだ」

 私は、人差し指を立てる。

 「一つ目に、練習場所の確保だ。メートクのグラウンドやトラックは、もう使えない。公営の競技場を借りるにも、予約と使用料が必要になる。私たちの母校を当たってみることが、一番最初に取るべきステップ、かつ最終手段だろう」

 大井も続く。

 「それに、フィジカルを維持するためのジム代もバカにならない。ウェイトトレーニングは必須だからな」

 私は、人差し指に続いて中指も立てる。

 「そして二つ目に、資金繰り……当面の生活費と遠征費についてだ」

 私は、二人を見つめた。

 「君たちはまだ若いから、貯蓄があるかもしれない。だが、大会に出るための遠征費、ユニフォーム代、シューズ代――もろもろを含めたら、その貯蓄なんてすぐに吹き飛んでしまうだろう」

 鬼頭と東が、不安そうに顔を見合わせる。

 「そして、そんなギリギリの状態で陸上に打ち込むのは、精神衛生上非常に良くない。きっと、焦りが出てハードワークをしてしまい、自分本来の走りができなくなったりする」

 特に鬼頭は、走りに熱心すぎるところがある。活動できる期限が短いと、否が応でも体に刻み込まれると、絶対にハードワークを重ねて大学時代の二の舞となる。

 そうはなってほしくなかった。

 黙りこくった鬼頭と東を安心させるように、私は決心して言葉を紡ぎ出す。

 「もちろん、元日本代表という『値札』を最大限活用して、スポンサー探しには奔走する。だが、一朝一夕の短い時間で、そう簡単にスポンサーがポンポンとつくわけではないだろう」

 私は、少し間を開けて、覚悟を決めた。

 「だから、スポンサーが付かない期間は――私の財産を投げ売って、チームを運営していく!」

 高らかにそう宣言すると、三人の表情はあっけにとられたといった様子だった。

 いの一番に、鬼頭が口を開く。

 「村田コーチの財産で運営するって、大丈夫なんですか!?」

 鬼頭の指摘は的を射ていた。確かに、選手時代に獲得した賞金やメートクに入ってからの給与は、散財せずにしっかりと貯蓄している。

 だが、その財産も、メートクの圧倒的な経済力に比べたら、雀の涙だと容易に想像できる。

 「まあ、確かに懐はすぐに悲鳴を上げ出すだろう」

 私は、正直に認めた。

 「だが、自分のことはどうだっていい! それほどまでに私は、君たちに自分の存在証明をしてもらったと同時に、これからの未来に対して夢を見ている!」

 再度、あっけにとられた表情を見せる三人。私たちのテーブルに沈黙がこだまする。そして、私の発した言葉は、ファミレスの雑踏に溶け込んでいく。

 少しして、最初に口を開けたのは大井だった。

 「よし。日本代表様の財産に比べりゃ微々たるものかもしれねえけど、俺もチーム運営のために財産を賭けるぜ!」

 大井は、にやけながら、しかし真剣な眼差しで私に言った。

 鬼頭は「大井コーチまで!」と驚きに目を見開いている。東は唇を噛み締め、その目には熱いものが込み上げていた。

 「ありがとうございます、村田コーチ。大井コーチ」

 東は、声を震わせながら感謝を述べた。

 大井は照れくさそうに頭を掻きながら続けた。

 「おいおい、そんな畏まった態度を取るな。俺たちが守りたいのは、お前たちと村田が目指す『誰も切り捨てられない場所』だ。そのためなら、有り金全部叩いても惜しくない!」

 そう言って、大井は胸をバンと張る。

 これで、私たちのチームは、コーチ二人の全財産という、途方もないリスクの上に立つことになった。しかし、その無謀さこそが、このチームの情熱と覚悟の証でもあった。

 私は、東と鬼頭をまっすぐ見据えた。

 「君たちの練習環境、そして給与を保証できるのは、せいぜい一年弱が限界だろう」

 私は、厳しい現実を告げた。

 「それに、その期間で進む道は、一歩間違えれば谷底へ真っ逆さまの険しい道であると推測できる。改めて聞こう――それでも、ついてきてくれるか……」

 二人は顔を見合わせた後、私の目を曇りのない眼で真っ直ぐ見つめ、深くうなずいた。

 「よし。ありがとう。その覚悟があるなら、私たちは全力で応える」

 私は、力強く言った。

 東と鬼頭の存在が、私たちに途方もない希望と、同時に途方もない責任を与えてくれた。


 「今日話したかったのは、これだけじゃない。何なら、今からが主題だ」

 私は、ぬるくなったコーヒーを一口すすってから、話題を切り出す。

 「その本題というのは、チーム名についての相談だ」

 三人は一様に姿勢を正し、興味深そうに身を乗り出した。

 「いつまでも新チーム、新チームと言ってりゃあ、格好がつかないもんな」

 大井が快活に笑い、軽口を叩く。

 「ああ。それに、これからスポンサー交渉やメディアに名前を出す際にも、チーム名というのは重要になってくる」

 私はうなずきながら言葉を続ける。

 「私たちは、今から決定するチーム名を背負って活動をすることとなる。そんな重要なことは、私の一存では決めかねる。だから、今日皆を集めて話がしたかった」

 「承知した」と大井が短く相槌を打つ。

 「じゃあまずは、この話題を切り出した張本人の村田から聞かせてもらおうかな」

 大井は、備え付けの紙ナプキンをメモ用紙代わりに広げ、カバンから取り出したボールペンをくるくると回して構える。その様子は、どこか新聞記者のようだった。

 「新設される"メートク・クラブチーム"という名前は、あくまでも仮称だそうだ。だから、来年の四月で、"メートク"の名を冠した陸上チームは消滅する予定だ」

 私は、少し悲しげな表情で続けた。

 「日本女子陸上界を長きにわたって引っ張ってきた、由緒正しいチーム名が、いとも簡単に消えてしまうのは、あまりに惜しい。それに、メートク女子陸上部がなければ、私たちは出会うことも、こうして新チームを立ち上げることもなかっただろう」

 私は一度言葉を切り、少しだけ目を伏せてから続けた。

 「だから、私は新チーム名には、"メートク"のレガシーを残したい」

 その言葉に、東がすぐさま頷く。

「私は誰も切り捨てられない、情熱の場所であることを掲げたい。そういう意味を込めた名前にしたい。」

 私に続いて東も言葉を紡いだ。

「俺は陸上に対する情熱がたぎった名前が良い。」

 そう言った大井の声には、まるで心の底から湧き上がる熱のような力があった。

 最後に残された鬼頭は、腕を組んで少し考え込むような仕草を見せた。沈黙が数秒だけ私たちのテーブルに落ち、やがて彼女は静かに口を開く。

 「私は一度“終わり”を宣告された。でも、こうしてまた集まって、新しいスタートを切ろうとしている。そんな行動がとれたのは、『走りたい』という純粋な熱があるからだと思うんです。だから、そんな思いで溢れたチーム名にしたいです。」

 彼女の声は静かだったが、芯が通っていた。

 走ることへの“情熱”。

 気づけば、私以外の三人は皆それぞれの言葉で同じ想いを口にしていた。

 そのキーワードが、この新しいチームの核になるのだと、私は感じさせられた。

「ゼルメイトはどうだろう?情熱を意味するzealにチームの結束力を示すmate。そしてmateのMでメートクの要素も拾っている!」

 私がそう提案すると大井は快活にひと笑いした後、話し出す。

「安直すぎるかもしれねえが、俺はそのチーム名いいと思うぜ。」

 鬼頭と東の方に目をやると、二人とも納得した表情でうなずく。

「よしじゃあ、新チームもといゼルメイトは今日から仮始動だ。」

 愛知県民の日の午後。この瞬間、ゼルメイトという、情熱と覚悟で結ばれた新しいチームが誕生した。私たちは、その情熱だけで、一年弱という猶予と、険しいいばらの道を走り抜けることを誓ったのだった。

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