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1.解散

 愛知県名古屋市、大曽根に位置するメートク女子陸上部のクラブハウス。壁一面に並ぶ賞状やトロフィーが、このチームの栄光の歴史を物語るように煌びやかに輝いている。全国大会優勝の盾、国際大会出場の記念プレート、そして数え切れないほどのメダル――それらは長年にわたるメートクの誇りそのものだった。

 しかし今日、その輝きはどこか虚しく見えた。

 Aチームの選手十名、Bチームの選手十五名、そしてコーチやトレーナーなどの関係者が一堂に会している。普段なら笑顔と活気に満ちているはずのこの空間が、今は重苦しい沈黙に支配されていた。誰もが黙り込み、ただならぬ緊張感が室内を満たしている。

 その中心で、監督の有賀が立っていた。彼の表情は深刻で、これから告げる言葉の重さに耐えかねているようだった。

 「皆、唐突な話で驚くかもしれないが――」

 有賀は一呼吸置いた。その間が、やけに長く感じられる。選手たちの視線が一斉に監督に注がれた。

 「メートク女子陸上部は、来年三月をもって解散することが決まった」

 監督の言葉は、集まった人々の間で時を止めた。

 一瞬の空白の後、会場は騒然となった。何も知らされていなかった選手たちからは、悲鳴にも似た驚きと困惑の声が上がる。「嘘でしょ」「どういうこと」「なんで」――声にならない叫びが、クラブハウスに響き渡った。

 一方で、事情を知る一部の関係者たちは、ただ俯くか、何とも言えない表情でその様子を見つめるしかなかった。彼らの沈黙が、この決定の重さと覆しようのなさを物語っていた――。


 競技者を引退した後、真っ先に頭を占めたのは、これからの進路のことだった。

 現役を終えるという決断を公にした途端、いくつもの企業や学校からコーチや監督としての打診が舞い込んだ。実業団の強豪チーム、母校からの要請、新設チームの監督職。どれも好条件で、「元日本代表」という肩書きを最大限に活用した申し出ばかりだった。

 だが、私はそれらの誘いを、迷うことなくすべて断った。

 指導力について自信がなかったわけではない。二十年以上陸上に身を置き、トップレベルで戦い続けた経験がある。技術も理論も、一通り理解している自負はあった。

 それでも、私には決定的に欠けているものがあった。それは走りへの「愛」だ。

 走りを愛さなかった。いや、正確には走りを愛せなかった人間が、人に走ることの喜びを教える立場に立つなど、あまりにも不誠実に思えた。偽善者になる気はなかった。

 大学生活のほとんどを陸上に捧げたとはいえ、一応は卒業している。だから、理屈の上では一般企業に就職するという道もあった。しかし実際のところ、私は社会というものに対してほとんど免疫を持っていなかった。

 朝から晩まで走り続け、あとはトラックと寮を往復するだけの生活。その中で培われたのは、タイムを縮める技術と勝つための戦略だけだった。社会常識も、人間関係の築き方も、どこか現実離れした世界に生きてきた。マナー講座の話はまるで他言語のように思えた。

 そんな私が今さら、一般社会に溶け込める自信など微塵もなかった。無理にその道を選ぶのは、ある種の破滅願望に近いだろう。

 元トップアスリート――この肩書きは、一般社会では何の役にも立たない。履歴書に「日本代表経験あり」と書いたところで、「それで営業成績は上がるんですか?」と問われれば答えに窮する。

 だが陸上の世界ではこの肩書きは強力な「値札」になる。それは市場価値であり、信頼の証であり、そして時には厄介な枷であった。

 皮肉なことに、私の人生を最も縛っているのは、無関心だと散々思っていた「走り」そのものだった。走ることに無関心でありながら、走ることでしか生き方を知らない。この矛盾が、私という人間の全てを象徴していた。

 結局、大学時代の同期の伝手を頼り、女子陸上部の名門・メートクへコーチとして就職することが決まった。

 受信フォルダにメートクへの内定を通知するメールが届いた時、「結局またこの世界に戻ってきてしまうのか」と、自嘲するように笑った。その時の苦い笑いの記憶が、今も脳裏にちらつく。

 あれほど走ることを「どうでもいい」と思っているのに、陸上に関わる道しか歩めない。そんな自分に一抹の虚しさと情けなさ、そして、どこか拭えない濃い敗北感を感じた。まるで、呪いのように陸上が私を離さないのだ。

 メートクのコーチに就任してからの日々は、予想以上に多忙を極めた。

 陸上に二十年余り身を置いてきたため、走りに対する技術は熟知している。自分の体で理解していることは山ほどあった。しかし、それを言葉と理論で他者にアウトプットする難しさは、想像を遥かに超えていた。

 「もっと腕を振って」と言えば、選手は肩に力が入る。「リラックスして」と伝えれば、今度は推進力が失われる。自分の体で自然にできていたことを、どう伝えれば相手の体に伝わるのか――その翻訳作業の困難さに、何度も頭を抱えた。

 しかも、そこには「日の丸を背負った元トップアスリート」という期待も重なっていた。結果を出して当たり前、という無言の圧力。失敗は許されない、という空気。最初の一年は、まさに手探りの連続だった。深夜までビデオを見返し、指導法の本を読み漁り、選手一人ひとりのフォームを分析する日々が続いた。

 しかし、人間の最大の強みは「適応力」だという言葉を、どこかで聞いたことがある。

 少しずつ、私は"指導者としての走り方"を覚えていった。選手の癖を見抜く目、適切な言葉を選ぶ力、モチベーションを引き出す技術――それらは現役時代には必要なかった、全く新しいスキルだった。

 選手たちの目が、次第に「元日本代表」ではなく、「頼れるコーチ」へと変わっていくのを感じた時、胸の奥にかすかな誇りのようなものが灯った。それは小さな火だったが、確かに温かかった。

 その誇りは、やがて気づきへと変わった。

 コーチングとは、競技を離れてしまった自分の「居場所」を再定義する行為なのだと。現役時代の私は、自分の脚で走ることでしか存在を証明できなかった。タイムという数字だけが、私の価値を決めていた。

 だが今は違う。

 選手たちの成長を見守り、彼女たちがゴールラインを駆け抜ける姿に、かつて感じたことのない種類の喜びを覚えるようになっていた。それは自己満足ではなく、誰かのために役立っているという実感だった。

 それは、あの苦しくほの暗い「走る」という行為が、ようやく意味を持ち始めた瞬間でもあった。

 特に、自分が任されたBチームの選手たちとの日々は、新鮮で、時に胸を打たれるものだった。

 Bチームの練習環境は、Aチームと比べて明らかに劣っていた。練習時間は短く、スタッフの数も限られている。最新の計測機器はAチームが優先的に使用し、Bチームには型落ちの機材しか回ってこない。遠征費も削られ、大きな大会への参加機会も少ない。決して恵まれた環境ではなかった。

 それでも彼女たちは、「速くなりたい」「Aチームに上がりたい」という純粋な思いを胸に、毎日トラックを駆けていた。雨の日も、風の日も、体が悲鳴を上げる日も、彼女たちは走ることを止めなかった。

 その姿は、走ることに意味を見出せなかった自分には、あまりにも眩しすぎた。

 怪我から復帰してAチームに返り咲く者がいた。彼女が初めてAチームの練習に呼ばれた日、涙を流して喜ぶ姿を見た時、私も目頭が熱くなった。

 スランプから抜け出し、自分の走りを取り戻す者もいた。長いトンネルの中でもがき続け、ついに光を見つけた瞬間――その笑顔は、何物にも代え難かった。

 そうした瞬間に立ち会うたび、「自分の指導が実を結んだのだ」と心の底から嬉しくなった。それはこれまで感じたことのない、純粋な達成感だった。

 逆に、結果が出ずに涙を流す選手や、AチームからBチームに降格してくる者を見ると、胸が締め付けられた。「何とかしてやりたい」という一心で、夜遅くまでノートを開いて指導プランを練り直した。どうすれば彼女の走りが変わるのか。何が足りないのか。どんな言葉をかければいいのか――答えのない問いに、何時間も向き合った。

 メートクに所属して三年。

 苦しいだけだった現役時代にも意味があったのだと、過去の自分にも価値があったのだと、少しずつではあるが自分自身を肯定できるようになってきた。あの無意味に思えた日々が、今の自分を作っていたのだと。

 ――自分にとって、指導者という仕事は天職なのかもしれない。

 そう思い始めた矢先のことだった。


 月初めに行われる定例会。メートク女子陸上部の今後の方針や、選手の育成計画を話し合う重要な会議だ。

 いつもと同じように、淡々とした調子で一人ひとりの選手の成長度合いや目標レースについて議論が重ねられていく。今月は特に大きな問題もなく、和やかな雰囲気だった。

 Aチームのエース・東の次大会に向けた調整について。怪我から復帰した川村の段階的なトレーニングプラン。そして最後に、Bチームの選手・鬼頭についての話し合いが終わった。

 これでこの定例会はお開きだと思った時だった。

 最初の予算についての話し合いでしか口を開かなかった、メートク本社と女子陸上部を繋ぐ役割を果たす本部長の金森が、おもむろに口を開いた。

 「本社の方からお伝えしなければならないことがあります」

 金森本部長の言葉に、定例会の空気が一変した。これまで穏やかだった雰囲気が、一瞬にして張り詰める。監督の有賀と、自分を含めた数名のコーチ陣が、金森の次に続く言葉を待って静止した。

 嫌な予感がした。金森のこの表情、この口調――何か重大な、取り返しのつかないことを告げようとしている。

 金森は、淡々と、しかし、その場の全ての人間を射抜くような冷徹さで告げた。

 「メートク女子陸上部は、来年三月をもって、本社の方針により解散することが決定いたしました」

 「――え?」

 誰かが細い声を漏らす。それは自分が発した言葉だったかもしれない。頭が真っ白になり、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。

 解散? メートク女子陸上部が? この日本有数の名門チームが?

 自分をこの陸上部に誘った張本人である大井コーチが、勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦る音が、静まり返った会議室に響く。

「金森本部長、それは一体どういうことですか!?」

 金森は感情の全く見えない表情で、手元の資料に目を落としたまま続ける。

 「ご存知のとおり、メートク本社はインバウンド客の需要拡大に伴い、ホテル・観光事業への重点投資を決定いたしました。その事業再編の一環として、多額の運営費を要する女子陸上部は、非効率な事業として整理の対象となった次第です」

 金森は、大井の問いかけに対しても、まるで予め用意された答弁を読み上げるように、冷徹に、事務的に言い放った。彼の口から出てくるのは、選手たちの汗や努力ではなく、「事業」「投資」「効率」といった経済用語ばかりだ。

 大井は静かに、しかし、有無を言わせぬ強い視線で金森を見つめた。

 「非効率、ですか。この陸上部は、長年にわたりメートクの名を背負い、どれほどの社会的な貢献をしてきたか、ご存知ないわけではないですよね。現に、今期も数名の有望選手が国際大会の内定を控えています。その選手たちを、たった数行の収支報告書で切り捨てるというのか」

 大井の言葉には、同期である自分も驚くほどの熱がこもっていた。確かに大学時代から彼は絵に描いたような熱血キャラで、感情をすぐに露わするような人間であったが、まるで選手たちの盾になるかのように、本社の人間に真っ向から異を唱えているまでにメートク女子陸上部に入れ込んでいたとは正直驚きであった。

 「大井コーチ。感情論は不要です」

 金森は、ピシャリと大井の反論を切り捨てた。

 あまりにも事務的で、ドライな説明だった。長きにわたり、この国の女子長距離界を牽引してきた名門チームの歴史が、まるで不要な備品を整理するかのように、簡潔な数行の理由で切り捨てられていくのかと愕然とした。

 「本社は、スポーツを通じた社会貢献という側面も理解しております。しかし、会社の存続と成長のためには、選択と集中が不可欠です。インバウンド需要の取り込みは、メートクの今後を左右する最重要課題。陸上部への資金は、すべてそちらに振り分けられます」

 「……インバウンド、インバウンドと。社員の夢や人生よりも、目先の利益が優先されるというのですね」

 大井は深く息を吐き出し、静かに席に戻った。その表情は、怒りというよりは、深い失望に満ちているように見えた。

 監督がやっとここで口を開く。

「金森本部長。決定は決定として受け止めましょう。しかし、選手たちには、残りの期間、全力で競技に打ち込ませてやりたい。解散までの間、我々指導陣と選手たちが、混乱なく競技を続けられるよう、最大限のサポートをお願いしたい。」

 監督は、既に抗うことはできないと悟ったのだろう。チームの混乱を最小限に抑え、選手たちの未来を第一に考える、指導者としての責務を果たそうとしていた。金森はそれに満足そうに小さく頷いた。

「Aチーム選手、コーチ陣の移籍先は現段階では確保できていますが――。Bチームの選手の再就職支援については、個別の努力に委ねざるを得ないのが現状です。」

 金森は、淡々と、残酷な現実を告げた。一軍メンバーのAチームの選手は実績があるため、他企業への移籍が可能。そして、自分も含めた実績のあるコーチ陣も移籍先が確保されているという。しかし、二軍メンバーのBチームの選手たち、そして一部のスタッフは、文字通り「放り出される」ということだ。そんな暴挙に対して監督が声を荒げる。

 「それは、あんまりだ!」

 「Bチームにも、これから伸びる可能性を持った選手が多数いる! 実績がないからといって、夢の途中にいる彼女たちを見捨てるつもりか!」

 監督に便乗する形で大井をはじめとした一部のスタッフも「そうだそうだ」とやじを飛ばす。だが、

「慈善事業じゃないんだぞ!」

 先ほどの金森とは打って変わって怒号を飛ばすようにぶっきらぼうに言い放った。

 「これは申し上げた通り、『非効率な事業』の整理だ。企業の看板を外す以上、全員の未来を保証することはできない。Aチームの選手、および一部の優秀なコーチ陣の確保に、本社は最大限の協力をした。ただ、それ以上の要求は、会社への過度な負担となる!」

 数分前までの柔和な定例会の雰囲気が消え去り、殺伐とした今思考を巡らせてみる。

 金森が言い放った過度な負担。その言葉が、自分の胸に鋭く突き刺さった。

 ――結局、このメートク女子陸上部に所属している以上、自分も、この「効率」と「負担」という物差しで測られる一人だ。日の丸を背負った「値札」がなければ、自分も簡単に切り捨てられていたのだろうと、そんな自嘲にも似た感情を抱く。

 冷静さを取り戻した金森が再び口を開く。

「今後のメートクのスポーツ事業について、最終的な通達となります。」

 「メートク女子陸上部は解散となりますが、競技活動自体が完全に消滅するわけではありません。来年度からは、本社からの直接的な資金援助を大幅に削減し、運営を外部スポンサーに依存する、よりスリムな"クラブチーム"として再出発することで、メートク本社のスポーツを通した社会貢献を実現していきます。」

 ここで、金森は一拍置き、静かに、しかし、その場の全てを支配するかのような響きを持つ声で続けた。

「そして、この新しい"メートク・クラブチーム"。まだ仮の名前ではありますが……このチームの設立・運営を行う新監督には――小山田サポートスタッフに就任していただきます。」

 小山田。高校の二年先輩であった小山田誠司のことか。確かに走りはそれなりに非凡なものを見せていたが、このメートク女子陸上部では入団当時はコーチとして入団したものの、芳しい実績を残せずに今年度からはサポートスタッフとしての一種の左遷を食らっていたあの小山田が?誰もが驚きの表情を浮かべるそんな中、金森の隣に座っていた小山田当人に目をやる。だが、微動だにしない。

 そして、金森は驚きの言葉を続けた。

「そして、この"メートク・クラブチーム"の立案は小山田サポートスタッフが行いました。」

 金森の言葉に、会議室のざわめきが一層大きくなった。左遷されていたはずの小山田が、このチームの未来を左右する、新体制の立案者だったという事実に、全員が言葉を失う。監督が、怒りとも、諦めともつかぬ声を絞り出した。

「小山田……お前が、このチームを切り崩す計画を立てていたのか。なぜだ? お前はこのメートクでコーチとして働いていたはずだ!」

 小山田は、ようやく顔を上げた。その目は、いつも周囲の目を気にするようなおどおどしたものではなく、冷たい光を宿していた。彼は、中央のテーブルへと歩み寄り、落ち着いた、しかし感情のない声で話し始めた。

「有賀監督、そして皆さん。私は、メートク女子陸上部が非効率であることは、誰よりも理解していました」

 彼は、壁のトロフィーを一瞥した。

 「金森本部長にご提案したのは、メートクが持つ『名声』と『ブランド資産』を最大限に活用し、市場原理に基づいて運営される、全く新しいチーム体制です。選手の市場価値、コーチの貢献度、全てをデータで判断する。そうすることで、本社の宣伝効果を最大化しながら、運営コストを最小化できます」

 小山田は、資料を取り出し、テーブルに叩きつけるように置いた。

 「大量に選手を抱える現状のメートクは、Bチームの選手といった"不良債権"が非常に多い! 彼女たちに投資した費用に対して、得られるリターンは? ゼロです。いや、マイナスと言ってもいい。練習場の維持費、遠征費、給与――それらは全て、結果を出せない選手への無駄な投資です」

 「効率の悪い選手は切り捨てる。それが、未来のスポーツ組織のあるべき姿です」

 小山田の論理は、金森の「効率」という思想と完全に合致していた。彼の冷徹な頭脳と合理主義こそが、メートク本社が求めていた「新しい血」だったのだ。会議室は、重苦しい沈黙に包まれた。誰も言葉を発することができない。

 金森は「話は以上です」と短く言い放つと、そのまま定例会が行われていたメートクのクラブハウスから足早に出ていった。小山田も、一度も目を合わせることなく、金森に続いて部屋を出ていった。残された私たちは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 いつの間にか、外は雨が降り始めていた。しとしとと降る冷たい雨が、窓を叩いている。空は暗く、まるで私たちの未来を象徴しているかのようだった。

 ふと窓の外に目をやると、練習時間外にもかかわらず、先ほど話に上がった鬼頭をはじめとするBチームの面々がトラックを駆けている姿が見えた。

 雨の中、彼女らは黙々と走り続けていた。一周、また一周と。背中には、諦めない強さと、走ることへの純粋な愛が滲み出ていた。

 そんな姿を見ると、走ることが好きではないにもかかわらず好成績を残し続けた自分という存在が、なんだか憎くなる。

 なまじ才能があっただけで、最低限の練習をこなしただけで、陸上に対して全く真摯ではなかった自分が――並いる強豪を打ち倒し、日の丸までも背負うような選手に成長できてしまったことが。

 霧雨が降り注ぐ中で、熱心に走り続ける彼女たち。そこからは、Bチームからなんとか這い上がりたいという熱い心意気と、少しでも速くなりたいという向上心、そして何より、走ることを諦めたくないという走りに対する深い愛着が見てとれた。

 これほどまでに彼女たちはひたむきに陸上と真摯に向かい合っているにもかかわらず、Aチームに入ることはできず、挙げ句の果てに上層部からは「不良債権」「過度な負担」と吐き捨てられる。

 こんなことがあっていいのだろうか。いや、あっていいはずがない。

 その瞬間、自分の心に何かが宿った気がした。それは怒りでもあり、決意でもあり、そして初めて感じる使命感のようなものだった。

 青い炎――冷静でありながら、強く、消えることのない炎が、胸の奥で燃え始めた。


 クラブハウスには、昨日の定例会での決定を知らされた全選手とスタッフが集められていた。壁に並ぶトロフィーは相変わらず輝いているが、その光はどこか虚しく見える。

 監督が昨日の定例会の内容を、静かに、しかし一言一句を丁寧に選びながら語り出す。

 「……メートク本社がインバウンド客の需要拡大に伴い、ホテル・観光事業への重点投資を決定したことは、皆、ニュースで存じていると思う」

 選手たちは黙って頷いた。誰もが不安そうな表情をしている。

 「その経費を獲得するために、端的に言えば――この女子陸上部は切り捨てられる形となった」

 監督の声が震えた。そして次の瞬間、深く頭を下げた。

 「本当に……申し訳ない!」

 いきなり切り出された衝撃の事実と、指導者として真っ先に選手とスタッフを思いやる監督の姿に、クラブハウスは静寂に包まれた。

 誰も言葉を発することができない。ただ、重い現実だけがそこにあった。

 その静寂を貫くように、Aチームのエース・東が一歩前に出た。

 「私たちは、どうなるのでしょうか?」

 東の言葉は、悲鳴や怒りではなく、ただ純粋な不安と、今後の見通しを問うものだった。その落ち着いた問いかけは、動揺している他の選手たちを代表していた。その言葉に答えるため、監督は、深く息を吸い込み、現実を淡々と述べた。

 「Aチームの皆については、新設される"メートク・クラブチーム"への所属打診や、他企業からの移籍打診が来ているそうだ。心配はいらない。競技は続けられる」

 その言葉に、Aチームの選手たちの顔に安堵の色が広がった。肩の力が抜け、小さくため息をつく者もいた。

 しかし、その安堵は一瞬で打ち破られた。

 Bチームの最前列に座っていた鬼頭が、震える足で立ち上がった。彼女の顔は青ざめ、唇が小刻みに震えている。

 「私たちは……どうなるのでしょうか」

 その声は、か細く、しかし必死だった。

 監督は、鬼頭の目から逸らすことなく、しかし、苦渋に満ちた表情で首を振った。

 「鬼頭……昨日の会議での決定は、非常に厳しいものだった。本社としては、Bチームの全員の移籍先を保証することは、個人の努力に任せると……」

 「私たちは、放り出されるということですか!?」

 鬼頭の叫びは、クラブハウスの静寂を引き裂いた。

 その声は、Bチーム全員の、未来を奪われた者たちの切実な叫びとなって、監督やAチームの選手たち、そして自分の胸に突き刺さる。

 嗚咽が、部屋のあちこちから聞こえ始めた。床に顔を伏せる者、膝を抱えて震える者、天井を見上げて涙をこらえる者――様々な形で、絶望が表現されていた。

 彼女たちは、夢の途上にあった。このメートクで一流のアスリートを目指すと決意した、その人生の全てが、たった数行の「収支報告書」によって否定されたのだ。

 「本社は……もう、動かせない。これが、彼らの出した結論だ」

 監督の声には、深い無力感が滲んでいた。

 「メートクの看板が外されれば、企業スポーツの世界で、実績のない選手は、個人の競技者としてしか見てもらえなくなる。スポンサーを自分で探し、練習場所を自分で確保し、遠征費も自己負担――それは、想像以上に過酷な道だ」

 監督の言葉の重みが、現実の厳しさを物語っていた。そのやるせない感情からか、監督の目には涙が浮かんでいた。長年この世界に身を置いてきた男が、初めて見せる弱さだった。

 その時、私は一歩、前に踏み出していた。昨日から胸に宿った熱い感情が、全身の血を騒がせ、体を行動へと突き動かした。もう止められなかった。理性ではなく、心が体を動かしていた。

 Bチームの選手たちの前に立つ。彼女たちの涙に濡れた顔、絶望に歪んだ表情――それらが、私の決意をさらに強固なものにした。

 「鬼頭。そして、Bチームの皆」

 私の声は、低く、そして芯が通っていた。クラブハウス全体に響き渡るような、力強い声だった。

 「私は、君たちを『個人の努力』という名の絶望の中に、絶対に放り込みたくない」

 選手たちが、驚いたように私を見上げた。

 「なぜならば――競技を引退して指導者になり、初めて私は、走ること以外で自分の存在を証明できたからだ」

 私は、一人ひとりの目を見つめた。

 「それは、君たちがいなければ、決して見つけられなかった『居場所』だった。現役時代、私は走ることに何の意味も見出せなかった。ただタイムを出すためだけに、機械のように走っていた。でも、君たちを指導する中で、初めて走ることに意味を感じられるようになった」

 ここで初めて、自分の居場所を作ってくれた彼女たちへの感謝の気持ちを吐露した。胸の奥に溜まっていた言葉が、堰を切ったように溢れ出る。

 「だから――だから、どうか恩返しさせてくれないか」

 私は、もう一度Bチームの選手たちの目を見据えて、はっきりと告げた。

 「私は来年四月以降、他チームへの移籍先が決まっている。恵まれた環境で、実績ある選手たちを指導する道が用意されている。だが――その見通しを投げ捨てて、Bチームの有志を集めて全く新しいチームを立ち上げる!」

 そう高らかに宣言すると、Bチームの選手たちから、そしてクラブハウスにいる全員へ困惑の波紋が広がっていった。

 「村田コーチ、正気ですか!?」

 監督が立ち上がり、制止しようとした。

 「あなたは将来を嘱望されている優秀なコーチですよ! 元日本代表という肩書き、三年間で築き上げた実績、そして約束された輝かしい未来――それら全てを投げ売って、そんないばらの道に進もうなんて、どうかしている!」

 監督の言葉は、純粋な心配から来るものだった。だが、私の決意は揺るがなかった。

 「どうかしている? その通りかもしれません」

 私は、自嘲するように笑った。

 「それほどまでに私は、彼女たちの走りにほれ込み、入れ込んでいるんです! なんせ、彼女たちを指導するその時間が、私の存在を肯定してくれる。初めて自分の走り以外で、自分の存在証明ができた――彼女たちは、私にとって恩人なんです!」

 昨日の定例会で、金森に反論する大井を見て、こいつはこれほどまでにメートク女子陸上部に入れ込んでいるのだと、第三者のような目で冷静に見ていた。だが、入れ込んでいるのは自分も同じだった。いや、それ以上かもしれない。

 「村田コーチ……」

 監督の声が震えた。

 「大体、練習先や運営資金はどうするつもりなんですか!? チームを作るには、練習場の確保、トレーナーの雇用、遠征費、大会参加費――莫大な費用がかかる。元日本代表とはいえ、個人でスポンサーを集めるのは至難の業ですよ!」

 いばらの道を進むのを阻むように、監督は現実的な問題を次々と挙げてくる。その全てが、正論だった。

 だが、私には覚悟があった。

 「村田星一という選手の『値札』を最大限活用して、来年の四月までにチーム運営できるよう何とかして見せます」

 日の丸を背負うことに無関心だった男が、今、そのキャリアの全てを賭けて、目の前の選手たちの未来を守ろうとしている。

 その変貌ぶりには、自分でも驚くばかりだった。人間は、こんなにも変われるものなのか。

 「スポンサー探し、練習場の確保、大会への出場交渉――全て私が責任を持ちます。もちろん、君たちにも協力してもらうことになるだろう。厳しい道になる。挫折するかもしれない。でも――」

 私は、Bチームの選手たち一人ひとりの目を見つめた。

 「君たちの走りをここで終わらせたくない。君たちが夢を諦める姿を見たくない。だから、私と一緒に、新しい道を切り開かないか?」

 クラブハウスは静まり返っていた。だが、その静寂は先ほどまでの絶望に満ちたものではなく、希望を探すような、温かみのあるものに変わっていた。

 Bチームの選手たちの目に、少しずつ光が戻り始めていた。涙はまだ乾いていないが、その奥に小さな希望の炎が灯り始めている。

 クラブハウスの外では、昨日までの雨がやみ、朝のまばゆい日差しが練習場を照らし始めていた。雲の切れ間から差し込む光が、トラックを黄金色に染めている。

 私の心で燃え上がった青い炎は、今、クラブハウスにいる数人へ小さな希望の火花として燃え移り始めていた。

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