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10.エピローグ

「運命の六区に先頭で襷が渡りました、ゼルメイト・サクラ!これから定禅寺通りを駆けます、円熟の三十三歳・東礼!このクイーンズ駅伝を以て現役引退、来年度からはゼルメイト・サクラでコーチを務めることが発表されています!」

「この定禅寺通りには先ほどまでよりも一段大きな歓声が響きます!『東さんありがとう!』『おつかれさま!』。そんな声が響き渡る中、東は一歩一歩、まるで噛みしめるように前へと脚を運んでいきます!」

「このレースを振り返りますと、千田佳奈が渚の一区を快調に飛ばしていき、区間賞。高速の二区を崎山由香里が二つ順位を落としましたが、各チームのエース選手が走る花の三区で待ち構えるのは高校を卒業してまだ半年の祖父江凛でした」

「直線で前のランナーも視界にとらえることができる三区の直線コースで火が付いたのか、持ち味である大きなストライドでぐいぐいと前との差を徐々に、されど確実に詰めていきました。その走りは弱冠十八歳とは思えないほど圧巻で、まるで何年もエース区間を任されてきたかのような風格すら感じさせました!」

「残り一キロを切ったあたりでついに前の二チームを一気に抜き去り、ゼルメイト・サクラを一位に返り咲かせ、そのまま中継所に飛び込んでいきました!」

「その記録は三十三分十秒。区間新記録には惜しくも届きませんでしたが、ルーキーにして区間賞の大活躍!これからも楽しみな逸材が、まずはこの仙台の舞台でお披露目となりました!」

「区間賞のインタビューでは『高校時代から指導を受けていた鬼頭さんももちろんですが、村田監督の指導が私の走りに一層磨きをかけたと思います』と、今年度から就任した村田星一新監督の名前を出して好走を語りました」

「そして変動の四区ではヴィオレット・ケニヤッタが、過酷の五区では大門澪が一位を守るどころか、二位以下を突き放す走りを見せました!」

「特に大門はゼルメイト・サクラに入団してから長きにわたり五区を任されていた東にアドバイスを聞き、五区に挑んだそうです。アドバイスを大門に与えた東は只今、五キロをちょうど通過しました。手元の時計では十五分五十二秒。これまでを三分九秒、三分十一秒、三分十一秒、三分十秒、三分十一秒で通過しているそうです。純粋な能力にはやはり衰えが見えますが、ペースを刻む能力は現役選手の中でもピカイチです!」

「キャリア集大成の一走、そして来年度からはコーチとしてチームを支えていく。そんな境目にある今日の走りは、これまでの努力と誇り、そして後輩への想いが詰まった襷そのものでしょう!」

「さあ宮城野通に入ります。この通りをまっすぐ進めばゴール地点の陸上競技場まですぐです。その距離はあと一.五キロもありません!後ろとの差は依然として大きく、ゼルメイト・サクラ、ついに初優勝へ大きく近づいてきました!しかし東は決して緩めません。後輩たちがつないできた襷を胸に抱くように、その表情は気迫に満ちています!」

「さあここで東が腕を振り直しました!体力は確かに若いころより落ちているでしょう。しかし、この区間を走った誰よりも、"重さ"を知っているのがこの東礼!五区を任され続けてきた経験が、今アンカーで活きています!千田・崎山・祖父江・ヴィオレット・大門。チームメートがつくったこのレース、壊すわけにはいきません!」

「さあ、ここで東が少し笑いました。沿道の声をしっかりと聞きながら、自分のラストレースを楽しんでいるようにも見えます!"ここで一区切りつけて、次のステージへ行く"。そんな覚悟の走りです!」

「さあ競技場の敷地内に入ります。ここからゴールまでは、選手としての十五年間、すべての記憶が蘇るでしょう。ケガやスランプに悩まされたメートク加入後の数年。それらを脱して立った一度目の世界陸上。メートクの解散後はまさかのオルディアに進まず、村田星一と手を組んでゼルメイト加入。そこでは村田監督・大井ヘッドコーチという指導者に見守られながら、鬼頭清美という最大の仲間でありライバルとしのぎを削りました。そして二度目の世界陸上。アジア人最高順位という栄光に輝きました。その後、ゼルメイトがサクラに取り込まれ、ゼルメイト・サクラになってからも、その並外れたペースメイク力で他選手を圧倒しました。メートク、ゼルメイト、ゼルメイト・サクラと進んできた東礼という選手の陸上人生は一筋縄ではありませんでした。しかし、それらすべてを乗り越えて、いま東は先頭で走っています!」

「ゴール地点には村田新監督、大井ヘッドコーチ、鬼頭コーチの姿が見えます。まさに旧ゼルメイトの面々がそろい踏み!奥には有賀名誉監督の姿も見えますね。日本の陸上界をけん引してきた旧メートクの意志は、解散から五年以上たった今でもサクラの地で色濃く残っています!」

「さあ東が競技場に入ってきた!青のタータントラックが陰りつつある太陽に照らされ、淡く輝きます!スタンド総立ち!この瞬間を待っていたと言わんばかりに、割れんばかりの拍手が東の背中を押します!」

「残り二百メートルを切りました!東、最後の直線に向かう!一歩、また一歩。まるでこの十五年の歩みを刻むかのような、そんな丁寧で力強いストライドです!ここまで守ってきた大きなリードはゆるぎません!」

「ゼルメイト・サクラ。そして旧サクラ創立以来、悲願だったクイーンズ駅伝初優勝。それを決めるのは、このベテラン・東礼!」

「最後の百メートル!東が胸を張った!笑った!涙でしょうか、苦しさでしょうか、それとも喜びでしょうか!しかしその表情は、やり切った選手にしか見せられない、実に晴れやかな顔です!」

「さあ東が両手を少し広げました!まるで"ありがとう"と観客に応えるかのように!」

「今、東礼がフィニッシュ!ゼルメイト・サクラ、ついに念願のクイーンズ駅伝初優勝を果たしました!」

「村田監督、大井ヘッドコーチ、そして鬼頭コーチがいっせいにガッツポーズ!旧ゼルメイトで肩を並べてきた仲間が、世代そしてチームを越えて一つになりました!」

「東はそのまま、少しふらつきながらも、スタッフと選手の輪の中へ!祖父江が涙をぬぐいながら駆け寄ります!全員が東を取り囲みます!」

「"東さん、ありがとうございました!"そう声がかかると、東は襷を強く胸に抱きしめました。長い長いキャリア、そのすべてを託した襷。その襷で仲間たちと抱き合います!」

「表情には涙。しかし、その涙は悲しみではありません。走り抜いた人間にしか流せない、"やり切った者の涙"です!」

「ゼルメイト・サクラ初優勝!そして、東礼の現役最終レースを飾る完璧な走り。選手としての物語はここでひとつ幕を下ろします。しかし来季からはコーチとして、このチームをさらに強くする役目が待っています!」

「秋の仙台に"サクラ"が咲きました!」


 

 銀閣寺から若王子神社までを結ぶ二キロほどの遊歩道である哲学の道は、哲学者である西田幾多郎が毎朝この道を歩いて思案にふけっていたことからこの名がつけられた。

 現在は春は桜の名所、秋には嵐山ほどではないものの紅葉の名所として国内外の観光客で賑わうが、まだ紅葉が色づき始めの十一月下旬のこの時期であれば、それほど観光客を見かけない。

 そんな道を私と鬼頭は散策していた。練習拠点から近いこともあって、なにか相談事をするときはクラブハウスを抜け出して、散策しながら話したり、沿道のカフェに入ったりする。

 東の引退レースを終えて数日。ようやく胸の高鳴りが静まりはじめた頃合いだった。今日もまたなにか相談事があるのだろう。

「すごかったですね、礼。まだあんな走りできるのに引退するなんて」

 鬼頭がそう漏らす。疎水のせせらぎが人もまばらなこの道に静かに響き渡る。

「ああ。引退を大井と共に引き留めたんだが、意志は固かった」

 自分でも驚くほど素直な声が出た。仙台から戻ってきてからも、ずっと胸の奥には惜しいという気持ちと、その決心を無碍にしたくはないという気持ちが去来している。

「礼の走る姿が見られなくなると寂しいですね。私がメートクに入社する前からずっと社会人の舞台で走っていたので、今後は東礼の名前が選手欄で見られなくなるとなんだか不思議な気持ちです」

「本当にそうだ。君ほどじゃないにしても、東は並外れた走りへの情熱があった。だからこそ、現役にこだわりぬいて、しがみつくのかと思っていたが、『引き際はきれいにしたい』だそうだ」

 「そうだったんですね」と軽く私の話に相槌を打ち、彼女は近くのコンビニでテイクアウトしてきたカフェラテを一口すする。

「で、今日は何の話だ?わざわざ出向いてきたということは何か相談があるんだろ。それもあまり他人に聞かれたくないような」

 私は切り出す。鬼頭は足を止め、疎水の水面を見つめながら息を吸った。

「村田監督に感謝をしたいと思って……」

「感謝?」

 私は素っ頓狂な声を上げた。鬼頭が私に感謝する筋合いなどないと思う。むしろ私が感謝をするべきだ。このチームに来てくれたこと。祖父江を連れてきたこと。そして、怪我を引き起こしたのは私のせいでもあるのに私を責めないこと。

「はい。怪我をして……ゼルメイトを出たとき、本当に何もかも失った気がしていました。走る場所も、目標も、仲間も……。あの時期の私は、自分が"誰なのか"すら分からなくなっていたんです」

 鬼頭の声は落ち着いていたが、その奥にある痛みは隠されていない。私の背筋が自然と伸びた。

「そんな時に村田監督の言葉が浮かんだんです。走ることだけが陸上に関わる方法じゃない。指導して競技者を支えるという方法で、陸上に関わる道もあるんだと」

「ゼルメイトで陸上にがむしゃらに関わっていたとき。ゼルメイトで得られたものは単なる陸上の実力だけだと思っていました。でも、時間がたって思い返すと、陸上に関するすべてを学べたんじゃないかって」

 そこまで言うと、鬼頭は照れくさそうに、しかしまっすぐこちらを見た。

「だから感謝したいんです。今こうして、チームの一員として、指導者として、また陸上に関われていること……全部、村田監督のおかげです」

 胸の奥が熱くなった。

「……今この道を君が歩んでいるのは全て自分の力だ」

 気づけば、そんな本音が口からこぼれていた。

「鬼頭。君が怪我をして抜けた日、私は……自分が指導者に向いていないんじゃないかと思った。守れなかったんだと。それは今も消えていない」

 鬼頭は少し驚いたように目を伏せ、それからゆっくりと首を振った。

「違いますよ。それは、監督の責任じゃない。あれは私が、自分で選んだ走りの結果です。本当に……もう大丈夫です」

 その言葉は、あの名古屋での再会のときよりも、遥かに深く、自然に響いた。

「それに……」

 鬼頭は小さく笑った。

「私がいなくなっても、監督はちゃんと前に進んでくれました。ゼルメイトをゼルメイト・サクラとして立て直し、スカウト活動に奔走していた。私の"次"をつくってくれた。それが本当に嬉しかったんです」

 哲学の道に、風がゆっくりと吹き抜けた。紅葉がひとひら、疎水へと落ちる。

「……それで、感謝を伝えに?」

「はい。礼の引退レースを見て、余計に思ったんです」

 鬼頭は少しだけ視線を上に向け、微笑んだ。

「"引退"するって、選手としての終わりじゃなくて、"誰かに託す"ってことなんですよね。礼がそうだったように、私も……きっと、誰かに受け継いでいく役目がある。そう思えたのは、監督が許してくれたからなんです」

 そこで鬼頭は一歩だけこちらに近づき、深く頭を下げた。

「村田監督。私を……また"走らせてくれて"、ありがとうございました」

 胸が、強くつまった。

 言いたいことは山ほどある。

 だが、どの言葉もこの瞬間の前では拙くて、薄くて、うまく形にならない。

 だから私は、一番短くて、一番嘘のない言葉を返した。

「……ありがとう。陸上界に戻ってきてくれて」

 鬼頭は一瞬だけ目を潤ませ、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。

「これからも、よろしくお願いします。監督」

 その声は、かつての"選手の鬼頭清美"ではなく、"指導者の鬼頭清美"の声だった。

 鬼頭は一本の木を突然指さす。その木はカエデやモミジといった鮮やかに赤く色づくものではない。だが、オレンジや赤といった落ち着いた色を見せている。

「あの木。なんだかわかります?」

 鬼頭が突然尋ねてきた。植物に対する造詣が深くないため、私にはわからない。沈黙が場を支配すると、鬼頭が再び口を開いた。

「あの木は桜なんです」

「桜も……紅葉するのか」

 思わず声に出ていた。春に咲く花。その印象だけが強かったためか、ほんのり赤く色づいた葉を見ても、桜だと気づかなかった。

「はい。桜紅葉っていう言葉もあるんですよ」

 思わず感嘆の声が出た。鬼頭がそれほどまでに風流な人間だとは、今までかかわってきた中で感じたことがなかった。

「私の人生、桜に似ていると思うんです」

 鬼頭の言葉は、疎水の上を渡る風よりも静かに、しかし確かに胸の奥へ落ちていった。

「桜に……似ている?」

 私は思わず問い返していた。

 鬼頭はうなずき、やわらかい笑みを浮かべた。けれどその笑みには、春のような明るさと、秋のような静けさが同時に宿っていた。

「桜って、春にぱっと華やかに咲きますよね。でも、見られる期間は短くて、あっという間に散ってしまう。高校から社会人に入るまでの私、そしてゼルメイトで名古屋ウィメンズマラソン・世界陸上を走った私は、なんだかあれに似ていた気がするんです。勢いがあって、周りに期待されて、注目もされて……でも、散るときも早かった」

 鬼頭は足を止め、桜の木の下で立ち尽くした。疎水の細い川面には、紅葉しかけた葉がゆっくりと流れていく。

「でも、桜って……散ったあとも、ちゃんと次の季節を迎えるんですよね。多くの人には注目されませんけど、夏は青々とした葉を広げて、秋はこんなふうに紅葉して……冬を越えたら、また春に咲く。誰も花が咲いていない期間のことを覚えていなくても、桜はずっと生きてる」

 鬼頭の声は淡々としていたが、その奥に、自分自身を見つめ続けてきた年月の重さが感じられた。

「それって私もそうだと思います。確かに陸上から離れた一年間は、私にとって花も葉も付かない厳しい冬の時期でした。でもいつまでも冬は続かなかった。指導者として陸上に再び関わることになりました。それは競技者時代の華やかな春ではありませんが、影から選手を支える渋い秋の時期が私に訪れたんだと思うんです」

 その言葉はまだ色づき始めのこの紅葉とリンクした。

「でも秋のままでこのまま進んでいくわけではないと思います。もしかしたらいつか停滞する冬を迎えて、それを乗り越えたら、指導者として春を迎えることができると思います。今は大きく咲く花ではないけど、ちゃんと色づいて、次の春に向かって準備している季節だと思うんです。走る選手としてじゃなくて、育てる側としての"私"が、ようやく色づいてきた気がするんです。それはある意味で、桜の季節が過ぎ去ったことを意味するかもしれませんけどね」

 軽く笑いながら話すが、その言葉は鬼頭のこれまでを雄弁に語っているように思える。鬼頭は続けた。

「でも、私の人生でいちばんきれいに咲けた"春"は、村田監督のもとで走っていたあの頃です。あの時に咲いた花は、今でも私の支えですし……散ったあとも、こうしてまた違う形で生き直せる場所を与えてくれたのは、監督なんです」

 私は息を呑んだ。

 鬼頭清美という選手は、強くて、弱くて、迷いながらも常に前へ進もうとする人間だった。そのすべてを見てきたつもりだった。しかし、彼女が自分の人生を桜になぞらえて語る姿は、どこか新しく、そして、どこまでも美しかった。

 紅葉した桜の葉がひらりと落ち、鬼頭の肩にそっと触れた。

「……そうか」

 やっと、それだけ言葉にできた。

「桜って、本当は四季全部で生きてるんですよね。花だけが桜じゃない。でも、花の記憶があるからこそ、また春を目指せる。私も――また春を迎えたいと思うんです。指導者として」

 その声は、春を待つ蕾のように確かで、温かかった。

「必ず迎えられるさ」

 私は静かに答えた。

「君が育てた選手が咲かせる花は、きっと……私が散らせてしまった花よりも、もっと強く、大きく、美しい」

 鬼頭は息を飲み、そして――そっと、微笑んだ。

「……そうなれるように、頑張ります」

 私たちは再び歩き始めた。疎水に沿って続く石畳の道は、足音を柔らかく吸い込んでいく。

 少し進んだところで、鬼頭が立ち止まり、水面を覗き込んだ。

「この水、ずっと流れてますよね。止まることなく」

「ああ」

「人生も、きっとそうなんでしょうね。止まっているように見えても、実は少しずつ流れている。前に進んでいる」

 鬼頭はそう言って、私の方を向いた。

「村田監督。私、これから先も何度も壁にぶつかると思います。指導者として、うまくいかないこともあるかもしれない。でも……」

 彼女は一呼吸置いた。

「それでも、前に進みたいです。ゼルメイトで学んだこと、監督から教わったこと、すべてを次の世代に繋げていきたい。それが、私の新しい走り方だと思うんです」

 その言葉には、迷いがなかった。

 かつて病室で「走ることをやめます」と言ったあの日の彼女とは、まったく違う強さがあった。

「鬼頭」

 私は彼女の名を呼んだ。

「君は、もう十分に走っている。選手としてじゃなく、指導者として。そして、君の走りは……きっと、多くの選手を前に進ませるだろう」

 鬼頭の目がわずかに潤んだ。

「ありがとうございます」

 その声は、かすかに震えていた。

 哲学の道の紅葉はまだ浅い。だが、その色は確かに深まり始めていた。

 鬼頭清美という一人の桜は、静かに、しかし確かに、次の春へ向けて蕾を育てていた。

 私たちは並んで歩き続けた。

 かつて選手と監督として走った道。

 今は、指導者同士として歩む道。

 形は変わっても、目指す場所は同じだ。

 頂点へ。そして、次の世代へ。

 疎水のせせらぎが、私たちの足音に静かに寄り添っていた。

 秋の京都に、春の予感が漂い始めていた。

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