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言いながら、舞は己を省みていた。
傷つけたくない。傷つきたくない。
だけど、人はぶつかる。本気で生きれば生きるほど、本気で愛せば愛すほど。
すれ違うし、全部は理解できないし、どうしてこちらの求める愛し方をしてくれないのか、憤る日も。不満がとうとう爆発して、相手を詰って悲しませることだって。とっさに出た言葉は取り返しがつかないし、謝っても傷がスーっと消えるわけでもない。
それでも、後悔したくないなら。
その時は、潔く引き受けるしかないのだ。衝突も、痛みも、傷も。
その末にどうにもならなくても、納得できるまで傷ついて、傷ついたまま、乗り越えていくしかないのだ。
やっと分かった。そう思うと同時に、世の不公平を感じざるを得なかった。もう一度チャンスが巡ってきた舞と、アンドルーは正反対だ。それでも立ち上がって己を省み、後悔を抱いたまま前を向けと言うのは、どれほどの地獄を強いることか。
アンドルーは差し出された舞の手をじっと見下ろし、「できない」と震えながら首を振った。
「できない。できません」
「アンドルー、お願いだから」
「そんなことなら、俺はあの時、あいつと一緒に死にたかった!!」
悲痛な絶叫が風雨を切り裂く。アンドルーは帯にくくりつけてあった皮袋に手を突っ込むと、ナイフを取り出した。漁師なら誰もが持つ、網や糸を切るためのものだ。彼はそれを強く両手で握る。
「……どうせなら、みんなと同じように、罪を犯すべきだった。聖典の言葉を捻じ曲げているなんて、無用な抵抗をせず、あなたの言うように、折り合いをつけて。願いを叶えるためには、人を傷つける覚悟がなくてはいけなかったのかもしれません。俺の覚悟の無さを、ベーパが見抜いて、今、この試練が降りかかっているのかも、」
「アンドルー、ナイフをおろして」
アンドルーは聞こえていないのか、何事かブツブツと呟きながら何度もナイフを握り直している。絶体絶命だ。最初からそうだった気もするが、ここに来て一層危険度が上がってしまった。
だが、舞もこのままでは終われない。まだ、フレデリックに本気でぶつかっていないのだ。
イチかバチか。舞は手を開いたままファイティングポーズをとる。無意識で発動したことはあっても、神秘の遠隔操作は意識してやったことがない。だからナイフを直接触って、溶かして無効化させるしかない。タイミングを見て刃を掴んで、大怪我をするより早く神秘を発動させる。無茶に思えたが、覚悟を決めて歯を食いしばった。その時。
舟が縦に揺れた。
「うわっ!!」
「きゃあ!!」
二人同時にへたり込み、縁に掴まる。一瞬、波か、と思ったが、寄せては返す規則的な衝撃ではない。もっと、何か突発的な……
そこまで考えて、また衝撃が舟を襲った。今度は横から、船体を擦るように何かが豪速で通り過ぎたのを舞は見た。
「何あれ、サメ!?」
言いながら、直感的に違う生き物であることは分かっていた。へたり込んだアンドルーは放心したように動かないまま呟く。
「……血だ」
「えっ!? 何!?」
「堕ちた血……聖血の血を混ぜたタールが、舟底からはげたのかも……」
風雨に紛れて聞こえた言葉を舞が理解した時、三度目の衝撃。今度は齧りとるような勢いで、舟がみしりと音を立て、半回転する。このままじゃ舟が保たない。舞はとっさに叫んだ。
「アンドルー! ナイフを貸して!!」
「やはり、ベーパは私をお見捨てになった……」
「アンドルー、アンドルー!」
「聖血に手を出した私には、穏やかな死も許されないのか……」
「っこの……、いい加減にしなさい!!」
舞は舟底を這うように近づき、ぶつぶつと恨み言を繰り出すアンドルーの頬を打った。
「ナイフはどこ!?」
「……俺を、海に投げ入れてください」
「はあ? 何馬鹿なこと、」
「そうしたら、追われない。あなたは聖血だ、あいつらはあなたを食わない。俺がいなくなれば、あなたは助かる、お願いです、俺はもう、死んでしまいたいんだ……!」
「っ嫌よ!!」
舞はカッとなって叫んだ。アンドルーの肩を掴んでガクガク揺さぶる。
「あなたが諦めても、私はあなたを諦めない! 死なせてたまるもんですか!」
「ですが、俺はあなたを、」
「まだ分からないの? あなたが生かされた理由があるとしたら、それは今後一生、清廉に生きるためでしょう! 女神なんかじゃない、あなたの友人が、そう願ったからあなたはここにいるの!! 手に入らなかった未来ばっかり数えないで、今ある大事なものを抱えて、乗り越えなさい!!」
アンドルーは呆けたように舞を見ていたが、やがて舟の縁ごと握りこんでいたナイフを舞に渡した。舞は舟の外に手を出し、柄を握りしめ、刃を手のひらに当てる。見ていては切れそうもなくて、目をぎゅっとつむり、思い切ってスライドさせた。
「つうっ……!」
途端、熱さと痛みが手を襲う。唇を噛んで耐えながら、切れた手のひらをぎゅうと握りしめた。より強い痛みとともに鮮血が滴り落ち、肌から離れた瞬間仄明るく輝いた。血を受けて辺りの海がぼうと光ると、水面下を近づいて来ていた黒い影が怯えるように方向転換した。だが、完全に逃げたわけではない。物欲しそうにこちらを付け狙い、遠くでウロウロと旋回している。
「しつっこいわね! これは私の友達よ、あんたの餌じゃない……っ!!」
舞は叫び、身を乗り出して海に手を突っ込んだ。輝く血の帯が波にさらわれ広まり、影がトビウオのように海面を飛んで退いていく。その時。
世界を真っ二つに裂くような雷が、影に落ちたのを舞は見た。
衝撃に舟が大きく傾き、舞は一気に海中に引きずり込まれる。ゴボ、勢いよく空気が肺から押し出されてしまい、舞は狂乱した。雷のせいで視界が真っ白に塗りつぶされ、耳も聞こえない。ただただ潮の流れに翻弄され、もがくことすら許されない。
遠のく意識の中で、舞はフレデリックのことを思った。
――人は生きるほどにぶつかって、傷つくのが避けられないことなら。
――ねえ、フレデリック。
――あなたのことで、世界で一番傷つくのは、私がいいな。




