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小雨の中、傘を差し、ドラストを曲がり、住宅地に入る。
舞は雨が嫌いだ。
高校一年生だった頃、学校からの帰宅途中、アスファルト上の水溜りを踏んづけた。と思ったら底が抜けて、気がついたら魔法の息づく中世ヨーロッパ風異世界の、カイザー王国の海で溺れていた。そうして、まるで映画で見る海賊船のような大きな船に引き上げられたのだ。あれがトラウマになっていた。
それに、四年前。
この世界に帰ってきた時も、雨だったから。
――自分を勝手に召喚した末に裏切った男の元を去り、この世界に戻って来た時。見知った地元の道に放り出されたので、溺れることも、船に引き上げられることもなかったが、あの時の衝撃は筆舌に尽くしがたい。
なぜなら、この世界も、舞と同じだけ時を進めていたからだ。
異世界に行っている間は時間が止まるとか、老けないとか、そういうご都合主義的なことは一切なかった。なんなら祖母は亡くなっていたし、高校は除籍になっていた。当時二十歳になった舞が、わざわざ残してあった高校の制服に、学生鞄まで身につけて帰ってきたのに、だ。
幸い、祖母の家だけは残っていた。遠い遠い親戚が相続や税金の関係に苦慮した末に放置したらしい。が、家財はなく、電気もガスも水道も通っていなかった。いるのは虫とか、小動物だけ。
愕然とした。もう一度異世界に行く前からやり直せるなんて、甘い幻想ばかり抱いて帰って来たわけじゃない。けど、まさか祖母が亡くなっているとは。
とはいえ、悲しんでいる暇はなかった。なぜって、平日の昼間に一人で街を歩いている女子高生は、かなり……浮いてたからだ。
事態を把握してすぐ、舞は財布に残っていた現金をはたいて普段着を買った。そこから質屋に駆け込んでフレデリックの最後の餞別である金貨を一枚換金。そのお金でホテルの部屋を取って、シャワーを浴びると、ようやっと人心地ついた。悲しめたのはそれからだ。
後から聞いた話だが、祖母は交通事故の予後が悪かったそうだ。自分が行方不明になったが故のストレスが明確な原因でなかったのは、不幸中の幸いだった。
そしてお金のありがたみもしみじみと身にしみた。舞の貯金好きはここからだ。フレデリックからの最後の餞別としてサジが持ってきた金貨を、受け取り拒否しようとした舞を説得して、半ば無理矢理に金貨を持たせてくれた友人にも心から感謝した。ここにお金の心配まで加わったら、きっと乗り越えられなかった。やっぱりグウェンは最高。
そこからもまた、気が遠くなるほど大変だった。ネットカフェで銀行口座を開設し、スマホを契約して、保証人不要の部屋を探し、家財を揃えて、そこから職探し云々エトセトラ。正直、そのあたりの記憶はおぼろげである。体感としては、気がついたら帰ってきて一年経っていて、オオシママートで働いていた。タイムワープ。
ところが記憶を蓄積する余裕が出てくると、悲しみとか空虚以外の感情も息を吹き返してしまった。特にメラメラ燃えだしたのは元カレに対する怒りだ。やっぱりぶん殴っておくべきだった、とか、今からでも部屋をめちゃくちゃにしてやりたい、とか、今度会ったら首をしめてやる、とか……まあ、会うことはもうないのだけど。
思い出すたびに憤懣やるかたなく夜も眠れなくなるので、せめて健全に発散しようとキックボクシングを始めた。元々リレーの選手に選ばれるくらいだったし、運動は好きだったので、結構向いていた。体が疲れると、夜、眠れるようにもなった。
それが、帰ってきてから二年ほどが経った頃のことだ。舞はやっと自分の人生の手綱を取り戻せたと思った。
その時に決めた。
この世界で人生をやり直そう。もう振り返らない、と。
私はもう、誰のことも好きにならないし、誰かを自分の人生に招き入れたりもしない、と。
そこまで振り返って、舞は歩きながら自嘲の笑みを漏らした。昔は誰かの特別になりたくて堪らなかったのに。
両親を幼くして亡くしている舞にとって、自分を愛してくれる特別な存在は物語の中にしかいなかった。もちろん、祖母が舞を愛してくれなかったわけではない。だけど、舞を引き取った時にすでに年老いていた祖母は、いつもうつらうつらしていて、遊びに付き合ってくれたり、学校の話を興味深げに聞いてくれたり、勉強を教えてくれたりはしなかった。だから、より強い憧れがあった。舞だけを見て、舞だけを愛し、舞だけを傷つけない存在に。
だが、今の舞には、世に言う『特別な存在』は重荷だった。
人生の手綱をしっかりと握っておくには、他人との接触は最小限であるべき、というのが今の信条だ。
他者との関わり合いは、なにせ波風が立ち過ぎる。近づき過ぎればぶつかるし、心を開けば、傷つくのが世の常だ。誰かに寄りかかって、梯子を外された時のショックは身を以って知っている。身も世もなく溺れる恋なんか、一番ノーサンキュー。惨めな思いをするのは、二度とごめんだった。
ポツン、雨粒が一際大きく傘を叩いたと思ったら、すぐに本降りになってくる。
「うっそ、最悪」
悪態をついて、慎重に水たまりを避けて家路を急いだ。築三十八年、保証人不要の一DKは、余った金貨を隠すのに都合のいい押入れがあって気に入っている。ああ、早く愛しの我が家に帰らなくては。
その時、不意に誰かに呼び止められた気がして舞は立ち止まった。
振り返る。誰もいない。
「……誰?」
大きな雨粒が傘を叩く。なのに、なぜかシンとした静寂が通りには満ちていた。まっすぐに続くアスファルトに吸い込まれそう。
「……誰かいるの?」
呼びかけた道は、今さっき通ってきた、通い慣れた通勤路だ。なのに、知らない街に迷い込んだような気がした。すぐそこの民家の影に、何か大きな怪物が息を潜めているような……。
そんなわけない。即座に否定したが、それ以上進んで声の正体を突き止める勇気も出ず、寒気を抱いたまま舞は再び踵を返した。――つもりだった。
すぐ前に突然現れた水溜まりに足を取られ、階段を踏み外した感覚が舞を襲った。その奇妙な浮遊感に、舞は覚えがあった。
一度目と同じだ。
――うそ。私、また……!!
抵抗する間も無く、舞は水溜まりに吸い込まれるように滑り落ちていった。