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  ◆

 


「そういえば、伊藤さんって、行方不明だったことあるらしいよ」

「え、嘘。なんで?」

「詳しいことは知らないけど、家出じゃない? 四年間? とかいなかったって」

「長。ガチじゃん。それマジ話?」

「マジマジ。店長が言ってた。急にいなくなって、おばあちゃん亡くなってから、この辺に帰ってきたって。高校の同級生だから知ってるらしい」


 同僚の噂話を職場のトイレでするのはやめたほうがいい。なぜなら一番奥のトイレに、噂の張本人である『伊藤さん』――伊藤 舞本人が息を潜めているかもしれないから。

 しかし、奥のトイレが使用中と気づいていない同僚たちの話はなおも続く。


「地元この辺なんだ。初めて聞いた。てか、おばあちゃんって何?」

「小さい頃に両親亡くなってるんだって。で、おばあちゃんが育ててたらしい」

「あ~、複雑なやつだ……」


 勝手に複雑にされてもな。両親が亡くなってるのはそうだけど、うちのおばあちゃんは結構いい人でしたよ。だいぶ高齢だったんで、あんまり子育てに熱心ではなかったけど。


 心の中で訂正しながら、舞はぼんやりトイレのドアを見つめる。音は立てない。面倒だから。ただ、硬い便座にのせた尻がそろそろ痛いので、早く終わってほしかった。


「それでかな? なんか伊藤さんってうちらと一線引いてるところあるよね。いつもニコニコしてるけど、店の飲み会あんまり来ないし」

「前に趣味聞いたら貯金って返ってきて困惑したことある」

「え~ウケる」

「人に聞かれて返す答えではないよね。会話広げる気ゼロじゃん」

「あーね」


 それはごめん。だけど、推しもいないし、趣味がないのは事実なんだよ。他にはちょっと、ストレス解消と健康のためにキックボクシング習いに行ってるくらいで……それにあなただって、実際そこまで私に興味ないでしょ?


「でも、そっかあ。じゃあ、天涯孤独なんだね」

「だね」

「じゃあ、さみしいねえ」


 しんみりとしたトーンの呟きに、ただの噂話、と油断していたところをぐっさりやられた。古傷をえぐられた気分だ。


 悪かったな、さみしくて!


 扉を開けて言ってやりたい衝動に駆られたが、ぐっと拳を握ってやり過ごした。面と向かって言われたわけでなし、職場で無用な波風を立てたくない。


「そういえば、あの配達の人いるじゃん? あの人ってさ~……」


 噂話は次の話題に移り、拳を開いてホッと息をついた。が、二人が出ていく気配はない。舞は仕方なく目を瞑る。

 今日の夕飯どうしよう、から始まり、次の仕事の段取りまで、一通り考えてしまうと思考は手持ち無沙汰にふわふわ別方向へと漂いだす。次第に声が遠くなると、まぶたの裏には断崖絶壁から望む海が広がっていた。

 崖に沿って均等に並ぶ、古い聖なる血染めの杭列を越えると、崖下から強烈な海風が吹き上げてくる。寄せては返し、白く砕ける波。そこに立つと、耳の中に、ざああ、と暴力的なまでの自然の音が満ちていく。

 かつては魔物が上がってきたとされる崖。今はめっきりそういうこともなくなって、危険でない分、貿易が盛んになったと言っていた。――フレデリックが。


 思い出した瞬間、声が聞こえた。


『マイ。そっちは危ないから、戻っておいで』


 ハッと目を開けると、トイレの狭い個室の中だった。外の話し声はとっくに止んでいて、舞はトイレに一人きりだ。

 しばらくぼうと座り込んでいたが、深く息をつくと立ち上がる気になった。ドアを開け、手を洗う。

 その際、鏡に映った自分をマジマジと見た。今しがた、さみしい、と評価を受けた自分は、確かに幸福そうには見えない。低い位置で一纏めにした髪は毛先が傷んでいて、肌もツヤツヤとは言い難い。年相応よりも、くたびれた二十四歳の女だ。極め付けは目で、かつては希望に輝いていたこともあった気がする瞳は、今は淀んだ猜疑心に満ちみちている。


 けど、だからなんだろう。舞は思い直す。


 誰に迷惑をかけているわけでもない。それに、下手に身綺麗にして話しかけやすい雰囲気を出したら、きっと同情を買ってしまう。そうなったら困る。口の軽い店長から身の上話が流布されている以上、決して相手が張り切って世話をしたくなるほど、可哀想な存在に思われないようにしないと。そうすれば、誰とも深い仲にならなくて済むし……関係に振り回された末に傷つくこともない。

 そうだ。人生をやり直そうと決めた時に、この孤独を、波風の立たない平穏を、舞は愛していこうと決めたのだから。


「……私は仕事をしに来てるだけよ」


 鏡の中の自分に小さく語りかけ、舞はトイレを出た。しょせんこの世は資本主義。生きていくためにはお金が、それだけが必要なのだ。



 

「あ、伊藤、もう帰り? 雨降ってきたよ。傘ある?」


 あ、口軽男。


 帰り際に店長に話しかけられ、瞬時に頭に浮かんだ感想はそれだった。別に隠していないとは言え、触れ回られたい話でもない。舞が無言でいると


「無いなら貸すよ。店のだけど。オオシママートとか、でかく書いてあったりしないから気にしないで」


 と、かつての同級生は軽口を叩いた。高校時代は、涼しげな塩顔イケメンだとかで、クラスでもそこそこ人気があったように思う顔がくしゃりと崩れる。

 この職場で、いまだに舞に積極的に話しかけてくるのは彼だけだった。創業者の息子で、この駅近支店の店長に若くして就いているから、職場に馴染めていない舞が心配なのかもしれない。彼なりに。


「大丈夫です。傘、あるので」


 舞は言い、鞄から折り畳み傘を取り出す。相手は肩透かしを食ったように眉を下げ「そっか」と引き下がった。舞はさっさと帰ろうと頭を下げながら横を抜ける。


「お疲れ様です」

「うん、お疲れ。……あのさ、伊藤!」

「はい」

「あの、……映画とか興味ある?」

「……はい?」

「いや、その、タダ券もらってさ。良かったらなんだけど、今度一緒に……、」


 モゴモゴ言う声が「店長ーっ! ヘルプお願いします!」という呼びかけに掻き消される。だが、店長は口をパクパクさせたまま動かない。仕方なく


「呼んでますよ」


 と声をかけると、「うん、そうだね。そう、呼んでる……」と、手で顔を覆っていた。

 再度「お疲れ様です」と声をかけ、踵を返す。今度は呼び止められなかった。

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