1 猫耳と鉤爪
アルカ王国には作者不明の冒険譚がある。
『大賢者リズワンの冒険譚』──いつしか複製品が出回るほど人気になり、幼い頃のクライドも毎日読み耽っていた。
中でも翼を持つ魔法族と怪獣の長きにわたる天空合戦をリズワンが集結させたという逸話が大好きで、クライド少年はすっかり彼の虜だった。
『僕もこんな冒険がしてみたいなぁ』
しかし、そんな夢もいつしか記憶の彼方へ葬り、魔術師となるべく厳しい修行を積んでいた。
やがて情勢が変わり、転機が訪れたのは二十歳の頃。今は宮廷魔術師として働くことこそが人生最大の誉れと感じている。
そのはずだった。
「おいおい、冗談だろ……!」
つい先日、無事を確認したばかりの少女に翻弄されているクライドは頭を抱えていた。
「サブリナの報告が遅いのは仕方ない。もうわかっている。でも、こんなことが起きているなんて想定外なんだが……」
地図を映した水盆でサブリナの様子を見ると、彼女は途方に暮れた顔で地割れの溝に挟まっていた。
そこはカゲバス村と隣接するタンバメス村の境界である。
工夫すれば飛び越えられなくもないほどの溝だが、どうやら彼女は飛び越えられずに落ちてしまったと見える。
「いつからだ? カゲバス村に着いたのが、えーっと三日前? まさか三日もそこにいるのか?」
そもそも、今までにも危険な地を歩いていたにも関わらず、よく死なずに済んでいるものだ。むしろこんなことになるのは想定の範囲内のはずだ。
大岩で瘴気を塞ぐなどという芸当を平然とやってのけ、怪鳥とも仲良くなってしまう彼女なのですっかり安心していたが、どうやらその認識を改めなくてはならない。
やはり魔力を持たない娘が一人で旅をするのは危険だ。フレデリック国王が情緒を乱してまで狼狽える気持ちがよくわかる。
「こうしちゃおれん。助けに行こう」
さっそく国王に報告し、すぐさま宮廷を発つ手筈を整える。
「クライド、わかっているとは思うが……」
「えぇ、今回も正体は明かしません」
しっかり返事をすると、フレデリック国王は安堵と不満が絡み合ったような複雑な顔をした。
「頼むぞ」
「はい」
そうして、クライドは大慌てでカゲバス村とタンバメス村の境界まで飛んだ。
***
豊かな山林があるカゲバス村とは対照的に、タンバメス村までの境界は剥き出しの岩肌がそびえる。
地は硬く、草木が生えないのは前国王の統治よりも遥か昔からであり、この土地特有だった。
ただ、隣村のカゲバス村にいた魔竜が暴れたせいで村境に地割れが発生し、小さなヒビから大きなヒビまでさまざまある。
村境に降り立ったクライドは『行商人ギル』になりすまし、サブリナの窮地を救いに走った。
「サブリナ! 待ってろ、今助ける!」
彼女がいた溝まで行くも、クライドは目を白黒させた。
「いない……!?」
──まさか、また怪鳥か何かに捕まったとかないだろうな!?
地面に手をついて嘆く。脳内をぐるぐる巡るのは〝遭難〟や〝死〟などの不穏な文字。
サブリナの安否はもちろん、自分の立場や国王の顔までいくつもの不安要素が思い浮かび、たちまち胃に穴が開きそうになる。
すると、背後から足音がした。
「あらら? ギルさんじゃないですか!」
振り返ると、頬に擦り傷を作ったサブリナがキョトンとした目で突っ立っていた。
「サブリナ! 無事か!」
「え? あ、はい、無事です……って、どうして私が溝にはまったことをご存知なのです?」
「あっ……いや、それは……そんな気がしたんだ」
しどろもどろにそれだけ言うも、サブリナはまったく疑う様子もなく「そうですか」と笑った。
「溝にはまったのに、どうして君はそこでピンピンしてるんだ」
確かに彼女は、数分前まで溝にハマって途方に暮れていた。どうやって脱出したのだろう。
「そうですね、三日前にこの溝に落ちまして。飛び越えられると思ったんですけどねぇ……動けば動くほどどんどん下へ落ちていきますし、仕方がないので下まで落ちてみたんですよ」
とんでもないことを言い出すが、彼女の言葉に嘘はない。クライドが見た時にはすでに彼女は溝の底まで沈み、表情に虚無を張り巡らせていたのである。
「誰かが通るかもと思い、待ってみたんですが、なかなかこんな場所を歩く人がおらず、なんとかパンと水をちまちま食べて飲んで過ごしていたんです。そうしたら先ほど、溝の向こう側から声がしました。『お姉ちゃん、はまったのか?』って」
「声?」
「はい。もしかしたら天使が降りてきたのかもと思いました」
「それはもう死にかけていたってことでは……」
「私もそう思いました。でもほら、生きてます!」
サブリナは愉快そうにケラケラ笑う。クライドは呆れて言葉が出ない。
──こちとら笑いごとじゃないんだよ!
「声の主は、タンバメス村に住んでいる男の子ですね。ついていくと溝の中心部は空洞になっていて、そこにはあまり舗装されていない手作りの石段があったんです。おかげで助かりましたが、彼、気づいたらどこかに行っちゃったんです。それで探していると絶望してるギルさんがいたわけです」
事の顛末がようやく知れ、クライドはもう何も咎めることなくただ「そうか」とだけ言った。
安堵と同時に不満が胸中に膨らむ。サブリナはこちらの心配をよそにまったく反省している素振りがない。
──余計な心配だったかも……。
「それで、ギルさんもタンバメス村に行かれるんですか?」
「え? あ、あぁ……まぁな」
「では一緒に行きましょう! 私もようやく次の村へ行くことができます。わくわくするなぁ」
──わくわくって……この危険な旅を楽しんでいるのか?
彼女は腕まくりし、意気込んでいるが──その様子を見て、クライドは記憶の奥底に仕舞っていた少年時代の感情をわずかに思い出した。
すぐさま頭を振って振り払う。
「ギルさん、そこかしこに溝やヒビがあるので気をつけてくださいね」
先を行くサブリナが声をかける。
「君に言われたくないよ」
だが、油断大敵。言われた通り、足元のヒビに気をつけながらサブリナの後を追った。
山を越えると人里が見えてくる。とても小さな集落であり、活気がなく人も少ない。元々そういう土地柄なのだろう。
「そういえば、その少年がタンバメス村の子だってのは、なんでわかったんだ?」
森に入り、クライドが訊くと、サブリナはあっけらかんと答えた。
「だって、タンバメス村の方から来たんですよ。それにカゲバス村の方々はこちらに近づきはしません。今はもう魔竜はいませんが、長いことあの山周辺は立ち入り禁止区域でしたから」
「なるほど」
クライドは感心した。カゲバス村とカリオケット村での一件で彼女の分析能力はすでに確認済みだ。疑う余地はない。
サブリナは、がま口から縦長の台帳を引っ張り出して何やら調べ始めた。
「それは?」
「薬草標本です」
クライドの問いにサブリナは素直に答える。背後から覗けば、それは台帳に薬草を押し花にしており、その脇に小さく細かい文字で特徴や効能などを記しているものだった。
彼女は足元を真剣に見ながら歩いていく。
「あった。傷に効く薬草、ミョイゴ!」
サブリナは開いていた標本の押し花と同じ形状のギザギザした薬草を摘んだ。
「これをこねていくと、ジャムみたいになります」
「ジャムというか、軟膏だろ」
思わずツッコミを入れると、サブリナは「それです!」とケラケラ笑う。
その場に座り、水筒の水でミョイゴを丁寧に洗う。水分を含んだギザギザの葉がふっくらと膨張し、丸みを帯びた。それから彼女は、手際よく軟膏を作っていく。
その様子をクライドはただただ真剣に見つめる。
「やっぱり手慣れているな」
「もちろんです。師匠から叩き込まれましたからね。基本的な調合から難しいものまで、すべてのレシピがこの頭に入っています」
薬草もまた古い知恵の一つである。
サブリナは水分で膨張した葉を手のひらでこねていた。すると水分と葉の成分が混ざり合い、もちもちとした弾力のある物体に変化していく。
「さらにこねると人肌で柔らかくなっていきます。そして……ほら!」
サブリナの手のひらには透明な軟膏、それも一回分ほどの量が出来上がっていた。
「おぉ!」
クライドは思わず感嘆の声を上げた。
サブリナが得意げに胸を張り、頬や足、指などに軟膏を塗りたくった。
「一度にたくさん作ってしまえば楽ですけど、持ち運ぶと重いし不便ですからね。簡単なものならその場で作ったほうが良いのです」
そう鼻高々に言うも、サブリナはすぐに苦笑した。
「と言っても、これは師匠の受け売りなんですよ」
「師匠……ね」
クライドは違和感を覚えた。
彼女はずっと師であるアニエスのことを決して悪いようには言わない。そう思ってもいなそうで、むしろ今でも尊敬しているようだ。
「さぁ、これで鬱陶しいチクチクから解放されました! 少年を探しますよ!」
サブリナの頬に塗った軟膏は空気に触れて固まっており、透明な膜となっている。
──助けに来たのが無意味だったなぁ……。
クライドは肩をがっくり落とし、意気揚々と先へ行くサブリナを追った。
ようやく村の門まで辿り着いた頃には、とうに昼時を過ぎていた。
「お腹空きました……」
隣で地響きのような空腹音を鳴らすサブリナ。
思えば三日間、わずかな水分とパンで生きながらえていたのだ。なんとも哀れだったので、仕方なくクライドは提案した。
「そういえば俺も昼食がまだだった。この村、飯屋があるのかな。何か食べよう」
「私、この辺りは初めてなのでわからないんですよねぇ」
サブリナがだんだん萎れていく。
すると背後から少年の声がかかった。
「おい、お前たち」
振り返る。しかし、誰もいない。
「ん?」
サブリナとクライドは顔を見合わせた。
「おい、こっちだ、マヌケ!」
背後の茂みがもこもこ動く。そこから覗くのは黒い猫耳だった。
クライドは瞬時に反応し、サブリナの前に立つ。
「魔物か?」
「魔物じゃねぇ!」
途端に猫耳を生やした茂みが怒る。その際、毛だらけの前足が飛び出し、大きな鉤爪が顕になった。
「やっぱり魔物だろ!」
クライドの大声に、猫耳の茂みがビクッと震える。
「待ってください、ギルさん」
サブリナがクライドのシャツを引っ張り、前に進み出た。
「魔物と決めつけるのは良くないですよ」
「魔物は人間を欺く。君こそ、そいつに耳を貸すんじゃない」
「でも、この子の声はさっきの少年です。私、しっかり覚えてます」
サブリナの訴えに、クライドは返す言葉がなかった。
それにもし目の前の猫耳が魔物だったとして、魔法を使って追い払うことはできない。
サブリナの前で魔法を使えない──そんな制約を思い出し、歯痒くなってくる。
そんなクライドの心情も露知らず、サブリナはゆっくりと〝茂みモンスター〟に近づいた。