サイプラス【ノベライズ編】
穏やかな日である。
地中海の波も静かで、潮風が気持ちいい。いい航海になりそうだった。
ユリウス・ハールーン・ラジドは、海風に頭布を外した。陽に赤毛が光る。
少年は大きく伸びをした。
「親父殿の眼がないからって、のんびりしすぎるなよ。」
ユリウスの頭を小突いたのはダグである。彼の金髪は、この船でとても目立つ。
アラブ服の連中のなかで、ダグは鍛え上げられた身体にジェノヴァで買った服を身につけ、サンダルの紐を足首の上まで結びあげている。ベルトには真っすぐな長剣が吊るされていて、事ある際には抜き放たれるのである。
ユリウスとダグは親子ほどの歳の差があるが、二人は友達といった方が似合っている。ダグと初めてあったのは十二年前の砂漠だった。ダグが砂漠で渇死寸前だったところをユリウスが助けたのである。
もっとも、当時、幼児だったユリウスは彼を見付けたに過ぎず、正確にはユリウスの養い親に救われたのであるが。以来、彼は「命の恩人」に仕えている。
「サイプラスに寄港するんだって?」
手摺りにもたれながらダグが尋ねた。
「ええ。水と食糧も欲しいし…。
サイプラスのコルベルト家の当主が亡くなられたって話です。
養父さんの知り合いだったから、代わりに挨拶に行ったほうがいいかなって。」
「出来た息子だな。」
「嫌味ですか。」ユリウスが口を尖らせる。その顔を見てダグが笑いながら続ける。
「『商人たるもの人を軽んずるな』って、親父殿の台詞だったっけ?」
「…知らないわけじゃないんです。
僕が拾われた時、クエトに戻る途中、コルベルト家でお乳を飲ませてもらったんだって。」
「ふーん。
まぁ、義理堅いのはいいことさ。それにお前さんが今回の責任者だしな…。
時に、若、コルベルトの現当主って知ってるか?」
「いいえ。噂じゃ、西国から来た人だって。」
「ああ、イングランドらしい。俺ほどじゃないが、いい男だそうだ。
十字軍の流れ者でコルベルトの傭兵になったが、先代に見込まれて娘婿に納まった。
異例の婿殿だが、周りに有無を言わせなかったらしいから、相当に出来る奴かも知れんな。」
ダグがさらりと言う。横でユリウスが目をぱちくりしている。
「どうして知ってるんです?」
「イイ男の話ってのは、女の間じゃ早く詳しく拡がるものなのさ。寝床で横になってたって、ヤルばかりが能じゃない。情報を仕入れるのも仕事のうち。」
「ダグ!」
「なんなら、今度、手ほどきしようか、若殿。」ダグが笑いながら言う。
「結構です!」
ユリウスは顔を真っ赤にしてふくれた。
「ねえ、何の話、してるの?」
二人の間に少年姿が割って入った。ざん切りにされた黒髪は肩まで伸び、背も出航時よりほんの少し高くなっている。大きな瞳がキラキラと輝き、赤毛の少年を見た。
「男の話。」ダグが応じる。
「ファルには関係ない。」
ユリウスも素っ気無い。
「ひっどーい! 約束通り、ちゃんと『男』やってるじゃない。そーゆーときだけ、『女』って言うの!
ユリウスの意地悪!」
「ファル、あ、また、頭布を忘れてる。」
ユリウスが眉をしかめる。
「あら、ユリウスだって。」
「ハサンに言い付けるぞ。」
「いいわよ。兄貴なんて恐くないもん。
風が気持ちいいね、ダグ。」
子供の会話にダグが微笑んでいる。金髪の大人はファルの帯から頭布をとると黒髪に被せた。
「ダグ!」ファルが不満げに叫んだ。
「海の女神は嫉妬深いんだよ、ファル。俺はまだ、死にたくないんでね。」
◇◇◇
サイプラスは地中海の寄港地として古代から栄える島である。欧州とアラブ、エジプト航路の要所であり、人も商品も集まっては方々に散っていく。対岸ではイェルサレムの帰属を巡って、十字軍が戦いを繰り返していたが、十字軍寄りの王を戴くサイプラスは、その物資の補給地でもあった。
コルベルト家は、島内第一の勢力を誇り、その影響下にはサイプラス一の港も含まれている。サイプラスを治めている王もこの一家には、一目置かざるを得ない。
代々、島の実力者であったコルベルト家は十字軍の遠征で巨万の富を得るに至り、その名は地中海界隈に知れ渡った。必然的にその富を狙う連中も増え、一家を守るために傭兵を雇っている。しかし、それには良い傭兵隊長を雇うことが肝要であり、良い隊長なくしては良い傭兵集団にはなりえないのである。
現コルベルト家当主は、十年ほど前、一傭兵としてサイプラスに渡ってきた。西の果ての島国からやってきたこと以外、彼の素性は誰も知らない。彼は無口で、誰とも組みしなかった。だが、彼が敬虔な教徒であることや剣の腕が立つにもかかわらず、自慢らしくないところが、かえって傭兵仲間の人望を集め、気が付くとコルベルトの傭兵隊長になっていたのだった。その働きは先代に認められ、一人娘の婿にと懇願された。娘の方もまんざらではなかったらしく、彼はすんなりと婿養子におさまったのだった。
唯一、彼に汚点があるとすると、敬虔な教徒であったはずなのに彼の妻は婚礼後、半年で子供を産み、下世話な話題を提供したことだろう。が、彼ら夫婦は仲睦まじく誰からも好かれていた。
◇◇◇
ユリウスの船は港の隅に繋留された。サイプラスの港が開かれているとはいえ、十字軍との戦いが終わっていない現在、余計な争いは避けたほうがいい。
夜、ユリウスはささやかな土産物を持って、ダグを伴い出掛けた。珍しくダグもアラブ服を着ている。港の花街に行きそびれてむくれていたが、ユリウスひとりを行かせるわけにもいかず、大人しく従っている。もっとも、だぶついている衣装の下に剣を忍ばせることは忘れていない。ユリウスの身に危険がせまれば即座に戦うつもりである。
馬車はコルベルト家の玄関に止まった。
ユリウスとダグを迎えたのは、コルベルトの老執事だった。老執事はアラブの彼らに嫌な顔もせず、いつもと変わらない丁寧さで主人のもとへ案内した。
コルベルトの城内は、石組みの壁に高い天井、その湾曲はモスクの天井を思わせる。が、彼らが通されたのは中庭の緑の中の部屋だった。外観は大きな窓にガラスが入り、ヴェネチアの華やかな街並みを思い出させる。内部は、背の高い椅子と大きなテーブルが並び、壁にはビザンチンのタペストリー、床にペルシャの絨毯が敷かれている。絨毯を見てユリウスが小さくため息をつく。何万ディナールになるだろうか。そんな高級品を足下に敷くのだからコルベルト家の財力は相当なものだ。
コルベルト家の当主は、燭台で照らされた部屋の窓際に立っていた。長身の男だった。蝋燭の灯りで、短い頭髪は赤銅色に光った。長衣の絹の光沢が肩から流れ落ちる。
「旦那様、クエトのラジド様のご子息様でございます。」
窓際の男は老執事の声に顔を向けた。年令は四〇半ばぐらいだろうか。ダグより上のようだ。鼻筋は真っすぐで、皺は多くなく、彫りの深い目元が静かすぎるぐらいの雰囲気を漂わせていた。左頬に不自然な皺が刻まれている。刀傷だろう。だが、その傷さえ静かな眼差しに溶け込んでしまい、違和感を持たせない。
「いい男だ…。」ダグがユリウスの耳元で囁いた。
ユリウスはそれを無視して一歩、前に進み出た。
「ようこそ、ラジドの若殿。」
先に声をかけたのはコルベルト家当主だった。
「初めまして、私、ジュリアス・コルベルトと申します。どうぞ、お見知りおきを。」
「は、初めまして。ユーリ・ハールーン・ラジドです。
この度は、大変な事で、お悔やみ申し上げます。」
ユリウスがダグを促した。ダグは上着の内側から皮袋を取り出した。彼の白い手のひらでずしりとした質感をうかがわせる。
「ご挨拶でございます。」
ダグが小声でそう添えながら皮袋をコルベルトに差し出した。当主は受け取ると袋の感触を確かめ、口を少し緩めると香りをかいだ。微笑を浮かべ、再び口を堅く縛った。香料の袋はそのまま戸棚にしまわれた。
「ありがとうございます。生前の義父は、貴方のお父上であるハールーン・ラジド殿とご懇意にさせていただいたそうで、お話はうかがっております。どうぞ、お掛けください。お供の方も。」
コルベルトは二人に椅子を勧めた。彼が壁の紐を引くと程なく老執事がコーヒー盆をかかげて入ってきた。銀のポットから注がれる湯気のたった黒い液体はユリウスの緊張を溶かしていった。
「じきに夕食の支度が整うでしょう。私の家族ともお会いください。」
コルベルトの微笑みはユリウスをどぎまぎさせた。養父ハールーン・ラジドの慈愛に満ちた微笑みとも違い、コルベルトの微笑みはどこか哀しさを含んでいる感じがした。ダグがいったような歴戦の強者という印象はない。同じ軍人といってもダグとは違う。もっと厳しいものをコルベルトから感じるのだった。どちらかといえば、砂漠の導師の姿を思い出させる。
「航海はいかがでしたか。」
「え、は、はい。」
ジュリアスの問いかけにユリウスが慌てた。
「ラジド家の若君のお噂はうかがっております。年若くありながら、よき商人として各地で歓迎されておられると。」
「と、とんでもありません! 私はまだ未熟者で、父ハールーン・ラジドの人望があってこそ仕事をさせていただいております!」
うわずったユリウスの声にダグが苦笑した。「落ち着け。」彼の若主人に囁く。
「貴方のお父上は、世の東西を問わず尊敬されていらっしゃる。私も商いを生業にする者として、見習いたいと思っております。」
ユリウスがゆっくりと息を吐いた。彼は笑みを浮かべた。
「…コルベルト様なら、父以上になられると思います。」
ユリウスは、ジュリアスを見た。
「…。
しかしながら、ここのところまた、東と西の間の空気が悪くなっております。私共はただの商人でございますが、アラブであることで断られた取り引きもございます。
私共の商いは、西国の求めるアラブの財を提供して利益をいただいております。スパイスや織物、今では西国になくてはならないものとなっておりますのにアラブのすべてを否定されてしまって、いささか困惑しております。」
ダグが思わず、ユリウスの袖を引いた。
「…」
「また、西からの遠征が始まるのでしょうか。」
「若!」ダグが口を挟んだ。
「若、滅多なことを言うものではありません!
コルベルト様、なにぶん子供ですゆえ、お許しのほどを。」
「下々では、また戦さだと噂されております。」ユリウスが食い下がる。
「…。若君は何をおっしゃりたい?」
「戦さをさせないで下さい。」
「若!」
「サイプラスは、軍の中継点です。ここで物資の調達ができなければ、戦さを続けることができません。戦さができなければ無用な血は流されなくて済みます!
それには我々商人が物を売ったり、軍資金を貸さなければいいんです!
貴方はサイプラスの実力者です。貴方が協力してくだされば、」
「ラジド殿、」ユリウスの言葉を遮ったのはジュリアスだった。
「今日のサイプラスの繁栄は、十字軍によるものです。それゆえ、当家も十字軍のお世話をいたしております。
西国の、聖地を崇める者としては、異教の者に踏み荒らされているのを見ているわけにはいかないのですよ。」
「我々にとっても聖地です。お互い、聖地だというなら、血を流して汚すことなんかないはずだ…。」
「若君のおっしゃることは、商人の言葉とは思えません。」
「…」
「商人ならば、よい商いの機会として富を増やすことをお考えになるべきではありませんか。」
「…」ユリウスが唇を噛む。
扉の音にジュリアスが視線を外した。
「旦那様、」
執事が頭を下げた。
「さあ、食事の用意ができたようです。どうぞ。」
ジュリアスが立ち上がった。
「ご当主、」
ダグが口を開いた。
「せっかくのご好意を申し訳ないのですが、どうも我が主人は具合いが悪いらしく、今夜のところは引き取らせていただきたいのでございますが。」
ジュリアスは、少年を見下ろした。ユリウスの拳が震えている。
「長い船旅で疲れが溜まっておりまして。連れ帰りたいと存じます。」
ダグが上目使いにジュリアスを見上げた。その目が鋭く光る。ジュリアスは、ダグの視線に臆することなく、穏やかな笑みを浮かべた。
「そのようですね。今宵の処は、その方がよいやもしれません。」
「さあ、ユーリ様、船に戻りましょう。」
「ダグ、僕は…」ユリウスが口篭もる。
「今日のところは、帰るんだ。」ダグが諭した。
ユリウスが力なく立ち上がった。
◇◇◇
二人はジュリアスに送られてコルベルト家の門へ降りてきた。馬車を待つ間、ユリウスは俯いたままだった。島に打ち寄せる波の音が響く。
「ときに、静かな夜ですなぁ、ご当主。」
ジュリアスに話し掛けたのはダグのほうだった。
「昼間の喧燥が嘘のようだ。」
月明かりの中にジュリアスの穏やかな顔が浮かんだ。
「そうかもしれません。サイプラスの本当の姿は、このように静かなものです。」
ダグはジュリアスの横顔を見た。頬の傷が彼の顔に影を落としていた。が、次の瞬間、ダグはジュリアスの背後に殺気を帯びた人影を見つけた。
「ご当主! 後ろ!」
ダグの叫びと同時にジュリアスが長衣の裾を翻した。ダグはユリウスを突き飛ばし、邪魔な自分の上着を引き裂いた。その手に半月刀が握られている。ジュリアスは自分を襲った敵を交わし、剣を奪い取っていた。
「殺れ!」
襲撃者の一人が叫ぶと呼応する声が辺りに響いた。
「出合え~!」ジュリアスの声が響き、屋敷を取り囲む城壁の回廊からコルベルト家の傭兵達が駆けつけてきた。双方が入り乱れ、剣の音が響く。ジュリアスは、傭兵あがりといわれるだけあって、誰よりも強く、次々に敵を倒していく。ダグも負けじと応戦し、彼らの活躍の中でユリウスは身をかわすだけで精一杯だった。こういう時のユリウスは全く役に立たない。ダグに教わって剣を振るうことはできるが、人を傷つけることに抵抗があるのだ。ダグが喧騒の中をユリウスのほうに近づいてきた。その手に長剣が握られている。
「若、身を守れ!」
ダグがユリウスに長剣を投げる。ずしりと剣がユリウスの手に納まった。と、同時に敵が向かってきた。
「え?」
ユリウスが剣を振り回して辛うじて身をかわす。が、逃れられない。思わず身を縮めたとき、ユリウスを襲った男が、地面に倒れた。そのあとにジュリアスが現れる。
「大丈夫か。」
「は、はい!」
「私のそばを離れるな!」
ユリウスは頷くとジュリアスの陰に身を寄せた。
ジュリアスは、ユリウスを庇いながら、あらかたの敵を倒した。
地面に死体が転がっていた。
「若、怪我は!?」
ダグがユリウスに駆け寄った。
「だ、大丈夫…。ご当主殿が助けてくれたから…」
「あ~あ、これだから!
我が身を守れるように稽古しなさいといったでしょう!」
「ラジドのご子息は、争いごとが本当にお嫌いなようだ。」
月明かりの中で、ジュリアスが笑った。今、戦ったばかりだとは思えない穏やかな笑顔だった。
「で、今の連中は?」
「巻き込んでしまって申し訳ない。連中は、この島の中で反サラセンを主張している。」
「ほう。」
「が、その実、サラセンと交易している当家を邪魔に思っている者達の差し金でもある。」
「ご当主も苦労が多そうだ。」
ジュリアスが苦笑した。
「さあ、もう一度、馬車を用意させましょう。誰か!」
ユリウスは、自分の前に長い影が伸びたのに気づいた。後ろを見上げた。城壁の上に人影がある。人影が動いた。ユリウスは、そばのジュリアスの身体を押した。
「ラジド殿、何を?」
よろけたジュリアスがユリウスを見た。右肩を押さえたユリウスがゆっくりと地面に倒れこんだ。
「ユーリ!」叫んだのはダグだった。
ダグが駆け寄るより先に、ジュリアスがユリウスを抱き起こした。
「ラジド殿!」
「か、からだ…、しびれ…」
ユリウスが口をぱくぱくさせた。
「これは!?」
ジュリアスは、ユリウスの右肩から矢を引き抜いた。
◇◇◇
砂漠に長い影を落として男が立っている。陽光を背にした顔は、影になってよく見えない。ユリウスは、彼を見上げていた。両手を挙げて呼びかける。『お父さん!』 長身の男はゆっくりと腰を落としてユリウスを抱きしめた。ハールーン・ラジドの大きな腕の中がユリウスの一番大好きな場所だった。
『お父さん!』ユリウスはハールーンの身体にしがみついていたはずなのに宙に放り出されたような感じがした。小さかった身体は、宙を舞っているあいだに十五歳の少年に変わっていく。重くなった身体は、砂の上に横たわり動けなくなっていた。暑さは感じなかった。ぼんやりとした明るさの中に留まっている。ユリウスの耳に泣き声が聞こえてきた。誰だろう? エミール? それとも…
ユリウスは視界が暗くなったのを感じた。彼は、頬にあたった涙を感じて、瞼をゆっくりとあけた。目の前にファルの黒い瞳があった。真珠よりも大きな涙が瞳から零れ落ちていた。
「ユリウス…」
幼なじみの少女は、少年の青い瞳を見ると一層、大きな声で泣き出した。
「ユリウス! 死んじゃったかと思った~!」
ファルがユリウスの首に抱きついた。ダグが慌ててファルを引き離す。
「こら、ユリウスは怪我人なんだぞ。」
ユリウスが苦笑を浮かべた。
「わかるか?」
ユリウスが頷く。
「ここ…」
「コルベルト家だ。ご当主が面倒を見て下さってる。あの時の矢に毒が塗ってあったらしい。」
「死にかけたのよ!」ファルが口を挟む。
「手当てしてくれた修道士の話じゃ、動けるようになるにはもう少し、養生が必要だそうだ。」
ユリウスが頷いた。再び、瞼が閉じられる。
「ユリ!」
「ファル、心配ない。大丈夫だよ。」少年は小声だが、はっきりと言った。
「うん。」ファルが涙を拭いて頷いた。
「ファル、ユリウスについててくれ。コルベルト様にお知らせしてくる。」
◇◇◇
ダグは、ファルを残すと部屋を出た。ユリウスもこれで大丈夫だ。宙を仰いで大きく息を吐く。
赤茶けた階段を降りていくと陽の降り注ぐ中庭に出る。城壁の中でここが一番静かで落ち着いた場所である。緑の植物がこぼれんばかりに中庭を埋める。この中庭の向こうにジュリアスの執務室があった。
「おや、」
ダグの足元に毬が転がってきた。ゆっくりと拾い上げる。金糸で細工された小さな毬。確か、東の果て、砂漠よりもずっと東の国で作られているのだとハールーンが言っていた高価なものだ。
「あう、あう。」
小さな手がダグの毬を取り返そうと伸びた。ダグが視線を落とす。長い金髪の幼女が手を伸ばしている。
「お嬢ちゃんのかい。」
ダグが毬を幼女に返した。幼女は、毟り取るように毬を取り返すと地面に座り込んで身体を揺らした。ふわりとした絹のドレスが土で汚れた。
「お、おい。」
さすがのダグも幼女の地団駄には閉口してしまった。どうしたものだか…
「アンジェ、アンセルリーナ!」
中庭の白い花をかき分けるようにして、貴婦人が現れた。金髪が光を受けて彼女を輝かせている。南の国には珍しく色白で、サイプラスの海と同じ青い瞳がダグを見た。
ダグは呆然と突っ立っていた。こんな美人、初めて見た…
「アンジェ、」
貴婦人は座り込んでいる幼女を抱きあげた。
「申し訳ございません。娘が、お客様にご迷惑を…」
「い、いえ、な、何も。」
「娘」という一言で、ダグは正気に戻った。なんだ、人妻か。
「さ、アンジェ、お部屋に戻りましょう。」
「う、うー!」
子供がなおも暴れて、大きな声で泣き出した。
「ア、アンジェ…」
婦人が困惑顔を浮かべた。ダグが子供に顔を近づけた。
「お嬢ちゃん、お母様を困らせちゃいけないなぁ。」
アンジェは、ダグに拳を向けてなおも暴れた。
「げ、元気過ぎるお嬢さんですな。」
「…」
「どうした、ティナ。」
ジュリアス・コルベルトが中庭に降りてきた。彼は、ダグ達を見つけると目を細めた。アンジェはジュリアスの姿を見ると彼に向かって片手を伸ばした。
「あー、あー!」
ジュリアスは、婦人からアンジェの身体を受け取った。
「娘がご迷惑をかけたようですね。申し訳ない。」
ジュリアスに抱かれたアンジェは、満足そうに父親の胸に身体を預けた。
「ご当主のお嬢様で?」
「ええ、紹介が遅れて申し訳ない。妻のティーリアと娘のアンセルリーナです。
ティナ、ラジド家のダグ殿だ。」
ティーリアが膝を少しかがめてダグに頭を下げた。
「と、とんでもない。奥方殿にこのような。私はラジド家の使用人にすぎません。」
ジュリアスが微笑んだ。
「ダグ殿、何か?」
「あ、そうでした。主人ユーリの意識が戻りましたので、ご当主様にお知らせをと思いまして。」
「それは良かった。お会いできますかな。」
「ええ。」
「あなた、アンジェを。」
「アンジェ、母さまの方へ…」
アンセルリーナはジュリアスにしがみついたまま離れようとしなかった。
「よろしければ、お嬢様もご一緒に。」
「申し訳ない。」
ジュリアスは、娘を抱いて歩き出した。
◇◇◇
ファルの開けた窓から、海風が入ってきた。
「気持ちいいでしょう。」
ファルは、寝台のユリウスに向き直った。
「何があった?」
ユリウスが呟く。
「ここから帰ろうとしたときに、襲われて… そうだ、肩!」
傷口に手をやる。痛みに顔を歪める。
「馬鹿ねぇ! やっと、塞がったばかりなのよ! おとなしくしてなさい!」
ファルの瞳が涙で潤んだ。
「三日もうなされてたの。本当に死んじゃうと思った。」
「ファル…」
「ここのご当主様の手当てが早かったから助かったのよ。ダグがそう言ってたわ。」
「…」
ファルがユリウスの側に座り込んだ。
「よかった…」ファルが涙を拭く。
ユリウスがファルの肩に手を伸ばしかけた。が、扉の軋む音に思わず手を引っ込める。
「ユーリ、」
ダグがジュリアスを伴って戻ってきた。
「ご当主様…」
ユリウスが起き上がろうとした。ジュリアスが笑顔で制する。
ジュリアスは、アンジェを下におろすとユリウスの枕元に近寄った。ファルが場所を空けた。
「ありがとう。」ジュリアスはファルに礼をいうと腰掛けた。アンジェが寝台にしがみつく。
「助けていただきました。お礼を申し上げます、若君。」
「え?」
「若君に庇っていただけなければ私が命を落としておりました。」
「い、いえ。私のほうこそ、こうして…」
小さな手がユリウスの指を握った。少年は手の先を見た。アンジェが不思議そうにユリウスの指先を触っていた。
「アンジェ、だめだよ。」
ジュリアスは娘を膝に抱き上げた。金髪の幼女は、ジェノヴァで見た人形のようだった。
「娘のアンセルリーナ。アンジェと申します。」
「こんにちは、アンジェ。」
「お客様を珍しがって、申し訳ありません。」
アンジェがジュリアスを見上げた。何か気を引こうとしているらしいが、言葉にならない。
「可愛いお嬢様ですね。」
ジュリアスが嬉しそうに微笑んだ。
「ご気分はいかがです?」
「まだ… なんだか、ふらふらします。」
「ゆっくり養生なされるといい。」
「ありがとうございます。」
ジュリアスの微笑みは、彼の大好きなハールーンの笑顔に似ていた。
◇◇◇
さすがにユリウスも体力が回復するまでには時間がかかった。その間、輸送契約もあり、彼は船長のハサンに命じて、船を次の寄港地に向かわせた。コルベルト家には、ダグとファルがユリウスの付き添いで残り、やがて、半月が経とうとしていた。
食欲も戻り、寝台から出て日常生活にも不自由なく回復してきたが、まだ、手足の先に少々の痺れが残っている。それさえなくなれば大丈夫だ。コルベルト家での生活もそう悪くはない。三人とも客人として大切にされていたし、自由だった。
ジュリアス・コルベルトは、時々、ユリウスを伴って商談の席についた。相手は主にビザンツの商人達。その会話から、またフランク人達が聖地奪回のため動き出していることも察知できた。が、なぜそういう席にジュリアスはユリウスを伴ったのか。その心意のほうが解せなかったが。
先発させたハサンから書状が届き、無事に荷が着いたことと、迎えの船を出発させたことが知らされた。
「そろそろ、発たなきゃ。」
ダグと書状を見ながらユリウスが苦笑を浮かべたとき、事件は起こった。
◇◇◇
蝋燭の灯りが机上の地図を揺らした。
眉間に皺を寄せていたのは、コルベルト家の傭兵隊長シャールだった。かつてのジュリアスの副官である。
「砦までは一本道、背後は潮流速い外海・・・」
「…夜襲は厳しいなぁ。」呟いたのはダグだった。
コルベルト家の居間で、男達が頭を付き合わせていた。その原因は…。
夕刻、日が背後の山にかかるころ、コルベルト家の門に一通の文と子供の上着が投げ込まれた。
手紙の内容は、コルベルト家の幼女を誘拐したこと、返して欲しければ当主が身代金を持参して、明朝の日の出の時刻に島南端の砦まで来るようにというものだった。あまりにも稚拙な誘拐劇に彼らは頭を抱えることとなった。
ジュリアスの一人娘、アンセルリーナはその日、ファルや使用人達と一緒に港の市場へ出かけた。コルベルト家に滞在するようになって、アンジェはすっかりファルに懐き、離そうとしなかった。普段なら子供だけで行かせることはなかったのだが、子供向けの見世物が来ているというので少しの供をつけて出してしまったのだった。アンジェにもファルにも男の服を着せて、コルベルトの子供だとわからないように注意させたのに。供の不意を付いて、数名の男達が子供たちを攫っていったらしい。ファルはアンジェを抱えたまま、連れて行かれた。抵抗をしなかったのはアンジェのためだろう。救いはファルが一緒にいることだ。
「金で解決できるなら… 造作もないがな。」
ジュリアスがため息をついた。
「ですが、お館様、奴らの目的は金ではないでしょう。」シャールが言う。
「…ご当主のお命?」
ダグの言葉にジュリアスが苦笑して続けた。
「ここまで、嫌われているとは。」
「…。」
「身代金を用意しよう。私が持っていく。」
「はい、お館様。」
「だが、貴方が行ったところで、二人が無事に戻る保障はないのでしょう。」
ダグがジュリアスに言った。
「それは困る。」
「謝罪する言葉もない、ダグ殿。大切なファル殿まで巻き込んでしまった。」
「ファルは、必ず、取り戻す。貴方のお嬢さんも。」
それまで、机の隅に立ち、ずっと黙っていたユリウスが口を開いた。その口調にダグも驚いてユリウスを見る。恐ろしく、低く冷静な声だった。
「船を出せますか。」
「え?」
「足の速い船がいい。」
「若?」
「岬の砦、海側は崖ですか。高さはどのくらい?」
「何、考えてる?」
「…海側から砦に入る。」
「!?」
「正面からは、ご当主にお願いする。ご当主が現われればその間、砦の中が手薄になるだろう。」
「おい、敵がどのくらい、いるのかわかってないんだぞ。」
「せいぜい、五十ぐらいだよ、ダグ。百もいれば食糧だのなんだのと目立つ荷が砦へ向かう。そういう噂は必ず立つ。ひと月ふた月なんて考えてるはずがない。ご当主を亡き者にしたいだけなんだから。」
「…。」
「…岬の崖は、20ヤードほど。砦は海に張りだした形であります。その下の海は潮が速く、流されやすい、危ないところです。」
「だから、潮に乗れば、音を立てずに崖下にたどり着ける。」
「…。」
「弩を貸してください。」
「え?」ジュリアスが聞き返す。
「若には、扱えないでしょう。」ダグが口を挟む。
「クラクの砦で、習ったよ。」
ユリウスはダグを見ずに答えた。彼の目は島の地図に向けられている。ダグが嫌な顔をした。
ユリウスが地図に指を落とし、島の縁に沿って滑らせる。
「潮の流れに沿って、崖に近づく。砦の下を登り、奴らの背後から中に潜入する。
ご当主は、取引に応じたふりをして正面から乗り込んでください。
貴方が目当てなのですから、砦の注意は貴方に引きつけられる。背後は手薄になります。その間に二人を助けます。」
蝋燭の灯りの下で十五歳の少年は、冷ややかな目をしていた。大人達のほうが沈黙に陥る。傭兵隊長は、主人と少年の双方を見た。
「…漁師のリュードに水先案内をさせよう。この辺りは彼らの漁場だ。ラジド殿とともに行く者を用意せよ。」
「はっ。」
「鉤付きの縄と縄梯子も。」
ユリウスにシャールが頷く。
「夜明け前には、砦の下にいきたい。支度を。」
「時間がないな。シャール、急いでくれ。」
傭兵隊長は、一礼すると部屋を出て行った。
「行くって…、若では、かえって足手まといだ。」
「ダグ、貴方はご当主の警護を。身代金の荷車には馭者もいるだろうし。」
「ユーリ!」
「ダグは、泳げないだろう。」ユリウスが微笑った。
本当を指摘されて、ダグに返す言葉がない。ダグは矛先をジュリアスに向けた。
「ご当主も子供の言うことを聞くなんて!」
ジュリアスも苦笑する。
「私も同じことを考えていました。」
「ご当主~!?
お嬢さんやファルがいるんです。危険に晒す気ですか!」
「…決着をつけるしかないのです、ダグ殿。」
ダグが諦めのため息をついた。
「お二方もお支度を。朝までそう時間はありません。」
ジュリアスの言葉にユリウスが頷いた。
扉の軋む音がした。三人がそちらを見る。コルベルト夫人が入ってきた。
「…ティナ。」
青い顔をしたティーリアがジュリアスの袖を掴んだ。彼女は今にも倒れそうに見えた。
「部屋にいるように言っただろう。」
「あなた…」
ティーリアは夫を見上げた。
「お願いですから、行かないで下さい!」
ユリウスとダグが顔を見合わせた。
「お願い… あの子のことは諦めて。貴方のほうが大事なの!」
「何、馬鹿なことを言っているんだ、ティナ。」
ジュリアスが穏やかに応じる。
「貴方の子供じゃないわ!」
「…。」
「…。」
困惑したのは、傍観者の二人だった。
「あんな子!」
「やめなさい!」
ジュリアスが声を荒げた。ティーリアだけでなく、傍観者達も背筋を振るわせた。
「…済まない、取り乱した。」
ジュリアスがユリウスに詫びた。
「ティナ、ラジド家のファル殿も一緒なのだ。助けないとラジド殿に申し訳が立たない。」
ジュリアスが妻の肩を抱いた。
「心配はいらない…。」
◇◇◇
「…心配はいらないわ。ダグが助けてくれるもの。」
微笑んで、ファルは眠っているアンジェの髪を撫でた。昼間、見世物小屋へ行った帰り、賊に馬車を急襲されてそのままこの砦に連れてこられたのだった。連中は、ファルとアンジェを引き離そうとしたが、アンジェが砦を壊さんばかりに泣くので、諦めて二人を一緒にしている。
閉じこめられた部屋の窓からは海が一望できた。この砦の最上階である。出入口の扉には閂がかけられ、ひとつある窓から差し込む月の光だけがたよりである。窓は岩をくりぬいたもので格子もない。少しかがめば通れるほどの大きさで、ファルなら十分、通れる。しかし、窓からは逃げられない。鳥でもない限りは。
『ここから海に飛び込んで逃げようなんて考えるな。下は岩場で、潮の流れも速い。』
彼女達に水と食事を持ってきた男が釘をさしていた。
自分ひとりなら、とファルは考える。奴らの目をかいくぐって逃げることも可能だろう。彼女は剣も駱駝も馬もユリウスよりずっと上手だったから。しかし、アンジェを連れては駄目だ。連中がコルベルト家に身代金を要求したことは気づいていた。なら、助けがくるまでおとなしくしていよう。あのご当主とダグは黙っちゃいないだろうから。そして、ファルはくすっと笑った。彼女の幼なじみは、あてにならないだろうなぁ。
星空を眺めていると流れ星が海に向かって落ちていく。
「星が降ってくる。『星の降る井戸』にしては大っきいわよねー。」
願い事の叶う「星の降る井戸」の話。寝物語にエミールがいつも話してくれたっけ。
「アル・カドルの夜じゃないけどね…」
ファルは、天に向かって小声でいった。
「神様、どうか…」
◇◇◇
馬は、とぼとぼと歩いていた。コルベルト家の荷馬車にしては、貧相な仕立てだった。荷台には大きな甕が八つ、皮の蓋がされている。中身は身代金に要求された財貨が入っている。ジュリアス・コルベルトは、馭者にゆっくり走るように促した。頭まですっぽり頭巾を被った馭者は時々、横目で主人をみた。
「そろそろ、射程距離に入る。」ダグは小さな声でジュリアスに言った。
「砦が見えてきた。射手も数人いるようだ。」ジュリアスも小声で応じる。
「馬車を止めろ。」
ダグが手綱を引いた。
合図は、ユリウスのあげた白煙だった。ユリウスたちは弩で打ち込んだ縄を伝って海側から砦に忍び込んだ。その数、四、五人あまり。砦で構える射手を倒し、ジュリアスに合図を送ったのだ。それとともに荷馬車の甕から短弓を構えた射手が飛び出し、砦の見張りを射抜いた。
ジュリアスとダグは、馬車を飛び降り、長剣を構えて砦になだれ込んだ。他の者もそれに続く。砦で激しく剣が音を立てた。
「ご当主、ご無理なさらずに!」
ダグの軽口にジュリアスが笑みで答える。ジュリアスは、襲ってくる剣を交わしながら砦の中を目指していた。
「火だ!」
誰かが叫んだ。
◇◇◇
「なんだか、空気が落ち着かないわね。」
赤くなり始めた水平線を見ながらファルは呟いた。
アンジェが愚図りながら目を覚ます。
「おはよう、アンジェ。『お・は・よ・う!』」
ファルは大きく口をあけてアンジェに呼びかけた。アンジェがファルの口許を見て真似しようとしている。
「お、お、おはよ!」たどたどしくアンジェが言葉を発した。
五歳になるだろう幼女は、うまく言葉がしゃべれなかったのだ。しかし、人の言葉は理解している。それでもしゃべれないのは、何かあるのだろうか?
ファル達がコルベルト家にいるようになってから、アンジェはファルの顔をみて言葉をしゃべろうとしていた。
「さ、もうじき帰れるわよ。きっと『お父さん』が迎えに来てくれるから。」
アンジェがにっこりと笑った。
扉の向こうで、何かが激しく争う音が聞こえる。ファルは、アンジェを抱きしめた。
「始まった…」
彼女は、アンジェを抱いて窓際によった。場合によってはここから飛び降りてやる。
扉が数度、激しく音を立てた。幾度めかに木板に亀裂が入り、次に蝶番が折れて、扉そのものが部屋に倒れこんできた。ファルはとっさに背を向け、アンジェが何も見なくてすむように抱きかかえた。が、自分の顔はそむけない。倒れた扉の上に、彼女らを誘拐した連中の一人が仰向けに倒れ、その甲冑の急所からユリウスが長剣を引き抜いていた。
「ウソ…」
ファルの顔が引きつる。
「大丈夫?」そういった少年の笑顔は幼なじみのだった。ただ、顔や衣服を汚している血が、いつもの彼と結びつかない。隊商でもどこでも争いになったらまともに剣も使えず、逃げ回るだけなのに。
「何しにきたの?」ファルは、間抜けな質問をした。
声を出して笑ったのはユリウスだった。
「助けに来たに決まってるだろ。下で、ご当主とダグが敵を倒している。」
ユリウスがファルの手を握った。
「行くよ。」ファルがその言葉に頷く。
三人が部屋を出て階段を下りようとすると、下から煙が立ち昇ってきた。その間から赤い炎が見える。煙で激しく咳き込む。
「火をつけるなんて、何、考えてるの!」
「ご当主が砦の中に入った。焼き殺す気なんだ。」
「ばかな連中!」
「ああ。」
彼らはもとの部屋に戻った。
「後は…」
二人が正面の窓を見る。
「冗談でしょ!」
ファルが声を荒げた。
「アンジェもいるのよ! それにここから飛び降りたら、岩にぶつかって、潮に流されて、死んじゃうって!」
「岩場はないよ、この下。上ってきたからわかる。」
ユリウスはファルの手を引いて、窓のところに立った。
「僕らは、罪を犯したわけじゃない。」
「う、うん。」
「だから、神様が守ってくれる!」ユリウスが真顔で言った。
ファルが頷く。ユリウスは、剣を投げ捨てた。ファルの手を力強く握る。
「いち、に、の!」
ユリウスの声を合図に子供達が宙を舞った。
「なんてこった!」
火で上階への道を閉ざされたダグは、窓の向こうに宙を舞っていく子供達をみた。彼の肩越しにジュリアスも見ている。
「ダグ殿! 後を頼む!」
ジュリアスは剣を捨てると、そのまま窓から海へ飛び込んだ。
◇◇◇
沈んでいく・・・。
身体がどんどん沈んでいく。何処まで沈むんだろう。
ファルは大丈夫かなぁ・・・。
ふいに沈みが止まった。何かがユリウスの腕に絡み付いている感じがした。彼は薄目をあけた。彼の左腕に黒いものが巻きついている。それがゆっくりと彼を引き上げ始めた。ユリウスは、その黒いものの向こうに人影を見た気がした。再び、視界が暗くなる。
◇◇◇
ジュリアスは、ファルを見つけた。
水面に浮かび上がってきた少女の胸にはアンジェの姿がある。彼らを助けるために戻った船に二人を引き上げる。彼も船に上がると辺りを見回した。ラジドの若殿がまだ姿を見せない。
「お館様、お嬢様とラジドの方が気がつかれました!」
リュードの声にジュリアスが振り返った。ファルが咳き込みながら彼の腕を掴んだ。彼女の黒髪から海水が滴り落ちている。
「ユ、ユリウスは!」
ジュリアスは、一瞬、怪訝な顔をしたが、首を横に振った。
「まだだ。」
ファルは、船べりを両手で掴むと船から大きく身を乗り出した。できるだけの声を張り上げた。
「ユリウスー!」
ジュリアスは、再び、海に目をやった。彼の視線の先に何かが動いた。思わず、飛び込む。
「お館様!」背中でリュードが叫んでいた。
何かに導かれるようにジュリアスは泳ぎ続けた。彼は波間に金色に輝くものを見つけた。流されそうになりながらも、必死にそれに近づいた。
波間に漂っていたのは、ユリウスだった。海面から顔だけを出している。目をつぶっているのは気を失っているのだろうか。彼がユリウスを掴むと急に少年の身体が沈んだ。沈んだ身体の向こう側にジュリアスは人影を見た。
『人魚!?』
いや、その影はとても懐かしい女人の姿だった。彼女は少し微笑んで、そして波間に消えた。
まさか…?
「お館様!」
リュードが手を伸ばして、ユリウスの身体を掴んだ。彼を船に引き上げる。
「お館様も!」
引き上げられながら、ジュリアスは何度も波間を見た。が、彼女の姿は二度と見えなかった。
◇◇◇
「…髪を染めておられたとは。」
「…ご当主様も、でしょう。それは白髪じゃない。」
ジュリアスの染め残しのひと房の金髪に、赤毛に戻したユリウスが笑った。桟橋に仲良く並んでいる。じき、ユリウス達の乗る船が出港するのだった。
「ヘンナで染めています。金髪のほうが周りに気を使わせるし、目立ちすぎますから。これでも赤ん坊の時は赤毛だったそうです。」
少年が苦笑を浮かべた。
「ファル殿が『ユリウス』と呼んでおられた。アラブの呼び方ではありませんね。」
「母がつけてくれた名だそうです。」
「?」
「母はサラセンの人だと聞いています。私を産んでなくなったと。」
「…。」
「『ユリウス』というのは西国の呼び方です。でも、ハールーンは、そう呼んでくれます。」
「アラブの商人には似合いませんから、普段は『ユーリ』と。」
「…。」
「…実の父母のことがわからなくてもいいんです。
ハールーンが良くしてくれますから。早く大人になって、彼の役に立ちたい。」
ジュリアスが微笑んだ。
「…ご当主は?」ユリウスがジュリアスを見上げた。
「当分は、心配、なくなりました。釘をさしておきましたから。」
ユリウスが小首をかしげる。
◇◇◇
ここに来る前、ジュリアス・コルベルトはサイプラスの王に会っていた。
『…私の顔がわかるだろう。』
彼は金髪をかきあげた。息がかかるほど王に近づき、その耳元に囁いた。
『ならば、この島の王でいるにはどうすればよいかもわかるはずだ。今後、当家への手出しは、ないものと確信する。』
彼は笑みを浮かべて王に言ったのだった。サイプラスの王はぞっとする冷笑に今は亡き獅子心王と同じ顔を見た。
◇◇◇
「そう… 静かでいられます。」ジュリアスは言った。
「でも…。軍が向こうを発ったとか。休戦は破られ、戦さが始まります。」
「ここは、補給地になります。当然のこととして。」
「そうなったら、寄り道できないな。」
「戦場へは?」
「私は『商人』です。」ユリウスが笑った。「『軍人』じゃありません。」
ユリウスが大きく伸びをした。
「ひと財産、築きます。」そういって少年はにっこりと笑った。
ジュリアスから贈られたフランクの衣装が妙に似合っている。金髪の血を引いているからだろうか。
「ファル殿が手を振っている。」
ジュリアスがユリウスを船に促した。
わたり板の袂でファルがユリウスを待っている。
少し離れたところでは、ダグが港の花々と別れを惜しんでいる。アンジェがファルにしがみついて駄々をこね、見守る母親のティーリアが困ったが幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「娘を諦めてくれ。」といった母親だった。だが、無事に帰ってきたアンジェの第一声、『母さま!』という声に彼女は自分を取り戻したらしい。後から聞かされたのは、アンジェがジュリアスの実子ではなく、それも父親の知れない子供だということ。貴婦人の名誉に関わることだから細かい話は無しだ、とダグは話を仕舞った。
それでいいと思う。ユリウス自身も父母の知れない子供だ。だが、ハールーンは、そんなことに関係なく、慈しんでくれている。ジュリアスもそうなんだ。
「じゃあね、アンジェ。」ファルがほお擦りして別れを惜しんだ。アンジェをティーリアに返す。
「ダグ、早く乗らないと置いてくわよ。」
ファルの声に最後の花と熱い抱擁を終えた男は、しぶしぶと船にやってくる。
「不思議なもんだな。」
「何?」
「あの二人、おんなじ後姿、してんだぜ。」
ダグは、顎でジュリアスとユリウスを指した。
「そう?」ファルが首を傾げた。
「名前が一緒だからな。『ユリウス』はイングランドじゃ『ジュリアス』だ。」
「ふーん。」興味なさげにファルが相槌を打った。
ユリウス達が戻ってくる。ダグは軽くジュリアスに会釈するとさっさと船に乗り込んだ。
そんなダグにユリウスが苦笑を浮かべる。
「じゃ、コルベルト様、行きます。」
ファルを促して、ユリウスがわたり板に足をかけた。ふと、ファルがジュリアスに振り返る。
「差し出がましいようですが、ご当主さま、」
「はい?」
「アンジェには、兄弟がいたほうがいいと思います。」
ジュリアスが困惑した。
「一人っ子じゃ寂しいです。兄弟は、多いほうが楽しいもの。」
「ファル。」ユリウスがたしなめる。
「子供が多いと夫婦仲も良くなるものよ。」
「ファル!」ユリウスの叱責にファルが舌を出す。
「すみません、ご当主。」
ジュリアスが苦笑を浮かべたが、それはすぐ微笑みに変わった。
「おっしゃる通りかもしれません。」彼の返事にコルベルト夫人が少し頬を赤らめた。
ユリウス達が乗り込むと、船はゆっくり桟橋を離れた。ハサンの待つダミエッダの港に向かう。
桟橋のジュリアス達の姿がどんどん小さくなる。彼らが見えなくなるまで、ユリウスとファルは、甲板にいた。
「ねえ、」ファルが話しかけた。
「何?」
「…あんなに強かったんだ。何で、隠してたの。」
「別に隠してたわけじゃないけど。」
「だって…」
「…前に言われたことがある。
『人は自分の大事なものを守るために強くあればいい』って。」
「大事なもの…」ファルが呟く。
「あの時は、強くありたいと思ったんだ。」
少年は少女にはっきりとそう言った。
少し照れ臭そうな海色の瞳が少女を優しく映していた。
「星の降る井戸」シリーズの1編です。
先に上梓してある「商人の客」「婚礼隊商」と共にお楽しみください。