18章12節:英雄譚の始まり
理亜は泣くことを止めた。
赤いランプだけが光る薄暗い通路に横たわる真白を、虚ろな目で静かに眺めている。
理亜の心は砕け、悲しみすら麻痺してしまったのだ。
真白の行く末を覚悟していた筈のフィーネも、いざその時が訪れたら耐え切れなくなったのか、隣に座っている弦義に抱きついてすすり泣き始めた。
弦義は何も言わず、狼狽えもせず、ただ優しく抱き返す。真白との付き合いが最も長い彼が一番辛いだろうに、その気持ちを隠して。
「主人公」は喪われた。だが世界は、現実は無慈悲に動き続ける。
通路の奥から複数人の足音が迫ってくる。
弦義はフィーネの両肩を押して離れさせ、剣を拾って応戦しようとした。
しかし、理亜がそっと立ち上がり、左腕を広げてそれを制止する。
「理亜!」
「あなたはフィーネと……真白の傍に居てあげて」
「まだ退かないつもりなのか! さっきの話がホントなら、やっぱりあんた自身は戦えないんだろ!?」
「……そうかもね」
淡々と答えながらも逃げようとしない理亜に、弦義が苛立ちを含んだ眼差しを向ける。
直後、兵士たちがやって来た。
「死にたくなければ両手を上げてこちらに来るんだ、さあ!」
兵士の一人が警告する。理亜は彼らを睨みつけるばかりで応じようとしない。
「頼む。お前達のような子供まで撃ちたくな――」
「本当に悪いのが誰かなんて、まだ分からないけれど……」
理亜が言葉を遮って呟き始めると、兵士たちの間に緊張が走った。
「今はただ、こう思うわ……あなた達を生かしてはおけない」
彼女はそう続け、右手を突き出した。
同時、兵士たちが先制攻撃を行う。
そして、自らを守る術がない理亜を弾丸が容赦なく貫く――筈だった。
――え?
目の前で起きたことに、理亜以外の誰もが困惑した。
全ての弾丸が理亜に命中する寸前で突然、消え去ったのである。
よく見てみれば、彼女の足元にはランプの赤をも飲み込む「黒」が広がっているではないか。
「ひ、怯むな! 撃てッ!」
兵士たちが銃を乱射する。床を侵蝕している闇が禍々しく湧出し、再び弾丸がことごとくかき消された。
あの子は一体なにをした? 「理亜の《秘蹟》は他者に《秘蹟》を与えるもの」という真白の考えは充分に説得力があるし、当人もそれが真だと実感していたように思えたが。
理解できないでいる私をよそに、理亜は攻勢に出た。
湧き上がる無数の闇が球になり、高速で飛翔する。
兵士たちはまとめて身体を射抜かれ、穴だらけになって倒れた。
***
それから戦いが終わるまで、そう掛からなかった。
理亜が敵を殲滅していき、根本を潰すために研究所の外まで辿り着いたところ、秘密部隊は未確認の力を怖れて撤退していったのである。
理亜は全員が去っていったのを確認すると、弦義とフィーネの前に戻った。
「理亜さん、さっきのは……」
まだ涙を流しているフィーネが恐る恐る問う。
理亜はこともなげに答えた。
「『《秘蹟》は一つしか持てない』なんてこと、誰も言ってなかったわよね?」
「理論上、不可能ではありませんが……」
「『何もかも破壊したい』と思った。これはそういう力よ。ただ壊すだけ。他には何もできない」
第二の《秘蹟》。フィーネの反応を見るに相当珍しいことらしい。
《秘蹟》とは強い意志が発現させる力である。その意志を、強度を保ったまま全く別の方向に捻じ曲げるというのは決して簡単なことではない。そう考えると、確かに《秘蹟》を複数持つというのは例外的なのだろう。
すなわち、理亜にとって真白の死とはそれができてしまうほどの衝撃だったのだ。
理亜の新たな《秘蹟》は真白のそれのような万能型であったが、受ける印象は全くの逆だった。
後者が真白の優しさや憧れを体現した「光」であるとするなら、前者は怒りと絶望を体現した「闇」。或いは真白から押し付けられた――脇役であることを望んだ理亜を強制的に主役の座に引き上げる、最悪の「呪い」と言ったところか。
「なあ、これからどうする?」
フィーネが幾らか落ち着きを取り戻した頃、弦義がふとそんなことを聞いた。
理亜は迷いなく答える。
「私は真白の代わりに世界を救うわ」
「あんた、本気なのか……?」
誰よりも真白に寄り添っていた筈の弦義が、どこか弱々しい調子で問う。
当の真白が居なくなったことで信念が揺らいだのか。それとも敵の強大さを実感し、救世という道の果てしなさに絶望したのか。
「真白は……死んだ。だけど、人々はこれからも変わらず無責任に英雄を求め続ける。だったら、私がその望みに応えてあげる。幸い、私には自分で戦う力も、戦える仲間を増やす力もあるようだから」
「……分かったよ」
「止めないの?」
「止めても聞かないだろ。真白と同じで」
「……そうね、ありがと。あなたとフィーネの方は?」
「なんでそんなことを聞くんだ?」
「『無理して付き合わなくていい』ってこと。私は自分がやるべきことをやる。あなた達もそうしたらいい」
「俺は……」
弦義は言葉を詰まらせた。
今の彼はさながら使い手の居ない剣のようであった。
己の判断だけで行動すると、不良狩りをしていた頃のように他者も自分自身も無軌道に傷つけてしまうから、「自分を上手く使ってくれる誰か」を求めるか。
悲しくなるくらいに不器用な男だ。
一方、フィーネはしばらく無言であったが、やがて確かな意志を感じさせる表情で答えた。
「私、《トロイメライ》を起動させようと思います」
「おい、フィーネ……」
弦義が目を見開いた。
理亜が救世の英雄になる道を選んだように、フィーネもまた人間らしい人生を捨て去ろうとしている。
「もう真白さんもお父さんもお母さんも他の皆さんも戻ってきませんが、せめてこれから死にゆく人々は救いたいのです」
「そう……代わってあげられなくてごめんなさい」
理亜は口では謝罪しても、態度はいたって冷淡であった。フィーネの言っていることの意味は理解している筈だが、壊れてしまった心にはもはや闇と呪いしか残っていないのだろう。
彼女は二人に背を向け、ただ一言。
「さよなら」
それだけ言って、去っていった。
一人、やるべきことを決められず取り残された弦義は泣くでもなく怒るでもなく、静かに虚脱している。
そんな彼をフィーネは哀れむように見下ろし、手を差し伸べた。
「弦義さん」
「なんだよ」
「よろしければ私のこと、守ってくださいますか? 《トロイメライ》がお父さんの説明通りの代物なら、私は戦えなくなってしまうでしょうから」
弦義がフィーネの顔を見上げる。
彼の瞳には失われかけた光が再び灯っていた。
「俺なんかでいいのか」
「もうあなたと理亜さん以外、信じられるもの、頼れるものが何ひとつ残っていないのです。だから……あなたが良いのです」
剣は、新たな所有者の手を取る。
そして二人は共に、《トロイメライ》がある部屋へと繋がる扉を開いた。
理亜とは違うやり方で世界を救う為に。不朽の夢想を始める為に。
この日、理亜は「端役」として生きることをやめて「主人公」になった。
これから彼女がどのような運命を辿っていくのかは分からない。
でも、不思議と「呆気なく終わることはない」と確信できた。
そこに当人や他の人々の幸福があるのかはさておき、この子の物語はきっと「英雄譚」と呼ぶに相応しいものになる――なぜだかそんな予感がするのだ。




