2章8節:漆黒の館
私とライル、ウォルフガングは、ネルが示した街区に立ち入っていた。
ここは風景こそ一見して他のスラム街と大差ないが、周囲の人々から向けられる視線の属性が明らかに異なっている。
通常のスラムに住んでいる者は大半が無力な貧困者や迫害された病人であり、攻撃的な輩は悪目立ちするものの意外と多くはない。大抵の場合、住人が私たちに抱く感情は「余所者に対する好奇心や恐怖」なのだ。
だが一方でこちらは、もっと明確で純粋な悪意と退廃に満ちている。
私を見て舌舐めずりする男。ライルやウォルフガングに見せつけるように衣服をはだけさせる女。
怪しげな薬草を食み、「お前たちもやってみろ」と言わんばかりにニヤついている者たち。
短剣を持ってこちらを狙う、複数の人影。
この場にまともな人間は誰一人として存在していない。誰もが「貧しい」とか「身体が弱っている」とかではなく、心まで獣に成り果てているのである。
「いや~、『王都最悪の闇』なんて噂を聞いたことがあるが、マジっぽいな」
「ライルが引いてるっ!?」
「俺は自分が生まれた街が最もクソだと思ってたんだが、ここはアレに匹敵しそうだぜ」
「やれやれ、五年前の己の力不足が嘆かわしいよ。美しかった王都がこんな風になってしまうとは……」
そんなことを言いながら、ウォルフガングは辺りを見渡してロングソードを抜いた。
どうやら、周囲に展開してこちらを狙っているならず者たちを処理してくれるようだ。
私がやってもいいが、ここは不殺の技術に長けた彼に任せておこう。
「一人は生かしておいてね。ネルちゃんは『この辺にある大きい屋敷』って言ってたけど、具体的な場所を誰かに案内してもらわないといけないから」
「安心しろ。言われずともこの程度ならば、命のやり取りすら発生せんよ」
私たちがあまりにも余裕ぶって会話していることに腹を立てた男が、「舐めてんじゃねえ!」と叫びながら襲い掛かってくる。
それから一人、二人と続いていき、最終的には二十を超える賊共が押し寄せてくる。
そんな攻勢に対し、ウォルフガングは剣を振りすらしない。
ただ構え、息を吐いてグリップを強く握り込んだ。
それだけの動作で空間が全方位にわたって歪み、振動し、その衝撃によってならず者たちはみな失神していった。
《術式》でもなければ何らかの聖魔剣の力でもない。どちらかといえば奇術の類である。
彼は物理的には何ら影響を与えていないのだが、圧倒的な殺意を発することにより、敵に対して「攻撃をした」という錯覚を与えたのだ。
戦闘慣れしている者ならともかく、「対等以上の相手との殺し合い」など殆ど経験していないであろうならず者が、《剣神》の殺意に抗える道理はない。
「相変わらずとんでもないぜ、先生は。俺もそういう技が欲しかったな……」
「程度の低い相手にしか効かんがね。俺からすれば、こんな技よりもお前の器用さの方がよっぽど優れていると感じるが」
「そういうもんですかね?」
「ああ。俺など少しばかり剣の腕が立つだけのつまらん男だからな……さて、一人叩き起こして尋問するがそれで良いか、リア」
「うん。お願いするよ」
***
私たちはならず者の一人を脅し、「余所者が頻繁に出入りしている大きな屋敷」へと案内させた。
全体的に蔦が這っており、ところどころ壁が崩れている漆黒の館。
案内させた男いわく、ここは凶暴なスラムの住民ですらも立ち入らない場所であるらしい。
入ったら最後、二度とその姿を外で見かけることはなくなるのだと。
彼は「近づくのすらも嫌だ」と語り、案内が終わるとすぐに去っていくのであった。
「うわ~、ホラー映画とかに出てきそう」
「『ほらー』? 『えいが』? なんだそりゃ」
「あ、気にしないでライル。さあ入ろう」
「え~。正直キツいぜ。不気味過ぎる」
「なにヘタレたこと言ってるんだよ~! 元凶を倒すことはネルちゃんを救うことにも繋がるんだよ?」
「クッ……そう言われると弱い! 全く、意地悪な御方だぜ……」
そんな雑談をしている最中にもウォルフガングは手際良く錠を破壊し、扉を開放していた。
「中、暗いな……《光波》使っとくか」
ライルがそう言うと、彼の手のひらの内側に小さな球状の光源が生まれた。
《光波》は本来、敵を焼き滅ぼす光線を放つ攻撃用の《術式》だが、彼のそれは練度が低いため攻撃性を持たない光を生み出すに留まっている。
しかし、こういった建物や遺跡を探索する際にはそれがむしろ有り難かった。
ライルが生成した光を頼りに、トラップを警戒しながら館を進んでいく私たち。
内部には何の変哲もない生活スペースが広がっていた。
明かりがついていないので当然だが、生活感自体は無い。
主は今現在、ここには居ないようだ。
部屋を幾つか越え、やがて書庫のような場所に辿り着くと、床下から妙な音が聞こえてきた。
人とも獣ともつかない、何らかの生物の咆哮が微かに響いている。
そして一見、周りの床と区別がつかない大きなフタを開けると、そこには地下への階段があった。
「ん~、どうしよ。あんまり広くなさそうだし、私だけで行こうかな」
「マジかよ。一人で平気か?」
「大丈夫。私、強いから。ライルはこの階で資料を漁ってて。ウォルフガングは彼の護衛をお願い」
二人が頷いたのを確認するとすぐに、私は《神炎剣アグニ》を召喚して松明代わりに使いつつ、階段を降りていった。
地下室に降りた私を出迎えたのは、一本の通路に沿うように大量に置かれた鉄製の檻と、そこに閉じ込められた者たちだった。
横たわり、ケタケタと笑いながら濁った目をこちらに向けてくる人間。
唾液を撒き散らしながら檻を叩く魔族。
呪血病であるのか、自らの黒化した肉体を掻き毟っている獣人。
彼らの怨嗟と狂気に満ちた視線に耐えながら突き進んでいくと、儀式用と思しき大部屋に到った。
床に描かれた魔法陣、整理されていない書籍や何かの書類など気になるものはたくさんあったが、すぐに目を引いたのは、壁に着けられた鉄の拘束具で片手を固定されている獣人の少女だった。
右腕を喪失していたり、顔の右半分が欠けていたりと変わり果てていたが、その姿には見覚えがある。
《蒼天の双翼》のメンバーであった軽戦士だ。まさか生き残りが居たとは。
虚ろな目をしているものの、まだ辛うじて正気を保っているように見える彼女の前にしゃがみ、拘束具を破壊した上で声を掛けた。
「ねえ、大丈夫?」
「だれ?」
「きみを助けに来たよ」
「……そっか」
「誰がきみをこんな風にしたの?」
「……《狩人の刃》。そのメンバーの女、ルグレイン女伯のマリアンナ」
「ふむ……なるほど、そう来たかぁ」
かの冒険者ギルドが関わっていることは「最悪の可能性」として想定してはいたが、まさか、あの女がメンバーだったとは。
ルグレイン女伯マリアンナと言えば、何かと黒い噂の絶えない貴族だ。
領地経営や外交などの政治を全て夫と配下に任せ、不審な組織を領内に招き入れて交流を持ったり《術式》の研究にのめり込んだりしている享楽主義者らしい。
この屋敷は彼女の実験場と言ったところか。戦いの中で辛うじて生き残った獣人の少女は「実験動物」として引き取られてしまったのだろうな。
さて。あの女が関わっているとなると、決戦の場は彼女が支配しているルグレイン伯領内になるだろう。連中の方も私たちを襲撃した以上、逃げるのではなく全力で迎え撃ってくる筈だ。
次の行動を考えていると、少女は残った片手で私の肩を掴み、激情を露わにした。
「ねえ、私を助けてくれるんでしょ。だったらさ……アイツらを殺してよ! みんなを殺したアイツらが許せないの!」
「きみ以外はもう……?」
「うん……だから、お願い」
「それで良いの? きみはまだ生きてるし、そんな姿であっても並の冒険者よりは強い筈。だから自分で復讐しなよ。その方が悔いが残らない」
「私はここで終わりで良い」
「と、言うと?」
「……もう一つお願いなんだけど、みんなのところへ送ってほしいよ」
なんだ、それは? 私に復讐を託し、自分のことは「殺してくれ」と?
軟弱だ。甘えている。自ら責任を持って怒りを晴らす覚悟も無い癖に怒りを語るな。
――そう言いたかったけれど。
無理だった。一度死んだ身としてはその無力感も、絶望も理解出来てしまうから。
私は前向きなヒーローなんかじゃない。「頑張って生きてみろ」なんて言うことは出来ない。
だから。
「ホントに良いの?」
「うん。楽にして……」
「……分かった」
だから、私は剣を抜いたのだ。
ヒーローにはなれなくても、共に理不尽に対して復讐することは出来るから。
「きみの怒りは私が連れていくよ。一緒に復讐をしよう」
「うん。ありがと」
「……どうか、地上で幸福な来世を」
天神信仰における死後の救済を祈る言葉を伝え、刃を一閃するのであった。
***
少女を死なせた後、しばらく部屋の資料を見て回ってから地上に戻ると、ライルたちが幾つかの書類を持って待機していた。
「お、戻ってきたか。そっちはなんかあったか? 俺は面白いもんを見つけたぜ」
「ここがルグレイン女伯マリアンナの実験場だってのと、あの女が《狩人の刃》の一員で、《蒼天の双翼》を壊滅させてたってことが分かったよ」
「噂に聞く放蕩貴族女に、序列第八位と来たか。連中が今回の件の黒幕って訳だな」
「そういうこと。で、『面白いもん』って?」
「ああ、この記録を見てくれ。まさにそのマリアンナと、ずっと調べ回ってた《エグバート商会》の取引記録だ。連中は提携関係にあって、商会の本拠地もルグレイン伯領にあるらしい」
「ふぅん……」
取引の内容そのものは、人さらい共の拠点で見たものと大差ない。物品や人身の売買について綴られている。
だが重要なのは「誰が取引しているか」という点であり、そういう意味でこの資料は決定的であった。
なんという僥倖だろうか。まさか二つの敵が繋がっていたなんて。
ここで勝てば、先日の依頼から続く一連の戦いがようやく真の終わりを迎えるのだ。
「どうする、リア。ルグレインを叩くか?」
ウォルフガングの問いかけに対し、私は頷いた。
「当然。でも他のパーティにも協力して欲しいから、動くのは夜まで待とう」




