9章1節【第二部開始】:ある日、私は学校をずる休みした【挿絵有り】
これは、私の一度目の人生の記憶。
かつて「御剣星名」という名前を持って「あっちの世界」で生きていた頃の、ずっと忘れていた記憶。
ある日、私は中学をずる休みした。
学校に行きたくないと思うのはいつものことだけれど、あの時は特にそういう気分だったのだ。
きっと前の日に「同級生から教科書を捨てられる」という酷い嫌がらせを受けたからかも知れない。
母が仕事に行った後、私は寝癖のついた伸ばしっぱなしの茶髪を整えることもせず、ベッドに潜ってスマートフォン用のMMORPGを起動する。
ゲームの中に広がるファンタジー世界において、私――「アステリア」――は現実よりもずっと強かった。
もちろん課金をしている最上位プレイヤーには及ばない訳だが、それでも小学生の頃から継続的に遊んでいるお陰でそれなりのところまでは行ったのだ。
下らない夢想だとは理解しつつも「現実でもこんなに簡単に強くなれればいいのに」と思わずには居られない。
昼飯も食べずにひたすらゲームに没頭し、気がつけば夕方になっていた。
ユウキは私と同じく部活に入っていないので、もう帰宅を済ませているだろうな。
まさか私のことを気にして家に来たりなんてしないよな?
そんな風に考えてしまったせいだろうか。嫌な予感というのは当たるもので、玄関のチャイムが鳴った。
しぶしぶ扉を開けると、そこには予想通りの人物に加え、時崎黎司まで居た。
無言で扉を閉めようとする私。押し入るユウキ。
「待ってくれ! 今日ずっと心配してたんだぞ!」
「……余計なお世話」
「レイジ兄ちゃんも来てくれたんだぞ!」
「うざ……頼んでないっつの」
私の悪態を意に介さずユウキは家に上がり、レイジは申し訳なさそうに頭を下げながらそれに続いた。
「すまん、ユウキの奴に押し切られてな。『誰でも学校サボりたくなる時はあるもんだし、そっとしておくべきなんじゃないか』と言ったんだが」
「……別にいい」
私は俯いて言った。
小学生の時に出会ってから幾らかは付き合いを重ねたというのもあり、レイジが悪い奴でないのは何となく分かっていたが、やはりどうにも苦手だ。未だに向き合って話すことが出来ない。
それから二人は私がお腹を空かせているのを知るとスーパーに行って、帰ってきた後はレイジが料理をしてくれた。
私の夕食はたいてい孤独か、そうでなければ不機嫌な母親と二人っきりで気まずいものだった。
それが今は、ウザったいけど何だかんだ無視出来ない幼馴染と、怖いけど根は良い奴かも知れない知人が一緒である。
「ご飯は誰かと食べた方が美味しい」みたいなのは下らない妄言だと思っていたが、この時はそれをほんの少しだけ実感した覚えがある。
その後、私たちは他愛のない話で盛り上がった。
初めは学校をサボった理由についてユウキが聞いてきたけれど、私が適当に「ダルかったから」と誤魔化すと、それ以降は触れないでいてくれた。
だが、すっかり外が暗くなった頃、「現実」がやってきた。
母は帰ってくるなり威圧的な足音を立てて私の部屋に迫り、鬼の形相で私を睨むと手を振り上げた。
怯えて目を閉じる。でも、頬をぶたれることはなかった。
レイジが母の手を掴んでいたのだ。
「あ、あなた……何なのよ!」
「まあ、セナの友達っつーのかな。それより、手を上げるのは駄目だろ」
「何も知らない友達風情が人の家の事情に口を出さないで! これは教育なの! ねえセナ、あなた学校行かなかったでしょう!? 電話で先生から聞いたわよ! この出来損ないが!」
母が大声でまくし立てる。私は恐怖で何も言えなくなっていた。
代わりにレイジやユウキが庇ってくれる。
「確かに俺は何も知らないが、だからって見て見ぬ振りは出来んだろ。なあ、怒鳴るんでもなくぶつんでもなく、セナと向き合ってゆっくり話す時間を作るべきじゃないか?」
「セナちゃんだって頑張ってるんです。どうか怒らないであげてくださいっ!」
「部外者が何様のつもり!? まだ学生のあなた達には分からないでしょうけど、私は一人で働いてこのどうしようもない娘を養ってあげているの! それを否定される謂れなんてないわよ!」
「否定はしてない! 俺も母子家庭だから大変さはよく分かる! それでも、子供が辛そうにしていたら真っ先に味方になってやるのが親の務めだろ?」
「うるさいっ! 一人前に説教しないでよ!」
母は急に暴れ出し、殆ど力が込められていなかったレイジの手を振りほどく。
そして再び私を殴ろうとするかと思いきや、急に床に座り込んで泣き出すのであった。
哀れだとは思わなかった。むしろ「被害者面するな」という気持ちしかなくて、私は母を冷たく見下ろしていた。
泣きたいのはクソ親父に捨てられ、あんたにも厄介者扱いされている私の方だよ。
結局、レイジとユウキが母を必死に宥めてくれたお陰で私が学校をサボったことについては有耶無耶になったが、裏を返せばレイジの言う通りにする機会も逸してしまった訳である。
今になって考えてみれば母は明らかに鬱病であった。本来ならば治療に行かねばならないが、「自分は普通だ」と強がって無理をしていたようにしか思えない。
あの時、母と向き合っていればそれに気づけたのだろうか。何かを変えられたのだろうか。
いや、有り得ない。
様々な出会いを通じて経験を積んだ「アステリア」ならともかく、「星名」は無力で孤独な女子中学生に過ぎない。
いったい何が出来るというのだ。そもそも、なぜ私が「私を苦しめる他人」を気遣わねばならないのだ。
***
「んむむ……あれ、寝てた……?」
目が覚めると、私は書斎にいた。
どうやら疲れて居眠りをした結果、今の今まで忘れていた記憶を蘇らせたようだ。
あの日のことは当時の私に嫌な感情ばかり残したが、今思うと決して悪いことばかりではなかった気もする。
少なくともあの二人は私を気遣ってくれたのだから。
それにしてもユウキはともかく、レイジまであれほど親身になってくれていたとは。
あんなやり取りがあったのなら苦手であるのは変わらないにせよ、私はもっとあいつのことを覚えていても良かった筈だ。
それなのにどうして墓標荒野でユウキがその名を出すまで、すっかり忘れてしまっていたのだろう?
何にせよ悪に堕ちたレイジを討たねばならなかったことに変わりはないから、躊躇を生みかねない余計な思い出を忘れていたのは好都合だったかも知れないけれど。
さて。もう深夜だが、もう少し退屈な書類仕事を頑張ろう――と意気込んだところで、書斎の扉が開いた。
そこに居たのはフリフリのメイド服を着たルミナス帝国皇女、チャペルであった。
「……ご命令通りお茶をいれてきました」
「お、ありがとね。エストハイン産のやつは馴染みがある味で好きなんだよね~」
「あなたの好みなんて知りません……」
「一応、今はきみの『お嬢様』なんだから好みを知っておいて損はないと思うけど。にしても、メイド服を発注して良かったよ。私も相当美少女な自信はあるんだけど、チャペルちゃんの似合いっぷりには敵わないや」
「あなたに褒められても嬉しくありませんっ!」
「やっぱり魔王様に褒められたかった?」
「こ、この人は本当に……! これ、チャペルが全部飲んじゃいますよ!?」
怒った顔でティーポットを見せるチャペル。相変わらず可愛げがあり過ぎて微塵も怖くない。お茶を捨てるのではなく「全部飲む」と言うところもまた可愛い。
「なはは、ごめんって」
「はぁ……どうしてチャペルがこんなことを……」
「『ルミナス復興の目処が立つまでこの世で最も安全な場所、つまり私の傍に潜伏する』……でしょ? 我慢しなよ」
「うう……屈辱です……」
チャペルの悔しげな顔を見て愉快な気分になっている自分は結構サディストなのかも知れない。
そう、私はかつての敵国の姫を召使いにしているのだ。
これも一つの復讐である。なぜ「この女を救う」という魔王ダスクとの約束を履行してしまっているのか、自分でもよく分からないが、まあ殺せないなら殺せないで辱めてやればいい。