船出
船出
喫茶フレンズから、スナックフレンズへ移行するために、母は店をリフォームした。
棚を改造して、お酒の瓶を並べられるようにした。
カウンターを伸ばして、客がたくさん座れるようにしたり、ボックス席のソファーを低くして、ゆっくり寛げるようにしたりした。
中洲のスナックに勤めた経験のある、チャコという名の女の子も雇った。
開店の日は、たくさんの花輪や生花が届いて、店は華やかに飾られた。
福は、住居と店の境目にあるドアの前に立った。
今日からこのドアの向こうでは、今までと違った世界が繰り広げられるのだ。
中洲の『丸山』で見たことは、そのほんの一部に過ぎない。
母にも、福と多恵にも新しい生活が始まるのだ。
「福、今日からお母さんの生活は昼と夜が逆転するけど、ちゃんと朝ごはんとお弁当は作るから心配しないでいいよ」
「そんなこと心配しちゃいないけど、無理はしないで・・・」
「分かってる、でもこのドアの向こうは大人の世界だから、めったなことで開けるんじゃないよ」と言い残して、母はドアの向こうに消えた。
その日、福はまんじりともせず閉店になるのを待った。
ドアの向こうから聞こえてくる音は、遠い世界から聞こえてくるようだった。
初日は招待のお客さんばっかりで、何事もなく閉店を迎えた。
ドアを開けて帰ってきた母には、お酒とタバコの臭いが纏わりついていた。
「福、まだ起きていたのかい、私は今からお客さんに付き合ってご飯を食べに行ってくるから、早く寝なさい」と言って、母はまた店の方へ戻っていった。
開店して二ヶ月ほどで、店は軌道に乗り始めた。
母の雇ったチャコの、客あしらいが上手かった事と、ママである母が美人だったことが要因だろう。母が以前、化粧品の仕事をしていたのもそのせいなのだ。
「福、ちゃんと勉強するんだよ、大学はもっとまともな所に行ってちょうだいよ」
と、最近口癖のように言っている。
「多恵のことも、気を付けてやってね、年頃の女の子なんだから」
「うん、だけどこの頃少し口数が少なくなったような気がする」
「そう、福はお兄ちゃんなんだから、よろしく頼んだわよ」
母は今のところ、新しい店のことで頭がいっぱいなのだ。
ある日の真夜中、二階で福が寝ていると、店の方でガラスの割れる大きな音がした。
福は飛び起きて階段を駆け下り、店に続くドアを体当たりするような勢いで開けた。
ウイスキーの瓶が、何本も割れている。
「こら!俺をなめてんのか、こんな店ぶっ壊すぞ!」
人相の悪い男が叫んでいる。かなり酔っているようだ。
「なんですかいきなり!一見さんに付けなんか出来る訳無いでしょう!」
母が気丈に言い返す。
福は、カウンターを飛び越えてその男の前に立った。
「なんだぁ、このガキ!」
男はいきなり福の左頬を殴った。
口の中に血の味がした。
「何をするんですか!私の子に!」
母は、男に怒鳴った。
「やかましい!」
男はもう一度福を殴った。
福は倒れなかった。思いのほか男のパンチは効かなかった。
「かあさん、警察に通報して」福は母に言った。
「テメェ!」
男はもう一度福を殴ろうとした。
「どうぞ、気の済むまで殴ってください」福は一歩前に出た。
男が一瞬躊躇した時、サイレンの音が聞こえてきた。
後で分かったことだが、男が母に絡み出した時、店を出た客が警察を呼んだらしい。
男が店を飛び出したのと、パトカーが止まったのが同時だった。
男は警察官に囲まれたが、今度は警察官に向かって怒鳴り散らした。
警察官が一人店に入ってきて、事情聴取を始めた。
母は、初めてのことでショックを隠せないので、チャコが代わって事情を説明している。
警察官は福にも事情を聞いた。福はなるべく事を荒立てたくなかったが、唇が切れていたので殴られたことは隠せなかった。
「ゴメンね、ゴメンね!」警察官が帰った後、母は福の頬を冷やしながら謝った。
「いいよ、それよりも明日から母さん大丈夫?」
「大丈夫だよ、こんなことでせっかく始めた店をやめられない!」母は気丈に答えた。
多恵が呆然とそれを聞いていた。
福は、これからも起こるに違いない今日のような出来事に、どう対処したら良いのか分からなかった。
次の日から、福は店に続くドアに一番近い部屋で寝ることにした。
この部屋は、仕入れた酒を置いておく部屋だが、店の様子が良く分かる。
母は、「そんなことしなくて良い」と言ったが、福は利かなかった。
数日後、最後の客が帰った後に異変は起こった。
店を掃除していたチャコの悲鳴が聞こえたのだ。
福は急いで店に飛び込んだ。
モップを持ったチャコの目の前に、ナイフを持ったあの男が立っていた。
「よくも警察に通報してくれたな」
男はナイフを突き出して喚いた。
「何しに来たんですか!」
母は、チャコをかばいながら、男に向かって怒鳴った。
「知れたことだ!」
男はナイフを母に向けて歩き出した。
その瞬間、福はカウンターを飛び越えて、男の後ろに立った。
「ガキがっ!」
振り向きざま、男はナイフを横に払った。
「痛っ!」
咄嗟に顔をかばった右腕の手首が、ざっくりと切れた。
「キャー!」
母が絶叫して男にむしゃぶりついて行った。
男が母に気を取られた一瞬、福の正拳が男の鳩尾にめり込んだ。
男が蹲ると、福は男に馬乗りになり、めちゃくちゃに男の顔を殴りつけた。
気がつくと、母が福の背中にしがみついている。
「もう、やめて・・・」
福の右手は、切られた傷から流れ出る血で、真っ赤に染まっていた。
数分後、男は警察に連行された。福は救急病院へ搬送され、手首を五針縫った。
次の日、福は警察で事情聴取を受けるため、学校を休んだ。